春風ヒロの短編小説劇場

春風ヒロの短編小説劇場

春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

 私は、冬が嫌いだ。

 冬は、言うまでもなく寒い。
 布団の中から出るだけでも覚悟が必要だし、寒風吹きすさぶ家の外へ出るなんて命がけの所業だ。
 末端冷え性だから指先もつま先も冷えて痛くなる。油断すればしもやけもできちゃう。カイロを使えば少しは軽減できるんだけど、それだって限度がある。できれば冬が終わるまで、布団かお風呂に住んでいたい。布団国かお風呂国があったらいいのに。国民はみんなずっと布団やお風呂の中に住んでいる、そんな国があったら私は迷わず永住権申請をするだろうと思う。

 夏の暑さは、人を怒りっぽくするように思う。
 蒸し暑い夏に、「あっちーなーもう!」とイライラする人は多い。蒸し暑さを数量的に表した「不快指数」なんて言葉があるのも、それを象徴しているみたいに思う。
 じゃあ逆に冬は?
「寒いなコンチクショー!」と怒る人は、いないんじゃないだろうか。
 むしろ、寒い時、人は身を縮めて「寒いよう、寒いよう」とメソメソ泣きたくなるように思う。
 気温や湿度、風速などを元に求められる「寒さ指数」というものがある、らしい。でも、日本ではあまり一般的ではない。やはり日本人にとって、冬の寒さよりも夏の暑さのほうがずっと苦手なもので、だから暑くて不快、という目安が数値化され、一般的になっているのだと思う。

 もちろん、冬には冬のいいところがある。
 こたつで食べるミカンのおいしさは冬だけの楽しみだし、熱々の鍋料理だってそう。銀白の雪景色は(暖かい部屋から眺めるだけなら)とても美しいし、空気が乾燥してホコリが少なくなるから星空だってきれいに見える。マフラーやコート、ブーツの組み合わせでオシャレを楽しめるのも、この季節ならではだ。
 それに、イルミネーションイベントが楽しめるのも、冬のいいところだ。
 兜山玻璃絵は、私たちの住む兜山市で何年も続く冬の風物詩で、市と、市の商工会が共同して開催する。中央公園に設置されたイルミネーションは、12月の中旬から約1カ月の間、兜山の夜を彩る。
 ちょうどクリスマスシーズンに合わせて始まるし、ハートをモチーフにした装飾があちこちにあったり、寄り添い合うペンギンや子猫の形のネオンが設置されてたりするから、どう考えてもカップル向けのイベントなんだよね。だから、さすがにこの年になると、おひとり様で楽しむのはちょっと厳しいものがあって、特にリア充カップルたちの姿がまぶしすぎて、近寄りがたいイベントになってしまっていた。

 だけど、今年の冬は違う。
 私は中央公園の入口で、次々と公園の中に吸い込まれていくカップルを眺めながら、ニヘラ、と笑った。
 佐竹と付き合い始めてから、私たちは今日をずっと楽しみにしていた。
「一緒に行こうって誘ってくれたんだもんね」
 寒空の下、一人で待つ時間さえ楽しくなるんだから、恋ってすごい。
 そろそろ佐竹が来るころかな。コートのポケットからスマホを取り出して時間を確かめると、私は手袋を外した。むき出しの素肌に冷気がしみる。「さむっ」とつぶやきながら、私は手を口元に持っていくと、息を吐きかけた。
 そろそろ来るかな。
 早く会いたいな。
 人混みの中に見慣れたダークグレーのコートを探してしまう。
 キョロキョロ。そわそわ。
 あ、見つけた。
 佐竹が急ぎ足で向かってくるのを待ちきれず、私は佐竹のほうにちょっとだけ駆け足をした。
「ごめんね、待たせちゃったかな」
「別に、待ってないよ」
 そんなやり取りをしながら、「うわあ、カップルの会話そのものだなあ」なんて思いつつ、佐竹の左手に、自分の右手を絡めて恋人つなぎにする。
「うわ、つめたっ」
 佐竹が驚いた声を出した。そうなんだよね。末端冷え性だから、手袋なしだとあっという間に指先が冷えちゃうんだ。
「こうすれば温かいかな」
 佐竹が、手をつないだまま自分のコートのポケットに入れた。右手が予想以上の温かさに包まれる。カイロを入れてきてくれたんだ。普段、あんまりカイロなんて使わないって言ってたのに、私のために用意してくれたのかな。
 てか、これって、前に「寒い日に手を包み込むようにつないでくれたり、恋人つなぎしたまま、コートのポケットに手を入れさせてくれたりしたらキュンとするかも」って話したシチュエーションそのものだよね。あの話、覚えてたのかな。
 実際にこのつなぎ方をやってみて分かったのは、ただ手をつなぐだけの時よりも、ずっと二人の距離が近くなるってこと。もうほとんど腕と腕がくっついた状態で歩くことになる。うーん、実際に体験してみないと、この距離感の近さは分からないものだね。などと冷静に分析してるんだけど、実際のところ、そうでもしないとキュンキュンしすぎて挙動不審になってしまいそうだったのだ。今でも恥ずかしさのあまり「あばばば」とか叫んで走りだしてしまいそうな自分を、なんとか理性で抑えながら、表面上だけは落ち着いているフリをしているのだ。
「じゃ、行こ♪」
 手をつないだまま歩きだす。うう、くっついて歩くのって、思ってた以上に歩きにくいなあ。それもまた幸せなんだけど。
 公園に入るとすぐ、イルミネーションのトンネルがある。色とりどりの光に包まれて、一瞬で非日常の世界に踏み込んだ気持ちになる。
 何度も来たことはあるんだけど、うん、見え方が全然違う。これまで見てきた中で、今年のイルミが一番キレイだ。
 光のトンネルを抜けると、目の前に出てくるのは大きなハート型のイルミネーションだ。二人で写真を撮るために、何組ものカップルが並んでいる。これまでだったら「あーはいはい、次いってみよー」って感じで通り抜けてたんだけど、今年は違う。二人で……って、オイ! なんで思いっきり素通りしようとしてるんだ佐竹!
「え、ちょっ、行っちゃうの……?」
「え、だってホラ、すごく並んでるし、カップルばっかりだし……」
 自分もそのカップルの一員だって自覚がないのかお前は。だから佐竹なんだ。
「……その……せっかくだから、一緒に撮りたいな、って……」
 あああああ恥ずかしい。ラブコメ小説ならまだしも、自分の口からこんなセリフが出てくるなんて信じられない。口の中が砂糖でジャリジャリ言ってるみたいな気がする。だけど、せっかく二人で来たのに初めての夜デートなのにここ素通りしちゃうなんて一生モノの後悔じゃない!?
「あ、ああ、そっか、う、うん」
 真っ赤な顔をして、佐竹が行列の最後尾に並ぶ。
「まさか、自分がここに並ぶ日が来るなんてなあ……」
 そうつぶやく佐竹の手を、ポケットの中でぎゅっと力を込めて握る。
 寒さで指先が痛くなるのも、吐く息が白くなるのも、もう嫌じゃない。
 隣に、佐竹がいてくれるから。
 私は冬が嫌いだった。だけど今は、あなたと過ごす冬が一番好きだ。
 私たちの目の前で、ハートのイルミネーションがキラキラと、まぶしすぎるくらいに輝いていた。

 ついこないだまで残暑が続いていて、いつまでも冬が来ないんじゃないか、なんて思っていたのだけど、気がつけば朝晩はガッツリと寒くなって、しっかりと冬が始まってしまった。
 あー、時の経つのは早いなあ。期末試験が終わり、あと数日で終業式。そして冬休みになる。
 中央公園では年末の風物詩、「兜山玻璃絵」の準備が始まっていた。丸山さんから一緒に行こう、と誘われてはいたのだけど、あまり気乗りはしなかった。
 だって、恋人たちの聖地だよアソコ。イルミ自体はカワイイし、SNSに上げるとすごく映えるんだけど、女子二人で行くとちょっと寂しくなる。それなのに、できたら誘ってほしいと思っている私の隣を歩く鈍感男は「リア充どものイベントでしょ。電気の無駄遣いだよね」なんて身もふたもないことを言ってしまうんだから、まったく面白くない。
 このまま冬休みに突入して、次に会うのは正月明けかなあ。
 そう思うと、キュッと胸が痛くなった。
 振り返ると、この2学期はいろんなことがあった。ありすぎた。
 清掃ボランティアを一緒にやったり、文化祭の台本を共作したり、打ち上げと称してデートしたり。これもう付き合ってるんじゃないの? って言いたくなるんだけど、私たちは相変わらず友達以上恋人未満の微妙な距離感を維持し続けていた。
 こうして、代わり映えのない日が積み重なっていくのかな。年が明けて3年になって、部活を引退して、受験があって、卒業して……。そんなことを考え出すと寂しくなってしまうから、私は無理に明るく振る舞うようにしていた。
「でさでさ、丸山さんがそんな風に言ってくるから、私も言ってやったわけよ。『だけど、兜山玻璃絵って恋人専用イベントみたいなものじゃない? 私にはちょっと近づきがたい雰囲気かなって』って」
 だけど、今日の佐竹はちょっと様子がおかしかった。いつも以上にボンヤリしてるというか、上の空というか。私の話に対する返事も少なかったし、なんかプルプルしてるし。
 どうした佐竹? 何か言いたいことでもあるの? 早くしないと、もうそろそろ私の家に着いちゃうぞ……なんて思っていたら、
「あ、あのさ!」
 うわ、びっくりした。
 佐竹がいきなり大声を出した。
「よ、よかったら、兜山玻璃絵、一緒に行かないかな」
 思いもしなかった言葉に、思考がフリーズする。え? マジで? 佐竹が誘ってきたの?
「ず……ずいぶん、唐突だね……。どうしたの、急に……。『リア充どもの光害イベント』なんて言ってたのに……」
「だめかな?」
 佐竹がズイ、と近寄ってきて、私の手を握った。
「サトミと、玻璃絵に行きたい」
 うわわわわ、近い。近いよ。
「サトミのことが好きなんだ。だから、一緒に行きたいんだ」
 佐竹の言葉で完全に頭が真っ白になる。好きって言われたこれって告白だよねまさに告白以外の何物でもないよねまさかこんな乙女ゲーイベントがリアルで発生するなんてどうしよう告白されたのはうれしいんだけど幸せなんだけどまさか佐竹から告白してくるなんてそれも今日いきなりだなんて思いもしなかったから恥ずかしくてどうしたらいいのか分かんないし人間ってあまりにも想定外のことが起こってしまうとパニックになるというか頭が情報爆発起こしちゃうというかどうしたらいいのか分かんないよああもうとりあえず静まれ私の心臓うるさいよ耳の奥でバクバク言って何も聞こえないったら聞こえないったら聞こえないったら――
 つないでいる手がプルプルと震えだす。いや、手だけじゃない。体中が震えてる。真っすぐ見つめてくる佐竹の視線に耐えきれず、どんどん顔が熱くなる。ダメだちょっと恥ずかしすぎて本気でどうしたらいいのか分かんない。
「キエエエエエーッ!」
 思わず手を振りほどき、奇声を上げて走りだしてしまった。
 何やってんだよ自分。いや分かってるよ、うん。これじゃ「思わず逃げ出しちゃうくらい嫌だった」みたいに思われちゃうって。だけど恥ずかしくてどうしようもなくて、特にこれ以上、顔を見られるのが耐えられなかった。
 いつも恋愛ゲームでいろんなシチュエーションを味わって、萌えたりときめいたり「自分なら……」なんて考えたりしてたけど、頭の中で考えるのと、実際に自分の身に起こるのとはもう本当にまったく別物なんだと思う。自分から告白する勇気はないんだから、いつか佐竹のほうから告白してくれたらうれしいのに、とはずっと思ってたけど、いざ本当に告白されると、恋愛経験値がミジンコ以下の私には対応できない。素直に喜んで「ありがとう。うれしい」って言えたらいいのに、そう言いたいのに、いっぱいいっぱいになっちゃって電柱の陰にうずくまって顔を隠すなんて、いまどき小学生でもこんな照れ方しないぞ!
「あ、あの……」
 佐竹が近寄ろうとするから、思わず、
「来るなッッ!」
と言ってしまった。あああああ違うんだよ、来ないでほしいのは顔を見られたくないからで、恥ずかしいからで、佐竹のことが嫌だからじゃないんだよ。
「ご、ごめん。そんなにイヤだったなんて――」
「違うのっ! イヤじゃないのっ!」
 顔は見えないけど、明らかに佐竹が落ち込んだ声になったから、あわてて否定する。
「イヤじゃないけど、えっと、その、あの……、恥ずかしいからこっち見ないで!」
 佐竹が立ち止まったのが、気配で分かった。
 私はうずくまって頭を抱えたまま、ドキドキとうるさすぎる胸を自分の膝に押しつけた。何とかして気持ちを整理しないと。せっかく佐竹が勇気を出して告白してくれたのに。「代わり映えのない日々」から踏み出してくれたのに。ここできちんと応えることができなかったら、もう二人の関係は二度と元には戻らない。戻れない。今だけは、今だけは素直にならなきゃ。
「あー……」とか「うー……」とかつぶやきながら、必死で気持ちをまとめる。だけど、本当にいいのかな。不安は消えない。
 ……私、変な女だよ?
「うん、まあそういう一面はあると思う。告白した瞬間、奇声を上げて走りだすなんてボクは想像もしていなかったよ」
 地味だし、こんなチンチクリンだし。
「まあ、それについてはボクもあまり人のことは言えないかな」
 全然素直じゃないし、結構嫉妬深いし。
「うん、それは知ってる。だけど素直になれないのはただの照れ隠しだし、嫉妬深いっていうのは、裏を返せば一途で思いが深いってことだよね」
「……私なんかでいいの?」
「『私なんか』じゃなくて、ボクは『サトミが』いいんだよ」
「ううううう……」
 そこまで言われちゃったら、もう恥ずかしがってる場合じゃないじゃない。てか、佐竹のくせによくそんな恥ずかしいことを真顔で言えるよね。私は立ち上がって電柱の陰から出た。ああもう顔が熱い。耳の先まで熱い。心臓は相変わらずうるさいし。本気で恥ずかしい。だけど、いまこの瞬間だけでいいから、勇気を出さないと。私は左手をゆっくりと伸ばし、佐竹の右手を握った。指を絡め、恋人つなぎにする。
「……よ、よろしくお願いします」
 口から心臓が飛び出すんじゃないかって思いながら、なんとかそう伝えることができた。
 この瞬間、私たちは恋人になった。二人をつなぐものは、もう部活じゃない。
「玻璃絵、楽しみにしてるね」
 そうなのだ。私たちにとって兜山玻璃絵は、いまこの瞬間、私たちのためのイベントになり、聖地になったのだ。へへへ、なんだか急に楽しみになってきた。告白されたうれしさが時間差で込み上げてきて、ジワジワと幸せが頭の中を埋め尽くしてくる。私はそのうれしさを伝えたくて、つないだ手にグッと力を込めた。
「う、うん。じゃあ、また明日ね」
 って、オイオイ、もう帰っちゃうの? それはちょっとあっけなさすぎるじゃないの。もうちょっとこう、告白の余韻というか、幸せを分かち合ってくれないと寂しいじゃない。
「あの、えっと……」
「うん」
「手を離してくれないと、帰れないんだけど……」
「やだ」
「そんなこと言われても……」
「だめ」
「そんな……」
「もうちょっと」
「うう……」
 つないだ手の温もりで、こんなに心地よくて幸せでうれしくなれるなんて。思わず何度も佐竹の手をにぎにぎして、その感触を満喫してしまった。
 10分ぐらい続けたところで、十分満足できたという気持ちになり、また、さすがにちょっと照れくさくなってきたのもあって、私は手を離した。途端に夜風の冷たさが手のひらにしみ込んでくる。
「じゃ、また明日ね」
 そう言って帰る佐竹の後ろ姿を見送りながら、私はニヘラ、と笑った。
 兜山玻璃絵、楽しみだな。心から、そう思う。
 私たちにとって、この冬はきっと、忘れられない冬になるだろう。
 これは恋であって、もう部活じゃない。見上げた夜空に、まぶしすぎるくらいの月が輝いていた。

