失恋の痛みや苦しみの原因を探ると、それは別れたことに対する辛さではなく、アイデンティティの欠如が主な痛みの原因であるという研究結果があるらしい。

アイデンティティとは、自分は何者であるかを語る上での自己定義のようなものであり、抽象的に個性と言えばイメージは掴みづらいが、私は○〇で生まれ、何々が好きで、誰誰の息子娘で、これを大切にして、といった自分を定義する上でのひとつひとつの要素の総称がすなわちアイデンティティと呼べるものである。

恋人との別れというのは、誰とお付き合いをして、どんな過ごし方をして、といった表面的な欠如はもちろん、私は誰が好きでという自分の想いの否定にもつながる。
こういった部分が痛みや苦しみの根源なのだろう。

そして、この痛みや苦しみを緩和する方法の一つが新たな恋人を作ることらしい。
欠如した部分を埋め合わせるという発想である。

ここまでの知見を得て、自分の身の回りの人達のことを思い浮かべてみた。恋人と別れてすぐ新たな恋人をつくるという間隔が短い人は確かにいた。これはある種合理的な選択をしていると言える。

一方で、もう何年も恋人がおらず、一人で過ごしている友人が何人かいる。その友人に、恋人が欲しくないか?と尋ねると欲しいと答える。にもかかわらずそこに、焦りがない。本当に欲しいんだろうなと感じるほど恋人づくりへの行動が伴っていない様子を懐疑的に見ていたことがあった。これもアイデンティティの観点で捉えると辻褄が合う。

その人たちにとって、
アイデンティティを構成する要素の一つに恋人の存在がないのだ。恋人抜きで、自分を構成できているのだ。

これらの点を踏まえて、確かに合理的な選択肢としては、恋人つくることが挙げられるだろう。しかし、それではあくまで、欠落に対する補填という意味合いでしかない。恋人の存在抜きでアイデンティティを確立させ、そこに重ねる形をとる必要があるというふうに考える。

人を物で例えることに多少の躊躇はあるが、洗濯機の例を用いたい。
長年恋人がいない人は、洗濯機がなく手洗いをしている人だ。洗濯機欲しくないかと聞かれれば当然欲しいと答えるのだが、なくても生活はしていけるから焦りはない。

一方洗濯機を普段使用している人が、ある日突然壊れて使えなくなってしまった場合、すぐに取替ようとする。今使用している洗濯機はたいそう気に入っており、同じものを買いたいのだが、もう製造されていないらしい。

そこで、なるべく性能や形などの似通ったものを探して買ったが、
布団がギリギリ入らないだの、柔軟剤の投入口が不便な位置にあるだの、すすぎの回数の選択ができないだのと、自分が気に入っていた洗濯機と比較して足りないものを嘆いてしまう。

前の洗濯機になく、反対に新しい洗濯機だけついてる機能もあるのだが、風乾燥などは求めてないのである。とうとうその洗濯機に愛着がもてないまま別れてしまう。

だからこそ、一度手洗いの状態を当たり前にしてしまうのだ。洗濯機を自分の生活から取り除いて生きていくのだ。そうすることで、洗濯機本来の素晴らしさに目が向き、補うという視点からプラスの要素としてみることができる。

誰にも依存しない、自立した人間になることがなによりも先決だと私は思った。