私の親は結構ドライな考え方で、
子供を育てる上で、子供に
夢や希望や情熱など、素敵なことは
一切語らない人たちだったけど
家訓みたいなのがあった。
それは、
1. 宗教は信じてはならない
2. 借金はしてはならない
3. 女性も経済的に自立して生活できるようにならねばならない。
なので、
宗教自体には惹かれないマインドになってしまったが、宗教家の人生訓みたいなのは好きで、よくNHKの早朝にやってる哲学対談みたいなのを録画して見てる。
最近見た中で深く心に残ったのは、
NHK『こころの時代〜宗教・人生〜』の↓
医師と禅僧 生と死をめぐる対話
人はどうすれば喪失を乗り越えられるのか?がんの専門医である垣添忠生さんは、妻をがんで亡くし深い喪失感を味わった。禅僧ネルケ無方さんと語り合う生と死をめぐる対話。元国立がんセンターの総長で、現在は日本対がん協会会長を務める垣添忠生さん。がんで苦しむ人を無くしたいと活動する一方、妻をがんで亡くし、深い喪失感を味わった。長い間、宗教者との対話を望んでいた垣添さんが、母をがんで亡くし、禅の道に入った禅僧、ネルケ無方さんと語り合う。生とは何か、死とは何か。人はいかにすれば喪失を超えて生きられるのか。山深くにある修行道場、安泰寺を舞台に交わされる医師と禅僧との対話。
2人とも最愛の人をがんで亡くし、そこから苦悩しながら至った境地をそれぞれの立場から語る対談番組(YouTube にダイジェスト動画あり)
垣添さんが亡くなった奥様が、今でも他の生き物の形を借りてメッセージを送ってくれているように感じたという話には、私も強く共感。
私は、初夏から秋にかけて軽やかに舞う
ちょうちょを見かけては、
今は会えない大切なあの人やこの人が会いにきてくれた、といつも嬉しく思ってたりする。
ネルケ無方さんにも興味を持ち、インタビューなどを読んでいたら、下記の言葉に出会った。
↑より、下記を抜粋し引用。
あるのは今日という1日だけ
――ネルケ住職は今年50歳を迎えられました。老いること、死ぬこととどう向き合っていらっしゃいますか。
日本人の平均寿命は、日数に換算すれば3万日以上になります。1日がトランプのカード1枚だとすると、生まれた時点で手元には3万枚のカードがあり、それを1日1枚ずつ返していく、と考えることができます。
逆に「毎日新しい1枚をもらっているんだ。年を重ねるたびにカードが増えて豊かになるんだ」とプラスにとらえる人もいるかもしれません。ただ、どちらの場合も、「いざ」というときになればカードの山はなくなります。だから、多くの人は年をとることをつまらないと思い、あるいは恐れます。
けれど、私は思います。本当は、カードの山などないのだと。カードの山が少しずつ低くなるのでも、少しずつ高くなるのでもなく、あるのは今日という1日だけ。神様か仏様かわからないけれども、目が覚めたら1枚のカードをもらう。そして、寝る前に「ありがとうございました」と言って返す。20歳も50歳も80歳もみんな同じです。
(中略)
なぜ、自分にこの1日が与えられるのか。隣の人がどうしてまったく違う1日を生きるのか。その答えは、誰にもわかりません。自分にできるのは、カードを「ありがとう」と受け取って、存分に生かすこと。ただそれだけです。
ある日、突然、
半年ごとに膵がんになっていないかを
精密検査で経過観察する身となってしまった今、
先々の未来を考えると不安一色になる。
けれど、そうやって日々過ごすのは
あまりに寂しいし、悲しいし、もったいない。
必要な心配や備えは、それなりにしつつも
「今日一日を存分に生きる」
これに尽きるかな、という心境になった。
(いまだに日々気持ちは不安で揺れ動くけど)
これを続けることで得られる
新しい境地があるような気がする。
不安になったら読み返したい言葉のひとつとなった。