 年の瀬が押し迫ってきている。
 ついこないだ11月が始まったばかり、と思っていたのに、気が付いたらもう12月も半ば。期末試験も終わり、あと少しで終業式があって、冬休みになる。
 しばらく前から中央公園では、この町の冬のビッグイベント、兜山玻璃絵(かぶとやまはりえ)の準備が始まっていた。
 兜山玻璃絵は今月中旬から1月の中旬まで開かれる、毎年恒例のイルミネーションイベントだ。兜山市が冬の観光の目玉にしようと商工会などと協力して行っているもので、県内ではトップクラスの規模を誇る。期間中は大勢の家族連れやカップルで賑わうのだけど、特にハートをモチーフにした装飾が多用されているところから、女子中高生の間では「カワイイ」と人気があったし、デートスポットとしても有名だった。
 だからこそ、これまでのボクは意図的にこのイベントを避けていた。
 会場はもうどっちを向いてもカップルだらけで、恋人たちの甘い雰囲気が空気まで甘ったるくしてるみたいな気がする。純粋にイルミネーションを楽しみたいと思っても、4、5歩歩くたびにイルミネーションの前で頬を寄せ合って自撮りをしているカップルにぶつかるものだから、イルミネーションを見に来たのか、カップルを見に来たのか分かりやしないのだ。
 そんなわけで、兜山玻璃絵について聞かれると、ボクはいつも「リア充どものイベントでしょ? まあ好きにしたらいいんじゃないの。ボク個人としては電気の無駄遣いだし、まぶしくて近所迷惑だと思うけど」なんていうヒネクレた答えを返すことにしていた。
 そんなボクだけど、実は冬休みは学校の長期休暇の中で一番好きだった。
 夏休みに比べると期間はずっと短いけど、こたつに入ってノンビリ過ごせるのはこの時期だけだ。それに、クリスマスとお年玉でお小遣いをもらって新しいゲームを買い、朝から晩までずっと遊べるというのが、ボクにとって一番の楽しみだった。
 だけど、今年はそこまで冬休みが楽しみだと思うことができない。
 その理由は、もう明らかだった。
「でさでさ、丸山さんがそんな風に言ってくるから、私も言ってやったわけよ。『だけど、兜山玻璃絵って恋人専用イベントみたいなものじゃない? 私にはちょっと近づきがたい雰囲気かなって』って」
 ボクの隣で楽しげに話すサトミ。暗くなった帰り道、並んで歩くのがすっかりいつものことになっている。多分、周囲の人からしたら「学校からの帰り道に制服デートしている高校生」に見えるんだろう。
 まあ確かに、以前に比べるとボクとサトミの距離は若干、縮んだように思う。特にこの2学期は、清掃ボランティアを一緒にやったり、文化祭の台本を共作したり、打ち上げとして一緒に出かけたりと、いろんなイベントがあったおかげで、ボクたちの関係はこれまでにないほど親密なものになったと、ボクは思っていた。
 まあ、だからこそ、なのだ。
 これまでは自分一人で過ごすことが当たり前だったし、そのことに満足していた。だけど、サトミと二人で過ごす楽しさを知ってしまったら、途端にサトミ抜きの日常生活が色あせて感じられるようになってしまったのだ。
 突然だけど、南米原産で、ルクマというフルーツがある。表皮は茶色でアボカドに似ており、実は黄色、キャラメルやメープルシロップみたいな濃厚な甘さがあって、現地では「黄金の果実」「聖なる果実」なんて呼ばれているそうだ。だけど、日本ではパウダーに加工されたものが輸入されるぐらいで、果実そのものを見かけることはまずない。そんなルクマを、ペルーの人から「日本人はルクマを食べたことがないなんてかわいそう! 人生を損してる!」と言われたところで、「うーん……。おいしいのかもしれないし、食べたら感動するかもしれないけど、食べる機会がないから分からないよ」と答えることしかできない。だけど、もしペルーに行く機会があって、本物のルクマを食べることができたら、「ルクマっておいしい! これを食べられない生活なんて考えられない!」と思うかもしれない。
 何が言いたいかというと、これまでのボクにとってリアルの恋愛は、日本におけるルクマぐらい縁遠い、「知識としては知っているけど、自分には無縁のもの」という存在だったのだ。だけど、いろんなイベントを通してサトミと仲良くなった結果、たった2週間といえど、一人だけで過ごす休みが味気なく、つまらないものに思えてしまったのだ。まさかね、「キミに会えない時間がこんなにもつまらないなんて」とか、「月曜日の朝が待ち遠しい またキミに会えるから」なんていう、甘々なラブソングの歌詞みたいな気持ちが自分の中に生まれる日がくるとは、今年の初めには思ってもいなかったよ。
 じゃあ、誘えばいいじゃないか。クリスマスでも初詣でも、もちろん兜山玻璃絵でも、冬休みにはイベントが目白押しなんだから。連絡先も知ってるんだし。だけど「それが簡単にできたら苦労しないよね」というのが、これまでのボクのパターンだった。
 だけど、今年の冬は違う。そう、違うものにすると決意したのだ。邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意したメロスのように。
 のんびりしている時間はない。あと数分も歩けば、サトミの家に着いてしまう。今日のタイミングを逃せば、結局いつものようにズルズルと代わり映えのない時間が流れて終業式を迎え、冬休みに突入してしまうのだ。
 勇気を出せ、自分!
 いつやるの!? 今でしょ!
 やるなら今しかねぇ、だよ!
 学校を出てからそう自分に言い続けて早くも十数分。口数が少なくなり、冬なのに額には汗がにじんでる。
 とうとうサトミの家が見えるあたりまで来てしまった。もう、ためらっている場合じゃない。
 ボクは立ち止まって声を上げた。
「あ、あのさ!」
 緊張で声のボリュームがおかしくなり、やたらと大声になってしまった。一人で数歩先まで歩いていたサトミがビックリして振り返る。
「よ、よかったら、兜山玻璃絵、一緒に行かないかな」
 サトミの目が丸くなった。
 いかん。ちょっとあまりにも唐突すぎたかもしれない。ボク自身は学校を出てから今まで、ずっとそのことばかり考えていたわけだけど、サトミからしたら、たった今、唐突に誘われたのだ。ついさっき自分が「恋人専用」で「近づきがたい」と言ったばかりのイベントに。
 兜山玻璃絵に誘うっていうのは、これまでの古書店巡りや、文豪の記念館巡りとはわけが違う。ボクたちにとって、日常の延長線上から、非日常の方角へ2歩も3歩も踏み出した動きになる。これは恋であって、もう部活じゃない。
 だけど。
 だけど、いま、ここで行動せず冬休みに突入してしまったら、間違いなくボクはずっと後悔し続ける。
 これまでのボクは、「やっとけばよかった」を積み重ねてきた。
 もっと勉強しとけばよかった。
 もっと筋トレしとけばよかった。
 もっと頑張っていればよかった。
 もっと勇気を出して、一歩踏み出していればよかった――。
 そうやって「行動しなかった自分」を責め続けると同時に、自分に対して「行動しなかった言い訳」をし続けてきたのだ。
 そんな自分を変えたい。
 変わりたい。
 その一歩を踏み出すタイミングが、今なんだ。
「ず……ずいぶん、唐突だね……。どうしたの、急に……。『リア充どもの光害イベント』なんて言ってたのに……」
 サトミが戸惑っている。
「だめかな?」
 ボクはズン、と足を踏み出すとサトミとの距離を詰め、彼女の手を取った。
「サトミと、玻璃絵に行きたい」
 大きく息を吸うと、サトミを真正面から見つめて、言葉を続ける。
「サトミのことが好きなんだ。だから、一緒に行きたいんだ」
 言った。
 言ってしまった。もう後戻りはできない。
 サトミは目を丸くしたまま硬直している。つないでいる手が、プルプルと震えだした。その顔が少しずつ赤みを帯び、手だけでなく、体全体がプルプル震えだしたのが、夕暮れの中でもハッキリと分かった。
 そんなサトミがいきなり、
「キエエエエエーッ!」
 怪鳥のような奇声を上げると、ボクの手を振りほどいて走りだした。
 あまりにも突然すぎてボクは何がなんだか分からず、あっけにとられて立ち尽くしてしまう。
 え? ええ? なんで逃げ出したの? え、これってまさかサトミにとって「思わず逃げ出しちゃうくらい嫌だった」ってこと!? だとしたらボクはもう生きていくのも嫌になってしまうかもしれない。これから生涯、ずっと「やらなきゃよかった」「言わなきゃよかった」と思い続けてひきこもり生活をしてしまうかもしれない。てか、ちょっと泣きそうかも。
 ……と、思っていたら、サトミはすぐ近くにあった電信柱の陰に飛び込み、そのままうずくまって両腕で顔を包み込んだ。
「あ、あの……」
 ボクはおずおずと歩み寄ろうとしたが、
「来るなッッ!」
 サトミから強烈に拒絶された。うわああああ、これはキツいぞ。三日三晩うなされて、事あるごとにフラッシュバックしちゃいそうだ。
「ご、ごめん。そんなにイヤだったなんて――」
「違うのっ! イヤじゃないのっ!」
 ……へ? そうなん? でも、その態度は思いっきり拒絶してるんじゃないの?
「イヤじゃないけど、えっと、その、あの……、恥ずかしいからこっち見ないで!」
 恥ずかしいって、どういうことだ? でも、「イヤじゃない」というサトミの言葉で、折れかけたボクの心が、紙一重で持ち直したような気がする。
 とりあえずボクはサトミから視線を外し、その場に立ち止まった。
 サトミはしばらく頭を抱えてうずくまったまま、「あー……」とか「うー……」とかつぶやいていた。
「……私、変な女だよ?」
 うん、まあそういう一面はあると思う。告白した瞬間、奇声を上げて走りだすなんてボクは想像もしていなかったよ。
「地味だし、こんなチンチクリンだし」
 まあ、それについてはボクもあまり人のことは言えないかな。
「全然素直じゃないし、結構嫉妬深いし」
 うん、それは知ってる。だけど素直になれないのはただの照れ隠しだし、嫉妬深いっていうのは、裏を返せば一途で思いが深いってことだよね。
「……私なんかでいいの?」
「『私なんか』じゃなくて、ボクは『サトミが』いいんだよ」
「ううううう……」
 サトミがうめきながら立ち上がった。夕闇の中でもサトミの顔全体が、いや顔だけじゃなくて耳の先まで完全に真っ赤になっているのがはっきりと分かる。
 おずおずと近づいてきたサトミが、さっき振りほどいたボクの右手を握った。指を絡め、恋人つなぎにする。
 つないだ手から、サトミの温もりが伝わってくる。
「……よ、よろしくお願いします」
 サトミの言葉が耳に届いた瞬間、ボクの頭の中でホイットニー・ヒューストンがフルボリュームの『I Will Always Love You』を歌いだし、それ以外の全ての雑音を押し流す。うれしすぎて脳がパンクしそうだ。
「玻璃絵、楽しみにしてるね」
 サトミはそう言うと、つないだ手にグッと力を込めた。
「う、うん。じゃあ、また明日ね」
 ボクはそう答えると、手を離して歩きだそうとした。歩きだそうとしたのだけれど――
「あの、えっと……」
「うん」
「手を離してくれないと、帰れないんだけど……」
「やだ」
「そんなこと言われても……」
「だめ」
「そんな……」
「もうちょっと」
「うう……」
 そんなやり取りをしながら、手をにぎにぎ。どうしよう、まさか自分がこんなバカップル全開のシチュエーションを味わうことになってしまうなんて。いやうれしいけど。幸せだけど。
 10分ほどにぎにぎを続け、名残惜しそうにサトミは手を離した。二人の体温から解放された手のひらが、夜風にさらされてヒンヤリと寒くなる。サトミの温もりの余韻を忘れたくなくて、ボクはつないでいた手をポケットに突っ込んだ。
「じゃ、また明日ね」
 自宅へと続く、これまで何度も歩いてきた代わり映えのない道。すっかり暗くなって、これといった景色も見えない。だけど、こんなに幸せな夜は初めてだった。

「うわあ……」
 電車のシートに腰を下ろした瞬間、あまりの心地よさに声が出そうになった。
 自分が想像以上に疲れていたんだと自覚させられる。
 まあ、考えてみれば、朝8時過ぎに家を出てから、現在時刻の午後6時まで、昼食やカフェ休憩はあったものの、ほぼ一日中立ちっぱなし、歩きっぱなしだったのだ。ちょっと迷ったけれど、オシャレなヒールじゃなくて履き慣れたいつものスニーカーを選んだ今朝の私、本当にグッジョブ!
 そんな私の右隣で、佐竹は座るなりウトウトしている。ついさっきまで、やたらとハイテンションでしゃべり続けていたのが嘘みたいだ。文学的表現を使うなら「糸の切れた人形みたいになってる」ってとこかな。単に疲れすぎただけだと思うけどね。
「おーい、佐竹ー」
 私は佐竹の手をツンツン、とつついてみる。反応はない。人って、こんな一瞬で熟睡できるものなんだろうか。
 フニフニ、と手の甲を揺すってみる。やはり反応はない。……と、思っていたら、佐竹の体が一瞬、ビクッと動いた。うわっ、こっちまでびっくりしたじゃない。
 この現象は入眠時ミオクローヌス、もしくはスリープジャーキングと呼ばれるものだ。眠りに入る過程で、筋肉をコントロールする脳幹網様体が誤作動を起こし、筋肉に信号を送ってしまうことで発生するもので、特に疲れているときなどに起こりやすい。私も、疲れているときに布団の中で落ちるような感覚と同時に体がビクンとして、一瞬、目が覚めてしまうことがある。
 それはさておき、いまの佐竹のビクンと、私のビックリが同時発生したことにより、ちょっとしたハプニングが起きた。佐竹の左手が跳ね上がり、私の右手の上に落ちてきたのだ。さらに、佐竹の頭が私の肩にもたれかかってきた。まったく偶然の産物だけど、第三者が見たら「デートで遊び疲れた仲良しカップルが、お手々つないで電車で帰るところ」にしか見えない構図が完成してしまった。
 あー、えっと、どうしよう。私は自分の右手の上に重なった佐竹の左手を眺めながら、途方に暮れていた。

 そもそもの始まりは、佐竹が「文化祭の打ち上げをしないか」と誘ってきたことだった。
 まあ打ち上げと言っても佐竹が考えるプランのことだから、いつもよりちょっと遠くの古書店街へ電車で出かけて、古本屋巡りをしてお昼を食べて帰ってくる、ぐらいのものだろうと思う。だからね、決してデートだなんていう特別なものじゃなくて、誘われたのだって部活の延長線上みたいなものだし、うん、まあもちろん嬉しいんだけどその気持ちをストレートに表現できないあたりが私の私たる所以(ゆえん)というか、つい恥ずかしさとか照れくささが先に立ってしまい、それを隠そうとするあまり、喜んでいるような困ってるような戸惑っているような混乱しているような、ワケの分からない表情になってしまうという、相変わらず素直になれなくてかわいくない私なのである。
 そんな私の前で、佐竹は顔を真っ赤にしてプルプルと震えだしている。なんだよ私相手に緊張してるのか。まるでこの前の文化祭の練習で、衆人環視の真っただ中で台本を読んだ時みたいじゃないか、まあ落ち着け。
 と、言いつつ私自身も余裕なんて全然なくて、「……いいよ」と、ぶっきらぼうな返事をすることしかできないのだ。つくづく、かわいくない。しかしさすがに、「いいよ」のひと言だけでは「OK」なのか、「そんなことしなくてもいいよ」なのか分からないだろうと気づくことぐらいはできた。だから、「……楽しみにしてるから」と付け加える。その瞬間、佐竹の顔が「パアア」という擬音つきで一気に明るくなり、コクコクとうなずいたのだった。

 さて、そんなこんなで週末前夜を迎えた。
 特に深い意味はないのだけど、入浴時間はいつもよりちょっと(かなり?)長くなった。髪の毛に念入りにトリートメントをして、体の隅々まで洗う。いや、深い意味はないよ? ないったらないんだよ、本当に。だけど、明日はいつもよりちょっときれいでいたかったっていうかね、うん。そんな気分だったっていう、ただそれだけだよ。
 で、風呂上がりに私は自分の部屋で、ふと気づいた。
「明日……、何着ていこう」
 最近のお気に入りは、グデーッと寝そべる猫の下に「働きたくない」と大書してあったり、小さな鍋に子猫がたくさん入って「ニーニー」と鳴いていたりするTシャツ。かわいいし、ネタとしては面白いけど、男子と二人きりで(それがたとえ佐竹だったとしても)出かける時に着るような服じゃない。かといって、普段着のダボダボしたトレーナーなんてもってのほかだ。
 頭を抱えたくなったときに、ふと、以前、丸山さんと一緒に買った服があったことを思い出した。とてもオシャレでカワイイんだけど、私が普段買っている服なら3着ぐらい買えてしまうぐらいの値段だったせいで、「特別なときに取っておこう」と思って、そのまま一度も袖を通さずにいたセットだ。ハンガーに掛かったままクローゼットの隅に追いやられていたものを取り出して、床に広げてみる。
 秋っぽい、落ち着いた色合いのワンピース。同系色のシックなカーディガンと合わせることで、カワイイ中にもぐっと大人っぽい雰囲気が漂う。
「……大丈夫かな、これ」
 ちょっと不安になる。服が大人っぽいのはいい。問題は、中身なのだ。この素直になれないチンチクリンの私がこんな服を着ても、バランスが取れないんじゃない?
「絶対大丈夫だって! 似合ってるから! 自信もっていいよ!」
 購入前、私が試着したのを見て丸山さんは絶賛してくれたけど、そんな友人の言葉さえも素直に受けとめられない私なのだ。
「やっぱり……私にはちょっとかわいすぎるんじゃないかな……」
などとウダウダ悩んでみるものの、じゃあ代わりに着ていく服があるの?って自問すると、出てくるのは猫Tシャツなのだ。
 佐竹のほうは「これは打ち上げであって、まだデートじゃない」……とか思ってんだろうな。だけど私のほうは、完全にデートのつもりだった。目いっぱいオシャレして、思いっきりカワイイ私でいたかった。
 ええい、もう仕方がない、これ着ていこう! と腹を決めて、ふと時計を見ると午前2時。うわああああなんてこった。睡眠不足はお肌の大敵だというのに。こんな特別な日に限って寝不足で肌コンディショングダグダなんて、勘弁してほしい。
 慌てて布団に入るものの、明日のことを考えるとついドキドキして目が覚めてしまう。ええい、私は遠足前夜の小学生か! なんて自分にツッコミを入れたりしながら、結局、私が寝たのは午前3時前のことだった。
 ちょっとウトウトしたと思った瞬間、午前7時にセットしたスマホのアラームで叩き起こされた。砂でも詰まってるんじゃないかって思うほど重たい頭と、ショボショボする目を抱えて洗面所へ。うわあ、クマできてる。冷たい水で顔を洗って目を覚まし、簡単な朝食を済ませると、私は自分の部屋に戻った。
 ふふん。こんなときのために、買っておいたものがあるのだ。
 コンシーラーやファンデーションなど、何種類かのメイク道具。これも、「女子のたしなみってヤツだよ!」と丸山さんに勧められて買いそろえたものだ。普段は全然メイクなんて興味ないから数えるほどしか使ったことはないけれど、いちおう、使い方ぐらいは知っている。まあ全部、丸山さんに仕込まれたものなんだけど。
 目の下のクマは、ハイライトが入るように明るめのコンシーラーを塗ってカバーする。顔全体は、ライラックピンクの下地で肌のトーンを上げて、フェイスラインの少し内側や鼻、頬にちょっと強めのピンクを入れて血色アップ。
 TPOに合わせて教えてもらった何パターンかのメイクを、そのまま実践してるだけなんだけど、自分で言うのも何だけどすごい。何て言うか、別人みたいに生き生きして見える。ベースの顔立ちが変わるわけじゃないけど、パッと見の印象として可愛さ30パーセントは盛れてるように思う。「女の子はメイクで化ける」って本当なんだな……としみじみしてしまう。
 いやいや、今はノンビリ自分の顔の変化を観察してる場合じゃない。早く着替えて出かけないと。
 待ち合わせの時間は9時だからまだ1時間ぐらい余裕があるんだけど、早めに行っておくに越したことはない。家でマッタリして、そのままうたた寝して寝過ごしちゃうなんてことは絶対に避けたいし、何より「メイクしてオシャレして出かける」という特別感にアガッてるいまの気持ちを途切れさせたくなかったのだ。
 ただ、履いていく靴だけは迷った。このワンピースに合わせるんだったら、絶対にオシャレなヒールのほうがいい。だけど、相手はあの佐竹で、今日の目的地は古書店街だ。軽く見積もっても2、3時間は――何冊もの本を抱えて――歩くことになるだろう。だから、靴だけはいつもの履き慣れたスニーカーを選んだ。多分、佐竹のことだから靴なんて気づかないと思うしね。
 と、いうわけで私は仕上げに香水(正確にはフレグランスローションだけど。これも、丸山さんから勧められたアイテムなのだ)を首筋に軽くつけて、待ち合わせの40分前に駅前に着き、ベンチに座って佐竹を待つことにした。日差しがポカポカと降り注いで気持ちいい。あー、佐竹が来るまでまだ時間あるし、このままウトウトしちゃおうかな……と思っていたら、
「早いね。待たせた?」
 佐竹が声を掛けてきた。
「ううん、ついさっき来たとこだよ」
 その言葉に嘘はない。というか、あまりにもタイミングが良すぎて、思わず笑ってしまった――決して、佐竹に会えてうれしくて笑ったわけではない。ないったらないんだよ――ほどだ。まだ待ち合わせまで30分以上あるのに。
 そして、佐竹の私服。控えめに言って至福じゃない!? 無地のカジュアルシャツと上着、細身のジーンズって組み合わせは、シンプルで定番で無難を絵に描いたようなコーディネートだけど、佐竹らしくてよく似合ってる。私のためにオシャレしてきてくれたんだと思うと、やっぱりうれしい。やっぱり制服とはずいぶん印象が変わって見えるもんなんだね。
「じゃ、じゃあ行こうか。ちょっと早いけど」
「そうだね」
 二人で並んで歩きだす。どうせなら、手ぐらいつないでしまえばいいのに……とは思うものの、自分からつなぎにいくような勇気は出せず、私にできるのは「ほーらほら、ここに『つないでほしがってる手』があるぞー」とほんのりアピールすることだけだった。
 しかし、相手はあの佐竹なのだ。鈍感が服を着て歩いているような男なのだ。残念ながらささやかなアピールに佐竹が気づくことはなく、私たちはただひたすら古書店を回って本探しに夢中になるばかりだった。
 だけど、今日の佐竹はちょっと変といえば変だった。いつもに比べて、明らかにテンションが高すぎる。それはもしかしたら、二人で出かけることに浮かれていたからかもしれないし、寝不足でちょっと変なスイッチが入っちゃってたのかもしれない。とにかく、私と佐竹は、文化祭の朗読劇のことや創作活動、最近読んだ本、今日買った本のことなど、際限なく話し続けた。
 それはそれで楽しかったし、すごく話も盛り上がってたんだけど、おやつタイムに一度カフェ休憩を取ってから2時間ぐらい休みなくしゃべりながら歩いていたら、さすがにちょっと疲れてきた。佐竹はまだ相変わらず元気いっぱいで歩き続けている。……なんかヤバい薬でもキメてるんじゃないかって気がしてきた。だけど、ちょっと待て佐竹。いま、歩いている方角って、このまま行ったらマズいことになるんじゃないか。私たちがいま歩いているエリアは普通の繁華街だけど、もう少ししたら、「ご休憩」とか「フリータイム」なんて看板の掛かったカラフルな建物が並ぶエリアに入っちゃうんじゃない? いやまあ確かに疲れてきたし、どこかで休憩したいとは思ってるけど、だからといってこういうところで「ご休憩」するってのは想定外っていうかまだ早いっていうか、心の準備もできてないし、いや心の準備ができてたらOKなのかって言われるとそれも違うんだけどうわああああああ気づけ! 自分がどこに向かって歩いているのか気づくんだ佐竹! それともまさかとは思うけれど、さりげなくそういうエリアにたどり着いて、「疲れたよね。ちょっと休憩していく?」なんて言うつもりだとでもいうのか!
 私が一人でアワアワしてたら、佐竹もさすがに気づいたようだった。
「ゴメン! 話に夢中で、道を間違っちゃったみたい! もう、そろそろ帰ろう!」
 これまでずっと一本道を真っすぐ歩いてたんだから、間違いも何もあったもんじゃない。言い訳としては苦しすぎるけれど、「そういうこと」にしてごまかしておかないと、変な雰囲気になったまま今日一日を終えるのは嫌だった。
「そ、そうだねアハハ……」
 乾いた笑いを返す横で、佐竹はズンズンと来た道を戻り始めた。私の返事なんて、まるで頭に入ってなさそう。ちょっとテンパリすぎだよ。
 足早に歩く佐竹を追いかけるみたいにして、話も途切れがちのまま私たちは駅に着き、そのまま電車に乗り込んだ。私の「つないでほしがってる手」アピールは結局空回りし続けただけで、むなしく終わってしまった。
 ……と、いうわけで、冒頭の場面に戻る。
 一日中歩き回って疲れ切った体をシートに沈めた瞬間、私は「うわあ……」とため息をつき、その隣で佐竹は糸の切れた人形のように熟睡を始めたのだった。
 私の右手に、自分の左手を重ねたまま。
 これは事故であって、意図的につないだ手じゃない。もしかしたら実はこれは寝たふりで、さりげなく手をつなごうとしたという可能性も考えたけど、どう考えても佐竹は完全に熟睡してる。だったら、この事故だってフル活用しちゃえ。後で手を離しておけば、どうせ気づかないだろうしね。私は手のひらが上に来るように右手の向きを変え、佐竹の左手と指を絡ませるようにつないでみた。
 へへへ、恋人つなぎだ。今日一日、ずっとアピールしてたのに気づかなかった佐竹にお仕置き&相手してもらえなかった自分へのボーナスだもんね。あー、佐竹の手、あったかくて気持ちいいなあ。このままずっとつないでいたいけど、佐竹が起きるまでには離しておかないとだから、それがちょっと残念なところかな。とはいえ、佐竹、くっつきすぎじゃない? 何なら息が私の首筋に掛かってるじゃない。ちょっとくすぐったい。てか、私、汗のニオイとか大丈夫だったかな? いくらフレグランスローションをつけたと言っても、一日中歩き回って香りなんて飛んでしまってるだろうし……。ま、いっか。どうせこれだけ熟睡してたら気づかないだろうしね。
 あーもう、つっかれたなー。電車降りてからも家までもう少し歩かなきゃいけないし、何より本が重たいんだよね……。もちろん、この本は今日の戦利品なんだし、幸せな重さではあるんだけど。
 佐竹の体あったかいなー。このニオイはシャンプーかな? 整髪料かな? 佐竹もこんなの使ってるんだ。男性用ブランドの香りって、やっぱり女性用の化粧品とは根本的に違う香りだよね、うん。こんなに近くまでくっついたことがなかったから全然気づかなかったよ。
 私は絡み合わせた指で佐竹の左手をフニフニともてあそんでみる。
 こら、佐竹。普段からずっと一緒にいるから気づかないのかもしれないけど、私も女の子なんだぞ。それも、どっちかというとインドア系の非力なタイプなわけで。トータルで4時間以上も歩き回るデートなんて、私じゃなきゃついてこれないぞ。ってか、私だってついていくのしんどかったんだし。もーちょっと女の子のこと、いたわってくれないと困るんだぞ。
 面と向かって言うことはできないから、佐竹が寝てる隙に、心の中だけでこっそりとつぶやく。
 てかさ、佐竹は私のこと、どう思ってるの? こうして二人で一緒に出かけるぐらいなんだから、少なくとも嫌いってわけではないと思うんだけど。でも今日だって「打ち上げ」としか言ってないわけで、出かけた先だっていつもとあんまり変わらない場所だし。同じ部活で、一つのイベントを乗り越えた仲間? 戦友みたいなものだって思ってる可能性もあるよね。ハッキリしてくれないと、分かんないよ。
 私はこんな臆病だしさ。素直になれないしさ。佐竹が寝てる、こんな時しか自分から行動することなんてできないわけで。もうちょっとハッキリしてくれないと、私一人、モヤモヤし続けちゃうじゃない。
 さあ、そろそろ手を離して、キッパリと立ち上がって、帰らなきゃね。明日からまた学校なんだし。なんかどっかからプルプル震えてるのが伝わってくるけど、どうしたのかな。電車の振動にしてはずいぶん不規則な震え方だし――。
 私はそこで、ハッと眼を覚ました。
 いつの間にか寝てた!
 手をつないだまま。
 私にもたれる佐竹の頭を枕にして。
 心臓がバクバクと音を立て、血圧が一気に跳ね上がり、眠気も疲れも一瞬で地平線の彼方まで吹き飛んでしまう。
 うわああああどうしよう。佐竹、まだ寝てる? 寝てる? いやちょっと待て、なんでお前プルプル震えてんの!? 寝たふりしてない!? うわああああ恋人つなぎのままだったってば、もう佐竹も気づいてるよね!? 気づいてるよねってば!!
 もたれ合って寝てしまったことは、まあ仕方がない。あと、佐竹の手が私の手に重なってきたのも成り行き上、仕方がない。どっちも「たまたまそういう姿勢になった」だけ、って言えなくもない。だけど、ここまでガッチリ恋人つなぎしてるのは言い訳できない。どうしようどうしようあばばばばばばば。
 いかんいかん、落ち着け。ちょっと落ち着け私。そうだ素数を数えよう。一、二、三、四……って、これじゃただ数を数えてるだけじゃないかバカ! 一、三、五、七、九……って、これは素数じゃなくて奇数だよ!
 そんな混乱の極みにあった私を救い出してくれたのは、
「間もなく〇〇駅、〇〇駅。お出口は左側です」
という、無機質な車内放送だった。
 私たちの下りる駅だ。私と佐竹は反射的に起き上がり、どちらからともなく手を離すと、足元に置いていた自分たちのエコバッグを持ち上げた。本が何冊も入ったバッグは、ずしりと重い。手のひらに食い込む重さによろめきながら、電車を下りる。
 すっかり暗くなった駅のホーム。夜の空気がヒンヤリと冷たい。おかげで寝ぼけていた私の頭も、霧が晴れたようにスッキリと覚めてきた。
「重いね。ちょっと買いすぎちゃったかな」
「ヘヘ、そうだね」
 そんなことを話しながら、改札を抜ける。ついさっきまでラブラブカップルみたいにくっついて寝ていたことなんて忘れたみたいな、いつも通りの調子だ。
「今日は楽しかったよ、ありがとね」
 うん、声もしゃべり方もいつも通り。何もおかしいことはない。私はスタスタ歩き始めた。
「……あ、うん、お疲れ様。またね」
 佐竹があっさりとそう言った瞬間、なぜか突然、言いようのない寂しさが込み上げてきて涙があふれそうになった。なんでだよ私。今日一日、めっちゃ楽しかったじゃん。ほしかった本もたくさん買えたし、帰って読むの楽しみじゃん。なんで泣きそうになってるんだよワケワカンナイ。
「お、送るよ! もう暗いし!」
 佐竹がそう言って追いかけてきた。それだけで胸にポッと陽光が差し込んだような気がした。ああうん、分かってたよ、もう少し佐竹と一緒にいたかったんだって。送ってほしかったんだって。だけど、そんな自分の気持ちにさえ素直になれないから、「なんで泣きそうになってるんだよワケワカンナイ」とか言っちゃうんだよ。
 周囲が暗くなってて良かったと思う。いまの私、完全に涙目だったから。ヘヘッと笑ってごまかすと、私は佐竹の隣に並んで歩き始めた。
 家まで約10分。雑談をしながら歩くと、あっという間だ。残念だけど、今日はここまで。
「うち、ここだから。送ってくれてありがと。また、一緒にどこか行けるといいね」
 それは私の精いっぱいの素直な気持ちだった。本当は「いつでも誘ってほしい」とか「もっと一緒にいたい」とか、いろいろ言いたいことはあるのだけど、やっぱりそこまで踏み込んだことを自分から言いだす勇気はない。
「あ、うん。じゃあ、また明日、学校で」
 そう言って真っ暗な夜道を帰っていく佐竹の後ろ姿を見送りながら、私はもう一度、ヘヘッと照れ笑いをするのだった。

 なぜ、こんなことになってしまったんだ。というか、一体、何が起きたんだ。
 揺れる電車の中で、ボクは焦りと混乱と戸惑いと緊張に襲われて体をプルプル震わせていた。
 ボクはただ、ほんの少しの時間、居眠りをしてしまっただけのはずなのに。
 ボクの頬に伝わる、柔らかい感触。そして頭の上にのしかかる、心地よい重み。どこからか上ってくる、香水なのか制汗剤なのかよく分からないけど、甘い香り。
 えーと、状況を整理しよう。
 ボクはいま、電車に乗っている。左隣にはサトミが座っている。そして、つい数秒前まで、ボクはうたた寝をしていた。
 寝ていた時間は、そんなに長くなかったはずだ。数分から、どんなに長く見積もっても十数分程度だろう。
 問題は、その寝方だった。
 ボクはサトミの右肩を枕にして寝ていた。いや、別に最初からサトミのほうに寄りかかって寝ていたわけじゃない……、はず。だけど、気が付いたらボクはサトミにもたれかかっていたのだ。決して故意ではないのだ。それだけは誤解のないように強く主張しておきたい。
 そして、ボクの頭に寄りかかるようにして、サトミが寝ている。ボクの頭は、ちょうどサトミの肩と頭でサンドイッチされたようになっていた。
 すぐ目の前に、サトミの胸元が見える。首筋から鎖骨にかけての肌が白くて、呼吸のたびにボクの目の前で胸が上下している。
 そして一番の問題は、ボクの左手だった。
 ボクの左手は、サトミの右手と重なり合って、サトミの右ひざの上にあった。
 ただ重なり合ってるだけじゃない。指を交互に絡ませ合う、いわゆる恋人つなぎになっている。
 サトミのほうからつないできたのか? いや、でもボクの手が上にある。ということは、ボクのほうから手をつないだのか? いやいやいやいや、自分からそんなことできるワケがない。それに、恋人つなぎなんて恋愛偏差値極高、SSRクラスの技を寝ぼけて無意識のうちに発動させていた、なんていうのは言い訳としても無理筋すぎる。じゃあ、やっぱりサトミのほうから手をつないできたっていうのか……!? こんなの、誰がどう見ても「デートで遊び疲れた仲良しカップルが、お手々つないで電車で帰るところ」にしか見えないじゃないか!
 ボクは自分の置かれている状況が理解できないまま、眠気なんて百億光年の彼方まで吹っ飛んでしまっているにもかかわらず、寝たふりを続けることしかできなかった。

 そもそもの始まりは、ボクが文化祭の打ち上げをしないかとサトミに提案したことだった。
 まあ打ち上げと言っても、ボクが想定していたのは、いつも行ってる古書店街よりちょっと遠くの町まで電車で行って古本屋巡りをしてお昼を食べて帰ってくる、といった程度のもので、だから決してデートなどといった特別なものではなく、誘うことにもそんなに緊張する必要なんてないはずなのに、ボクは不必要なまでに緊張してしまい、「ふ、二人で文化祭の打ち上げでもやらない?」と上ずった声を出してしまったのだった。
 対するサトミのリアクションは、喜んでいるようでもあり、照れているのを隠しているようでもあり、困っているようでもあり、戸惑っているようでもあり、混乱しているようでもあり、その全てのようでもあり、その表情からは感情がまったく読み取れないという、実に困ったものだった。彼女の返事を待っている間、ボクは緊張のあまり全身がプルプル震えだし、学生服の内側がにじみ出る汗でしっとりと湿るのを感じていた。
「……いいよ」
 ようやく返ってきたのは、そのひと言。それは「OK」の「いいよ」なのか、「そんなことしなくてもいいよ」の「いいよ」なのか、一体どっちなんだ。
「……楽しみにしてるから」
 そう続けてくれたことで、彼女の「いいよ」がOKの意味だったと理解できたボクは、コクコクと首を縦に振って同意を示したのだった。

 その後、ボクたちは帰宅してからメッセージのやり取りで、いつ、どこへ行くか、何をするかを決めた。
 部室で面と向かって話せばいいじゃないかと思う人もいるかもしれない。しかし、ミジンコ並みの恋愛偏差値しか持ち合わせていないボクに、そんなレベルの高いことを要求するのは、幼稚園児に向かって「大谷翔平の全力投球をホームランしろ」と言うのに等しい暴論だと理解していただきたい。まあ、文字だけのやり取りは、相手の顔が見えないから、返事が届くまでの間、「あー、いまのメッセージ、書き方がマズかったかな……」「機嫌損ねちゃったかな……」などとウダウダ考えてしまうのが難点といえば難点なんだけれど。
 そんなこんなで、デート、じゃなくて打ち上げの前日を迎えたボクは、ふと困ったことに気づいた。
 何を着ていけばいいんだろう。
 これまでサトミと出かけるときは、いつも学校の放課後で、必然的に着ているのは制服ばかりだった。私服で出かけたことなんて、なかったのだ。いやまあ、コミケの時や、作家の記念館を見学に行ったときなど、私服で出かける機会そのものはあった。だけど、そういうときは先輩など、ボクたち以外にも人がいたし、オシャレしていくような雰囲気なんてまったくなかった。コミケに着ていく服なんかは特に、動きやすさと快適性が最重要で、オシャレとはかけ離れたものだったしね。
 そんなわけでボクは、サトミとの打ち上げに何を着ていけばいいか、困り果てていたのだった。
 普段、何も気にせずに家の中で着ている服は、中学の頃からずっと着ているものばかりで、襟首の周囲が伸びてヨレヨレになっていたり、ところどころ擦り切れていたりする。さすがにそんな服を着て外出するのが恥ずかしいことぐらいは、ボクでも理解できた。
 結局、悩み抜いたボクが選んだのは、無地のカジュアルシャツと上着、ジーンズという、無難を絵に描いたような組み合わせだった。これが一番、まともに見えるというか、ボクが持っている中で比較的新しくて、傷みの少ない服だったのだ。
 服選びだけで何時間もかかってしまい、気がつけば既に時間は午前1時を過ぎていた。ヤバい、早く寝ないと。だけど、そんなふうに思うときほど気持ちが高ぶって寝つくことができず、結局、ボクが寝たのは午前3時を過ぎてからだった。
 待ち合わせは午前9時に駅前。身支度や、駅に行くまでの所要時間を考えると、起きる時間は7時過ぎ。だからボクは、ちょっとウトウトしたと思った途端、スマホのアラームに叩き起こされてしまったのだった。
 冷水での洗顔と、いつも以上に濃く作ったインスタントコーヒーで果てしなく襲ってくる眠気を何とか撃退し、30分以上早く到着するよう、待ち合わせ場所に向かった。家でまったりしていると、そのままうたた寝してしまい、寝過ごしてしまうかもしれない。そんなことになるぐらいなら、ちょっと早めに駅前に行って、サトミが来るまでベンチでウトウトしているほうがずっといいと思ったのだ。
 しかし、そんなボクの目論見はアッサリ粉砕されてしまう。なぜなら、ボクが座って待とうと思っていたベンチに、サトミ本人が座っていたからだ。ボクでさえ30分以上早く着いたっていうのに、サトミは一体どれくらい前から来てたんだろう。
 秋っぽいワンピースにカーディガン。こういうの、アンサンブルって言うんだっけ? 普段、見慣れた制服姿とは印象が全然違う。ひと言で言うと「かわいい」。もう少し言葉を足すと「めっちゃかわいい」。文芸部員にあるまじき語彙の貧困だが、そうなってしまうぐらいボクにとってサトミの私服姿が衝撃的だったのだ。
「早いね。待たせた?」
 ちょっとドキドキしながら声を掛ける。
「ううん、ついさっき来たとこだよ」
 朝日に照らされるサトミの笑顔がまぶしい。まぶしすぎる。これはボクの目が寝不足のせいでショボショボしているからだけではないはずだ。
「じゃ、じゃあ行こうか。ちょっと早いけど」
「そうだね」
 二人で並んで歩きだす。電車の中で、目当てにしていた古書店で、休憩のために入ったちょっとオシャレなカフェで、ボクたちは話しまくった。文化祭の台本のこと、朗読劇のこと、普段の創作活動のこと、最近読んだ本や、今日買った本のこと……。睡眠不足からくるハイテンションのせいもあったとは思う。だけど、純粋に二人でいろいろと話せることがうれしくて、ボクは本当にほとんど休むことなく話し続けた。
 楽しい時間というものは、文字通り瞬く間に過ぎていってしまうもの。あっという間に昼になり、オヤツの時間になり、太陽が傾いて夕暮れ時が迫ってきた。そろそろ帰らなきゃいけない時間だ。
 じゃあ、そろそろ帰ろうか。そう言ってしまえば、楽しかった今日という時間に終止符を打つことになる。物事には必ず終わりがくるものなんだけど、できればそれを、ほんの少しでも後回しにしたい。もう少しだけ、もう少しだけ、二人きりのこの楽しい時間を長く味わいたい。そんな思いからボクは、ついあちこちへと目的もなく歩き回ってしまい、ふと気づくと繁華街の外れに差し掛かっていた。
 目の前に並ぶのは、カラフルな外壁で飾られ、「ご休憩」とか「フリータイム」なんて看板を掲げた建物たち。うわっ、誰だよこんなところに来ちゃったのは、ってボクのせいだ。でもこれはあくまで事故であって、こんなところにこういうエリアがあるなんてまったく知らなかったし想定すらしていなかったし、そもそもボクたちまだ18歳未満だから入っちゃダメだよねってそれ以前にこんなとこ来ちゃったらそういうこと考えてたのかって思われちゃうだろうしうわああああああああああ。そういえばさっきから微妙にサトミの返事が上の空っぽかったというか、気まずい雰囲気になってたような気がするのってこれのせいだったのかうわああああああああああ。
 慌ててボクは立ち止まって振り返った。
「ゴメン! 話に夢中で、道を間違っちゃったみたい! もう、そろそろ帰ろう!」
 これまでずっと一本道を真っすぐ歩いてたんだから、間違いも何もあったもんじゃない。自分でも苦しい言い訳だと分かってはいたけど、そうとでも言ってごまかすしかなかったのだ。
 ズンズンと駅に向かって、これまで歩いてきた道を戻っていく。何となく気まずくなってしまい、話も途切れがちのままボクたちは駅に着き、そのまま電車に乗り込んだのだった。
 ……あ。そういえば昨日、準備をしながらチラッと「サトミと手をつなげたらいいな」なんて考えてたんだっけ。でも、もう帰りの電車だし、変に気まずくなっちゃったし、それどころじゃないな。少し残念な気持ちを抱えながら電車のシートに深く腰を下ろす。
 そこで、ボクの意識は途切れた。
 寝不足。一日中歩いたことからの肉体疲労。ホテル街へ迷い込みそうになったことからの精神疲労。
 ボクの背中を、腰を、太ももを、優しく包み込んだ座席の心地よさに、ボクは意識を保つことができなかったのだ。

 そして、冒頭に戻る。
 気が付いたら、ボクはサトミにもたれかかり、手はガッチリと恋人つなぎをしていたのだ。
 どどどどどどうしよう。起き上がるのも、手を離すのも簡単だけど、それはしたくない。というかマジな話、この手はボクからつないだのか?「手をつなげたらいいな」と思っていたから、無意識のうちに? その可能性はゼロではないと思う。まあ、限りなくゼロに近いと思うけど。だけど、もしサトミのほうからつないできたんだとしたら? ボクから手を離してしまうのは、彼女の気持ちそのものを振り払ってしまうことになるんじゃないか?
 とはいえ、こんなにすぐ近くにサトミの顔があって、体もぴったりくっついていたら、ボクがさっきから寝たふりをしながらドキドキしているのも伝わってしまってるんじゃないか? 少なくとも、手も体もさっきよりずっと熱くなってる気がするし、手汗だってにじんでる気がする。ボクがプルプル震えているのもサトミにバレてると思う。本当に、一体どうすりゃいいって言うんだよ!
 そんな天国と地獄の真っただ中にいたボクを救い出してくれたのは、
「間もなく〇〇駅、〇〇駅。お出口は左側です」
という、無機質な車内放送だった。
 ボクたちの下りる駅だ。ボクとサトミは反射的に起き上がり、どちらからともなく手を離すと、足元に置いていた自分たちのエコバッグを持ち上げた。本が何冊も入ったバッグは、ずしりと重い。手をつないだまま歩くなんて、とても無理な重さなのだ。ボクたちは二人とも「えっちらおっちら」という言葉が似合いそうな足取りでヨロヨロと電車を降りた。
 すっかり暗くなった駅のホーム。夜の空気がヒンヤリと冷たい。その風の冷たさが、ボクに冷静さを取り戻させてくれた。
「重いね。ちょっと買いすぎちゃったかな」
「ヘヘ、そうだね」
 そんなことを話しながら、改札を抜ける。ついさっきまでぴったり寄り添ってうたた寝していたなんて、そんなこと何もなかったかのように、いつも通りの調子だ。
「今日は楽しかったよ、ありがとね」
 サトミはそう言って、スタスタ歩き始めた。
「……あ、うん、お疲れ様。またね」
 今日という日がこんなにあっけなく終わってしまうなんて。
 サトミの後ろ姿をしばらく眺めていたボクは、衝動的に彼女を追いかけていた。
「お、送るよ! もう暗いし!」
 サトミは少し驚いたようだったが、ヘヘッと笑うとボクと肩を並べて歩き始めた。
 他愛ない雑談をしながら10分ほど歩き、一軒の家の前で、サトミが言った。
「うち、ここだから。送ってくれてありがと。また、一緒にどこか行けるといいね」
「あ、うん。じゃあ、また明日、学校で」
 ボクはそう言うと、手を振って帰り道を歩き始めた。
 一度、大きく深呼吸。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
 今日のお出かけ。これは打ち上げであって、やっぱりまだデートじゃない……はず。だけど、本当にそうだろうか。そもそも、デートかそうじゃないかなんて、もう、ボクたちの間では些細なことなんじゃないか。ちょっとした言葉の違いにこだわるばかりで、ボクは大切なことを見落としているんじゃないか。
 こうして楽しい時間を共有できたのなら、それでよかったんじゃないか。
 一人、静かな夜道を歩きながら、ボクの心は静かな決意に満たされていた。

 丼といえば、ご飯に具をのせただけの簡易な食べ物と思われがちな料理であるが、実は、その道は深く、果てしない。
 かつて私は、カツ丼の美味に溺れ、天丼の妙味に耽った。その後、牛丼、親子丼、他人丼、木の葉丼、ハイカラ丼、中華丼、豚丼、焼肉丼、ローストビーフ丼、うな丼、マーボー丼、海鮮丼、鉄火丼、イクラ丼、ネギトロ丼、しらす丼……と、ありとあらゆる丼料理を食べて食べて食べまくった。
 タレが、餡が、ツユが絡んだメシ、そして硬軟さまざまな具。それらが渾然一体となって胃袋へ突撃するとき、私は一個の肉体から解放され、魂で丼を味わった。まさにそれは魂を震わせる法悦の境地であった。
 胃袋が丼いっぱいのメシで満たされ、「これ以上、何も入らない」というサインを発する。やがて、急激に上昇する血糖値は意識を混濁の彼方へと送り込み、泥のような眠りをもたらす。
 かつて、ある人は「強い酒を飲んで記憶が切れる時。これは最高の快楽の境地なんだよね」と語った。それはおそらく、酒飲みにとって一つの真実なのだろう。しかし私にとって、丼料理で胃袋を自由に満たし、食後のひと時、まどろむことこそが至福なのであった。名づけるならば無限の丼製(Unlimited Rice Works)。一日五食の丼という、暴食に暴食を重ねるような生活であった。その結果、私に待っていたもの。それは無情な医師による「強制終了」なのだった。
 血糖値。コレステロール値。血中脂肪。血圧。健康診断の結果通知書には最低の「D」評価が並び、ありとあらゆる数値が異常を指し示し、産業医からは「命に関わるので、いますぐ入院が必要です」と言い渡された。

 無機質な淡いグレーの壁と天井。真っ白なシーツ。漂う薬品のニオイ。
 病院とは、清潔だがあまりに無味乾燥で淡白な世界だった。
 入院した私を待っていたのは、検査と服薬、「理学療法」という名の筋力トレーニングと有酸素運動、そして……ほんの少量の食事だった。
 よく言えば素材の味を生かした、悪く言えば最低限の味つけしかされていない、キノコや海藻、野菜ばかりの料理。油っ気のない肉と味噌汁。そして、信じられないほど小さな椀に入ったご飯。
 それは私の生命維持に必要な最低限の栄養素を配合しただけの、特別管理食という名の素食だった。
 一日分をまとめて食べたとしても、かつての私の一回分の食事にも満たない量である。私が感じたのは、空腹感などという生易しいものではない。飢餓であった。食物への渇望であった。
「あなたはもう、丼を食べてはいけない」
 医師の言葉は私にとって、現世との隔絶であり、断絶を告げる無慈悲な宣告だった。
 食べたい。食べたい。食べたい。
 運動のため院内を歩けば、否応なく自動販売機やコンビニエンスストアが目に入る。ああ、このスマホをほんの少しかざすだけで、あの美味が手に入る。いまなら、コンビニのチルド棚に陳列されている、手のひらにすっぽり収まりそうなほど小さなカツ丼でさえ、万金を積んでも惜しくない。否、いま一度あの愉楽に浸れるのであれば、命と引き換えにしても悔いはないほどであった。
 私は何度も、無意識のうちにそれらを手に取ろうとした。それができなかったのは、院内を移動する際は医師や看護師が私のそばにいて、常に私の動きに目を光らせていたからであった。
 ああ、カツ丼よ。天丼よ。牛丼に親子丼よ。お前たちにもう一度会いたい。ずしりと重い丼をこの手に抱きしめ、食欲の赴くままに頬張りたい。
 私は涙した。満たされぬ腹に、終わりなき飢餓に、はらはらと涙を流すことしかできなかった。

 ある日、私は夢を見た。
 丼たちの夢であった。食卓に丼たちが満載されていた。いずれも山盛りであった。
 熱い丼はいままさに盛りつけられたばかりのごとくホカホカと湯気を上げ、海鮮丼やローストビーフ丼はヒンヤリと輝いていた。
 私は天丼を手に取った。
 エビ天が語る。「我こそが主役。我なくして天丼は成立せぬ」
 イカ天が叫ぶ。「この弾力のある体を噛み切れるものなら、噛み切ってみたまえ!」
 ナス天が静かにたたずむ。「私は私。ただここにいるだけでいい」
 シシトウ天がつぶやく。「甘く見てると、ヤケドするぜ」
 天丼が語る。「私たちは個にして全。一にして多。個別の天ぷらであると同時に、丼という一つの料理なのだ」
 私はカツ丼を持ち上げた。
 卵とツユをまとったロースカツが、寂しそうに言う。「久しぶりね。あんなに長い時間、一緒にいたのに、最近はほかの丼に浮気ばっかりして……」
 隣にいたソースカツ丼が、「だけど、たまには私たちのことも思い出してくれたらいいんじゃないの?」と話しかけてくる。
 海鮮丼が、焼肉丼が、牛丼が、親子丼が、中華丼が、ありとあらゆる丼たちが私に向かって思いのたけをぶつけてきた。
 彼らの願いは共通していた。
「私を食べて」
 かなうことなら、私も彼らを食べたかった。私と丼はまさに相思相愛、何人たりとも切り離し得ないほど強い絆で結ばれていた。
 しかしその願いが、現世でかなうことはない。
 現世でかなわないのであれば、せめて夢の中だけでも……。
 私は手にしていたカツ丼を、一口、頬張った。
 トロリとした卵と、甘辛いツユの絡んだ熱々のカツの旨味が、舌を通して脳髄まで突き刺さる。
 ああ……。カツ丼って、なんておいしいんだ……。
 痺れるほどの旨味の洪水の中で、私は感動のため息をもらす。
 瞬く間にカツ丼を食べきった私は、続いて天丼を食べ始めた。
 カリカリと口の中で砕ける衣の中からほとばしる、具材の旨味。絡んだツユの味わいが、ご飯を一口、また一口、食べずにいられなくする。
 天丼……。この美味さは何物にも代えられない……。
 私は海鮮丼を、中華丼を、親子丼を、牛丼を、焼肉丼を、手の届く場所にある丼を片っ端から取り上げ、食べ続けた。
 夢の中の出来事である。どれだけ食べても腹は満たされない。それでも私の唇は、歯は、舌は、丼たちの記憶を鮮やかに取り戻していた。一口一口の味わいを、それこそ米一粒に至るまで鮮やかに再現していた。
 心ゆくまで丼を味わい尽くしたとき、彼ら(彼女ら?)が語りかけてきた。
「私たちは、あなたの幸福のためにあったのです。私たちは、あなたに食べられることで消える。しかし、私たちの味は、記憶としてあなたの中に残る。私たちは、あなたと一つになるのです。たとえあなたが、私たちを食べることができなくなっても、私たちはいなくなったわけではありません。あなたの心に、あなたの細胞に、私たちは在り続けるのです」
 そうか……。そうだったのか……。私はもう丼を食べることができないという事柄に絶望していたけれど、それは「食べる」という行為のみに捉われた考えだったのだ。
 これまで私は、丼を味わってきた。しかし同時に「丼に味わわれている」とも感じていた。丼と私自身が一つになるような感覚を持ち続けてきた。
 そうなのだ。私と丼は、一つになっていたのだ。
 食べるという行為を経なくても、丼は既に私の中にある。
 そう悟った私は、驚くほどすがすがしい気持ちで夢から覚めたのだった。

 真っ暗な病室で、私はベッドから起き上がった。
 深夜の病室は意外とにぎやかだ。心電図モニターの規則的な電子音が誰かのベッドから響いてくる。不規則なイビキは、向かいのベッドに寝ているじいさんのものだろうか。廊下からは慌ただしく病室を行き来する看護師の足音が聞こえる。
 口元にあふれたヨダレをタオルで拭ったとき、サイドテーブルに回収し忘れた茶碗が残っているのが目に入った。
 私はその茶碗を手に取った。
 これは茶碗だ。丼ではない。しかし、ご飯を盛り付ける器であることに変わりはない。丼と茶碗を隔てるものがあるとすれば、それは大きさだけの問題ではないか?
 そう。これは、茶碗であると同時に、小さな丼と言ってもいいのだ。
 私はじっと、その茶碗である小さな丼を見つめた。
 大きく開いた茶碗の口は、完全な円を描いている。
「始まりも、終わりもない」「角がなく、流れ続ける」ところから、円という形は禅において執着から解放された心、「空(くう)の境地」を表すとされる。また、見る者の心を映す鏡であるとも言われる。
 丼たち……。お前たちは、こんなところにいたのだな。私の手のひらに収まるこの小さな円の中に、全てが在ったのだ。
 この手の中に丼がある。私の中に丼がある。私の血に、肉に、骨に、丼たちが宿っている。
 いま、私が見つめている丼は、空(から)だ。しかし、それは同時に空(くう)でもある。何も入っていない丼は空(から)の器だが、丼という実体を持たない空(くう)に満たされた器でもある。
 実体としての丼を食べることにこだわる必要はないのだ。私の中に丼があり、丼の中に私がある。だから、この器の中に満たされるものが米飯であれ、白湯であれ、豆腐や蒸し野菜であれ、全ては丼へとつながっている。この器が丼であり、この丼が私なのだ。
 仏教で説く「色即是空、空即是色」の境地は、この丼にあったのだ。

 線香の匂いがしみついた本堂で、住職は長い話を終えました。
 私は取材ノートにメモを取りながら、わずかに視線を上げ、目の前に座る住職を見つめました。
「吹けば飛ぶような」という言葉が似合いそうな、枯れ木のように痩せた体をした、小柄なおじいさんです。とても、ほんの十数年前まで「一日五食の山盛り丼を食べ続けていた」ようには見えません。
 しかし、住職が見せてくれた写真は確かに、日本人離れというか、人間離れした巨体で、おいしそうに丼メシを頬張る若き日の住職その人のものなのでした。
「まさか……丼から、悟りを開かれるとは……。まったく、思いもしませんでした」
 私はしみじみと思いを述べました。住職はにっこりと笑ってうなずきます。
「周利槃特(しゅりはんどく)は掃除を通して大悟し、興教洪寿(きょうきょうこうじゅ)は崩れる薪から悟りを得ました。茶碗一つ、飯粒一つにも、悟りはあるのです」
「貴重なお話を、ありがとうございました。記事が完成しましたら、掲載号をお届けさせてもらいます。それとは別に、個人的なことで恐縮なのですが……。実は私、プライベートでも作家活動をしておりまして、ご住職のお話を題材に小説を書かせてもらってもよろしいでしょうか……?」
「私の話なんかが、小説になるのですか? まあ、好きなようにしていただいたらいいですよ。ただ、檀家さんとの関係もありますので、私の名前や、この寺のことは分からないようにしていただけますか」
「承知いたしました。この件は今回の取材とはまったく別の、私の個人的なお願いですので、作品が出来上がりましたらご住職にも公開前にご確認いただきます。ご覧いただきましたうえで、もし不都合だと思われる内容がありましたらご指摘ください」
 このようなやり取りをして、私は取材を終えました。
 そして本業の雑誌にインタビュー記事を執筆した後、ご住職のお話の中でも、特に印象的だった部分をまとめて執筆したのが「カツ丼礼賛」「天丼黙示録」であり、本作なのです。
「丼三部作」とでも言うべき本作の最後は、ご住職の言葉で締めくくりたいと思います。

「食べることは、執着ではない。味わうことは、感謝なのです」

 

本作は以下の作品の続編です。

 

 

 

 

 いけないと分かっていても、つい、やってしまう。あるいは、やらずにいられない。人間なら誰しも、そんな葛藤を一つや二つは抱えているのではないだろうか?
 かつて私は、カツ丼の信徒だった。
 おそらく、この言葉を目にした読者は、怪訝な顔をして「『カツ丼の信徒』とは何ぞや?」と疑問を抱くことであろう。
 世の中には、さまざまな趣味嗜好を持つ人がいる。ソーシャルゲームのガチャに何万円も課金する人もいれば、電車の写真を撮るために全国の駅を巡る人もいる。私にとって、その「好き」の対象がカツ丼だったということなのだ。ある日、私はカツ丼の美味に目覚め、カツ丼に浸り、一日五食のカツ丼生活を送った。その結果、私の腹回りは1メートルを超え、体重は0・1トンを優に超越するに至った。
 当時の私にとってカツ丼は、人生そのものであった。
 しかし、賢明なる読者諸氏は、これらがすべて過去形で語られていることに気づかれていることであろう。
 そう、私にとってカツ丼は、既に過去の栄光に過ぎない。
 いまの私を耽溺させるもの。
 それが、天丼なのである。

 私と天丼の出合いは、まったくの偶然であった。
 ある日、訪れた飯屋で、私は例のごとくカツ丼を注文した。しかし、あにはからんや、その日に限ってカツ丼は売り切れており、私は別メニューを注文することを余儀なくされた。そして、次善策としてやむを得ず注文したのが天丼だったのだ。
 ところが、この出合いが私の人生を、否、私そのものを狂わせるきっかけとなった。
 丼に鎮座する天ぷらの数々。黄金色の聖なる衣に包まれたそれらは、天から遣わされた祝福の使徒か、はたまたにこやかな笑顔で地獄へといざなう堕落の悪魔か。
 かじれば口中に響く妙なる音。カリ、とも、サク、とも言える軽快な響きは、ただ一口だけで脳髄を支配し、至福の境地へと導く。そこに甘辛いタレが加わり、具材の味わいと重なることで、天ぷらは一気にご飯の相棒に変身する。単体では「ワタクシ、お買い物は銀座の三越でしか、したことありませんの」とでも言いそうな上品ではかなげな天ぷらが、タレをまとった瞬間、「ガハハ! うちがナンボでもどんぶりメシ食わせたるわ! 好きなだけドカ食いしていけや!」と豪快な笑い声を上げる庶民のおかずへと姿を変えるのだ。
 プリプリした弾力のイカ。熱の奔流をもって舌を侵すナス。目に鮮やかな緑と、ピリッとした辛味をもたらすシシトウ。優しく、とろける甘さで包み込むカボチャ。そして忘れてはならない、主役のエビ。それぞれが異なる食感と旨味を持ち、それでいて調和した世界を作り上げている。
 そんな世界が、一口ごとに私の中で崩れてゆく。砕けてゆく。そして圧倒的美味をもって支配してゆく。
 私は知ってしまったのだ。カツ丼は序章に過ぎなかった。真の悦楽、真の終末は天丼にこそ宿っていたのだと。

 天丼の魅力。その第一が天ぷらの衣にあることは言を俟(ま)たないであろう。
 カツ丼の衣は肉の旨味を逃がさないための保護具である。もちろん、その保護具が卵に絡み、ツユを吸うことで渾然一体とした美味さを生み出すことは誰もが認めるところだ。
 しかし、天ぷらの衣はそれ自体が美の極致と言っていい。
 揚げ油と小麦粉の生地が織りなし、生み出した衣はすべて唯一無二の形態である。偶然の産物と言ってもいい。3Dプリンターで同じ形のものを複製でもしない限り、天ぷらは一つとして同じ形にならない。
 そしてもちろん、食べれば美味い。具の力を借りずとも、衣自体が美味い。たぬきそばやたぬき丼など、天かすをメインの具材として味わう料理が存在することを考えても、その美味さは分かることであろう。カツ丼では、そういうわけにいかない。肉のないトンカツはトンカツとしての存在意義(レゾンデートル)を失うのだ。
 しかし、天ぷらのみで天丼が成立するわけではない。タレこそ、天丼の要なのである。
 天丼のタレ。それは単なる調味料ではない。丼全体を抱擁する魂である。私の理性を溶かす液体の奈落である。静謐な出汁の旨味にみりんの甘露が合わさり、それらを深遠な闇のごとく濃口醤油が包み込む。みりんがソプラノなら出汁はテノール、濃口醤油がバリトン。それらが響き合い、重層和音となって天ぷらとご飯を結びつけるのだ。
 エビにイカ、ナス、カボチャ、シシトウ。時にアナゴやレンコン、シイタケが加わることもある。普通に生きていたら交わるはずのなかった海の幸と山の幸が丼の上で邂逅し、一つの世界を築き上げる。そう、それはトランペットやバイオリン、フルートといった、まったく違う世界で生まれた楽器たちが、管弦楽団として共に一つの曲を奏でるようなものなのだ。それぞれが独立した世界を持ちつつも、丼の中で一つの終末を奏でる。それが天丼という食べ物なのだ。

 天丼とは言うまでもなく「天ぷらどんぶり」の略語であり、「天ぷら」はポルトガル語で「調理」を意味する「Tempero」に由来すると言われている。
 しかし、天丼の持つ世界は、そのような浅薄なものだろうか。
 古来より天とは「天空」すなわち大空を示す言葉であり、「天運」「天命」といえば人智を超えた巡り合わせを指し示す。また、神々の座す世界を「天界」と称する。つまり天丼とは、無限の広がりを持つ空の世界であり、天運を乗せた丼であり、食べる人に天啓、天命をもたらすものである。単に天ぷらを乗せてタレをかけたものではない。天上界の神々への供物を模した至高の食べ物こそ、天丼と言えるのではないか。

 天ぷらにかじりつきタレのしみたご飯をかき込むとき、私は忘我の境地に至る。既にそこに「私」という概念はなく、天丼と合一せんとする一個の味蕾が存在するばかりなのだ。天丼を味わいつつ、私もまた、天丼に味わわれているのではないかと思う。
 私は天丼道を邁進している。この道に際限はなく、行きつく先は見えない。私の命が尽きるのが先か、私が天丼を食べ尽くすのが先か。一人の求道者として、己の信じた道を歩み続けるばかりである。

 人は食べたものでできている。ならば私は、天ぷらと米でできているに違いない。
 これは私の天丼への祈りである。

I am the coat of my Tempura.(体は天ぷらでできている)
Sauce is my blood, and rice is my heart.(血潮はタレで、心は米飯)
I have ordered over a thousand bowls.(幾たびのおかわりを越えて不敗)
Known to finish,(ただの一度も食べ残しはなく、)
Nor known to share.(ただの一度も分かち合わない)
Have embraced joy to satisfy my hunger.(彼の者は常に独り 丼の丘で満腹に酔い)
I have no regrets. My fulfillment is the path.(故に、生涯に意味はなく)
My whole life was "Unlimited Tendon Works."(その体は、きっと天丼でできていた)

 

本作は以下作品の続編です。

 

 

「……それで決まったのが『朗読劇』なのね」
 そう言って、私は小さなため息をついた。
 内心ではガッツポーズを決めたいところだったのだけど、あまり露骨に喜んだりすれば佐竹に怪しまれる。そして、佐竹と一緒に部室にやってきた演劇部の丸山さんが、
「ズバリ! 今年のテーマは『ラブコメ』でお願いしますッッ!」
と、芝居がかった動作で宣言。頭を抱える佐竹の横で、丸山さんは私に向かってウインクした。
(あとは頑張ってね)
(ありがとう)
 アイコンタクトだけのやり取り。でも、この瞬間、確実に私たちの心は通じ合っていた。

 さて、この冒頭の場面について語るために、話は数日前にさかのぼる。
 私は丸山さんと電話で話していた。
「でさ、佐竹ってば自分の分のゴミ袋持っていったと思ったら、急に戻ってきて私の分まで持っていってさ。それはいいんだけど、目も合わさないし、何も言わないし、さっさと行っちゃってそれっきりだし――」
 丸山さんとは1年の時から同じクラス。席が近く、同じゲームを好きだったことから自然と話をするようになり、気が付けば恋愛相談などもする間柄になっていた。
「ノロケ乙、と言いたいところだけど、そこまで素っ気ないとさすがにちょっとねぇ……」
「ノロケじゃないノロケじゃない。ってか、どう考えてもノロケの5歩ぐらい手前だわ。私もあまり人のこと言えないんだけど、アイツちょっとコミュ障こじらせすぎてるんだよねー」
 話題の中心は、当然ながら佐竹のことだった。
 これまではどちらかというと、佐竹に対する私の気持ちが定まらず、「なんかモヤモヤする!」といった相談が続いていたのだが、今回は、少し違う。どうやら私は、本格的に佐竹のことが好きになってしまったらしい。その最大のきっかけが、この前の美化ボランティアだったと思う。自分でもチョロいと思うけど、いや、決して手を握られたから、重いゴミ袋を持ってもらったから好きになっちゃった、というわけではない。これまで地味に積み重なってきた好感度が、たまたまこのイベントで一線を超えてしまい、気持ちを自覚するに至った、ということなのだ。
 そういえば、ついこないだ佐竹が書いた小説の中でも、主人公がヒロインと一緒に一つの荷物を持って、手をつなぐ場面があったっけ。まあ実際には、私にも佐竹にも、あんなスマートさはカケラもなかったわけだけど。
 とはいえ、佐竹の気持ちは分からない。こっちを意識しているのかいないのか。いやまあ、意識してないわけじゃないと思うんだけど、本当にそうなのか、単に異性に免疫がなくて照れてるだけなのか、分かりにくいんだよアイツの態度。まあ私だって、人のことは言えない。恋愛ゲームと小説で知識だけは蓄積してるけど、実体験に関しては幼稚園児並みの経験値しかない。だから、分からないことだらけなのだ。
 そんな私にとって、ズバズバと意見を言ってくれる丸山さんの存在はありがたかった。
「それもそうかもねー。あ、ところで、文化祭の合同発表の話。やっぱりマジらしいよ」
「うわあ……、やっぱりそうなんだ……。去年あたりから噂は出てたけど、とうとう現実になっちゃうんだね」
 文化祭の合同発表は、以前から噂されていた。文芸部のようにごく少人数での活動しかしておらず、文化祭に単独での発表ができない部が増えていることを、学校が問題視していたのだ。
「で、この際なんだけどね。合同発表をうまく利用しちゃわない? って思うんだけど」
「……どういうこと?」
「文化部の中で、一番、前に出て何かをするのに慣れてるのは演劇部(うち)だと思うんだよね。だから、合同発表を演劇部主導でやることにして、ほかの部はそれに協力してもらうって形を取れば、みんな動きやすいと思うのよ」
「それは、確かにそうかも」
 文芸部にしても手芸部にしても、自分たちの作品を来場者に見てほしいという思いはある。だけど、合同発表で主導権を握り、ほかの部の発表内容の取りまとめをしながら、自分たちの作品制作をするとなると、二の足を踏むのはやむを得ないことだった。できれば「こういう方向で、こういうものを作ろう」と、誰かが強いリーダーシップを取ってくれることが望ましかった。
「んで、うちとしては合同発表に朗読劇を提案しようと思うわけ。朗読劇なら衣装や大がかりな舞台装置は必要ないし、出演者も絞れる。美術部や手芸部にはポスターや装飾の小物、放送部には音響関係をお願いすれば、合同発表の名目も立つと思うのよ」
「ん?……ってことは、もしかして、文芸部(うち)が受け持つのは……」
「もちろん、台本よ。前に佐竹君が書いてくれた恋愛小説があるんでしょ? 朗読劇のテーマを『ラブコメ』ってことにすれば、その話をベースに台本を書くことができるんじゃないかな?」
「なるほど……」
 佐竹の書いた話をベースに、私が台本を書く。そうすれば原案は佐竹、執筆が私ということで、二人の共作になる。いいんじゃない?
「だけど、そんなうまい具合に話を持っていくことができるの?」
「まあ、そこはフタを開けてみないと分かんないけど、多分、なるようになるんじゃないかな」
 ……といった事前のやり取りがあったうえで、朗読劇が決まるに至ったのだ。
 私が内心、ガッツポーズを決めたくなった理由がお分かりいただけたと思う。

 とはいえ、文化祭までの道のりは前途多難だった。
 台本制作は、普段の小説執筆とはまったく違う。ただセリフをト書きにすればいいわけではない。音声で聞いた瞬間に理解できるよう、同音異義語や文語表現を避け、分かりやすい言葉で書く必要がある。また、小説で同一人物が同じ場面で同じ内容のセリフを繰り返すのはタブーだが、演劇台本では、強調したい内容を必要に応じて繰り返して発言するケースもある。
 そんなアドバイスを丸山さんからもらいながら、私は執筆を続けた。
 明るくて人気者の戸村さん。クラスで全然目立たない、自称モブキャラ、だけどさり気ない気づかいのできる佐藤君。佐竹が生み出したキャラ。佐竹が創造したストーリー。
 文章越しに、私は佐竹に問いかける。ねえ佐竹。戸村さんは佐藤君を誘いたいとき、どう動く? ちょっと強引に「やるわよ!」、目をきらきらさせながら「一緒にやろうよ」、いたずらっぽく笑いながら「これ、やってみない?」。佐藤君はどんなリアクションをするの? 照れて口ごもる? それとも、「やれやれ」って言いながら戸村さんと一緒に行動する?
 キャラクターの言葉一つ、動き一つ。ちょっとしたところに、書き手のクセやイメージが反映される。文章を深く読み込み、イメージをふくらませていく作業は、「戸村さんと佐藤君」というキャラクターを通して、もっと言えばこの作品を構成する文章を通して、佐竹の心と向き合う作業でもあった。
 佐竹が言いたかったのは、こういうこと? 佐竹が描きたかったのは、こんなやり取り? そんなことを問いかけながら、私は文章を積み重ねていく。
 恋愛経験値がミジンコ以下の私たち(と勝手に決めつけてるけど、間違いじゃないよね)だけど、そんな私たちだからこそ、生み出せる物語があると信じて。
 ちょっともどかしくて、だけど、読んでいる人の胸にキュンとするトキメキを届けられるような、そんな物語。
 私たちはどこまでいっても、そんな物語の主人公にはなれない。だからこそ、書くんだ。私たちなりの理想形を。私たちだけのオリジナルを。
 だけどね、佐竹。私は思うんだ。この台本は、ただの台本じゃなくて、もう私からのラブレターなんだって。気づいてくれるかな。佐竹の書きたいと思った物語に対する、私なりのアンサーがこの台本なんだよ。まあ、こんなこと私が一方的に考えてるだけで、肝心の佐竹本人の気持ちはほったらかしなんだけど。戸村さんは私とまったく違うタイプの人だけど、だからこそ、私が普段、表に出すことのできない気持ちや、口に出せない言葉を、表現できるんだよ。戸村さんを通して、私は、私の気持ちをここに刻んでいくよ。
 佐竹のことが、好きなんだって。

 数日をかけて私は原稿を書き上げた。しかし、これで終わったわけじゃない。むしろ、ここからがスタートだと言えた。
 部室に原稿を持っていくと、私は佐竹に言った。
「朗読劇なんだから、実際に、音読してみないとダメだと思うのよ」
「まあ、そりゃそうだよね。小説と劇の台本って、全然別物だし」
「だから、手伝って!」
「手伝うって……何を?」
「朗読に決まってるじゃない!」
「え……読むの? これを?」
「そう」
「……ここで?」
「そう!」
 台本を書き上げたことからくるハイテンションと、作品に感情移入しすぎて戸村さんが乗り移っているいまの私に、怖いものはなかった。
 そんなタイトルの曲があったと思うけど、「恋する女の子は無敵」なのだ。

 二人で読み合わせをする。気づいたことを話し合う。それを元に、原稿をリライトする。
 翌日、また二人で読み合わせをする。気づいたことを話し合う。
 そんな日々を積み重ねて、私たちはようやく台本を完成させ、丸山さんを交えて読み合わせする日を迎えた。
 場所は学校の中庭。佐竹が佐藤君を、私が戸村さんを、ナレーションなどを丸山さんが担当する。
 本来なら戸村さんも佐藤君も、実際に演じる演劇部の人が担当するべきだった。だけど、私は丸山さんと相談して、一度だけ、自分たちが演じることにさせてもらった。
 だって、私たちの作品なんだから。一度でいいから、佐竹の言葉で佐藤君を、私の言葉で戸村さんを、みんなに届けたい。上手とか下手とかじゃなくて、私たちの語る私たちの言葉を、みんなに聞いてもらいたかった。
 佐竹はみんなの前で読み合わせをすることを心の底から嫌がっていて、おそらく「ヤドカリになって殻に引きこもっていたい」とか、「できれば海の底で海水を吸って生きる貝でいたい」なんてことを考えていたんだろうけど、私と丸山さんが無理やり頼み込んで承諾させたのだった。

「ようやく雨が小降りになってきた。放課後、一人きりの教室。みんなもう帰ったか、部活に行ってしまって、教室には僕以外誰もいない――」
 丸山さんのナレーションで、読み合わせが始まった。
 読み始めるまでは、「これまで何度も部室で練習してきたんだし、そもそも自分の書いた文章なんだから、ストーリーは全部、頭に入ってる。みんなの前で読むのだって平気!」と思っていたのだけど、実際に人前で読み始めると、想像以上のプレッシャーがあることに気づいた。人の視線って、こんなに圧力を感じるものなんだ。丸山さんはどうしてあんなに平然としていられるんだろう。ヤバい、立ちくらみ起こして倒れてしまいそう。
 それは、佐竹も同じようだった。いや、むしろ佐竹のほうが大きなプレッシャーを感じているのは間違いなかった。顔からボタボタと冷や汗が落ちてるし、動物病院に連れられた子犬みたいにプルプル震えてるし。
 それでも佐竹が演じる佐藤君は、間違いなく「佐藤君」そのものだった。天真爛漫な戸村さんの言動に戸惑い、照れて、自分の気持ちも揺れ動く。そんな機微が、佐竹の声から伝わってきた。
 気がつくと私は、台本を読みながらジリジリと佐竹のほうに近づいていた。立ちくらみを起こして倒れそうだから、怖かったのもある。だけどそれ以上に、私の中の「戸村さん」が佐藤君に近づきたがっているんだと、私は感じていた。
 一歩。また一歩。そろそろ佐竹も気づくかな。まだ気づいてない。もう一歩。また一歩。さらに一歩。そろそろ肩がくっつきそうな距離まで近づいたと思うんだけど。まだ気づかないの? ってか、いくらなんでもそろそろ気づけよ! 戸村さんだって、好きでもなんでもない相手にこんなこと言わないんだって!
 そんなことを思って、やきもきしながら台本を読み進めていく。

戸村「『今日は送ってくれて、ありがとうね』」
佐藤「『ど、どういたしまして』」
戸村「『また、一緒に帰ってくれるとうれしいな』」
ナレーション「『その言葉が胸に突き刺さる。世界の片隅にひっそりと存在していたはずの僕が、ほんの少しだけ物語の中に踏み出した気がした。濡れた町の匂いと、残り香のように残る彼女の声。生まれ変わった世界の中で、その全てが今の僕にとって、鮮やかな色彩となっていた』」

 最後の場面を読み終わった。
 バルーン人形の空気が抜けていくみたいに、私はへなへなとその場に崩れ落ちた。私のすぐ隣で、同じように佐竹もその場に座り込む。
 つ……疲れたぁ……。10キロのマラソンをしてきたのと同じくらい、疲れた気がする。もう立ち上がりたくない。
 そんな私たちの周囲から、パチパチと拍手が聞こえた。
「お疲れ様ー。すごく良かったよ。やっぱり原作者が読むと感情の入れ方や臨場感が全然違うね!」
 丸山さんがそう言って、冷たい水の入ったペットボトルを渡してくれた。元気だなあ。
 しかし、たとえお世辞でも、自分の作品を評価してもらえたことはうれしい。飲んだ水の冷たさと一緒に、喜びがジワジワとしみ込んでくる。
「てかさ、そうやって並んで座ってるところを見ると、二人とも『佐藤君』と『戸村さん』そのまんまって感じだよね! この際、二人とも出演してみない!?」
「「それは無理!」」
 キレイに声がハモる。そのとき、佐竹がビックリした顔でこっちを向いた。なんだよ、今ごろ私に気づいたの? そういうところだけはラブコメの鈍感系主人公顔負けだよね。まあ、すぐ隣の私に気づかないくらい、緊張してたんだろうし、仕方ないかな。ま、私も人のこと言えなかったしね。
 その後、丸山さんからの舞台出演の勧誘を固辞し、台本を渡して、私たちは帰路についた。
 二人で並んで歩く様子が、ついさっきまで読んでいた台本のシチュエーションそっくりだな、なんてことを考えながら。
 佐竹はずっと無言だった。何を考えてるんだろう。私の気持ち、伝わったかな。
 今日の読み合わせは、あくまで読み合わせ。これは舞台裏であって、まだ本番じゃない。
 だけど、私たちにとって今日が特別な日だったことは間違いない。
 いろいろ話したいことはあったのだけど、いまは無言のまま、作品の余韻に浸っていたかった。

 そして、文化祭当日を迎えた。
 私は佐竹と一緒に、演劇部の公演を見に行った。
 きっちりと練習を重ねた演劇部の部員が演じる戸村さんと佐藤君は、とても上手で。
 見ていてキュッと胸が締めつけられるような場面も、思わずニヤけちゃいそうなやり取りも、うまく表現されていて。
 すごくいい舞台に仕上がっていた。
 だけど、と私は思う。
 私にとっての一番は、あの日の読み合わせだった、と。
 たとえ素人演技でも、ヘロヘロでも、私たちにしか作り出すことのできないオリジナルがあった。私は、そう信じていた。

 寝耳に水。耳を疑う。青天の霹靂(へきれき)。藪から棒。
 ボクは頭の中で「不意の出来事に驚く慣用句」を片っ端から並べながら、ひたすら動揺していた。
 そもそもの始まりは放課後、生徒会室に隣接する会議室に、ボクが呼び出されたことだった。
 呼び出されたのはボクだけじゃない。演劇部や美術部、手芸部といった、少人数の部員だけで構成される文化部の代表がまとめて呼び出されていた。そして、言い渡されたのだ。
「ここにいる文化部が合同で、文化祭の発表をすること」
「何をするかは、各部の代表による話し合いで決めること」
「合同発表(=文化祭)に参加しない部は活動休止しているものと見なし、来年以降の部費予算を打ち切る」
 まあ確かに、文化部にとって文化祭というイベントは1年間の活動の集大成みたいなもの。しかし、集められた部はどれも部員数が少なく、存続の危機に立っているようなところばかり。自分たちの部だけで活動発表をしたくても、十分な内容を用意することができない。だから、合同発表という形を取ることになったという、学校側の言い分は理解できた。
 また、部費予算を打ち切るという宣告も非情なように思うけれど、活動だけなら同好会として続けることだってできる。そして、同好会なら文化祭に参加する必要はない。つまり「文化祭に参加することで部費をもらい、部として存続する」か、「文化祭に参加せず、部費の出ない同好会に格下げする」かを選べるというわけ。
 で、ボクとしてはたとえ小規模でも、部として活動することを選びたかった。先輩たちから引き継いできた文芸部という場所は、ボクにとって、かけがえのない居場所になっていたからだ。
 とはいえ、じゃあ合同発表でどんなことをやるのかとなるとまったく見当がつかず、「どうすればいいんだ……」と、頭を抱えていたのだった。
 それはよその部も同じだったようで、発表内容を決めるための話し合いは紛糾した。やはりどの部も、どうせやるなら自分たちの得意分野を生かした発表をしたい。しかし、絶対にどこかで折り合いはつけなきゃいけないわけで……。

「……それで、決まったのが『朗読劇』なのね」
 文芸部の部室でボクの説明を聞いたサトミは、そう言って小さなため息をついた。
 演劇部が中心の発表だけど、美術部が背景の書き割りとポスター制作を、手芸部が装飾用の小物を、放送部が音響と司会進行を、それぞれ担当する。そしてボクたち文芸部は、台本の執筆を担当することになったのだった。
「それでね、申し訳ないんだけど――」
と、ボクに続いて説明を始めたのは、演劇部の丸山さん。文化祭の準備期間中、彼女がアドバイザーを務めてくれることになったのだ。
「例年、文化祭では完全オリジナルの脚本を演じていたの。だから、文芸部にはこれまでうちが文化祭でやってきた演目にとらわれないで、自由な発想で本を書いてほしい。とはいえ、題材も何も指定せずにただ『書いて』って言うわけじゃないの」
 そう言って丸山さんは片手を腰に、もう片方の手をボクたちに向けて伸ばし、指をピン!と一本立てた。うーん、アニメやゲームのキャラクターならともかく、普段からこんな芝居がかった動作をする演劇部員って、実在するんだなあ。
「ズバリ! 今年のテーマは『ラブコメ』でお願いしますッッ!」
 ……マジか。
 ボクは会議室に続いて、部室でも頭を抱えることになったのだった。

 丸山さんが出ていった後も、ボクはずっと頭を抱えたままだった。
「……あのさ」
 サトミがゴソゴソと、何かを取り出している。
「これ、アレンジしたら台本にできないかな」
 彼女が出してきたのは、以前、ボクがサトミのために書いた恋愛ものの短編小説だった。
 これを?
 文化祭で?
 朗読するの?
 どんな羞恥プレイだよ。想像するだけでも顔が熱くなる。ってか、もうすでに自分の顔が真っ赤になってる自覚がある。勘弁してくれ。
「文芸部の最新作で、完全オリジナルのラブコメ。ピッタリじゃない」
「……本気で言ってる?」
「本気だよ。本気と書いてマジと読むぐらい本気。それに、いまから完全新作を書くよりも、もう出来上がっているものをアレンジするほうが、ずっとやりやすいでしょ? 時間だって限られてるんだし」
 それは、確かにそうだった。文化祭当日まではまだ1カ月以上時間があったが、演劇部が練習に必要な時間を考えると、どんなに遅くても2週間程度で台本を作ってほしいと、丸山さんから言われていた。たった2週間で完全新作を書かねばならないというプレッシャーも、ボクがさっき頭を抱えていた理由の一つだった。
「あと、佐竹は何もかも自分一人でやるつもりだったのかもしれないけど、もともと恋愛ものに関しては私のほうが得意なんだからね。佐竹が書いたこの話を私がアレンジすれば、二人の共作ってことになるじゃない」
「まあ、それはそうだと思うけど……」
 恋愛ものを「二人の共作」とか、スゴいこと言ってるような気がするんだけど、ボクの意識しすぎだろうか。
 でも確かに、このジャンルに関して言えば、サトミのほうがボクよりずっと上手なのは間違いなかった。
「じゃあ……、任せていい? 本当に?」
 サトミがうなずいてくれたので、ボクとしてはこれ以上反対するわけにもいかず、彼女に任せることにしたのだった。

 数日後、サトミが部室に原稿を持ってきて、おもむろに言った。
「朗読劇なんだから、実際に、音読してみないとダメだと思うのよ」
「まあ、そりゃそうだよね。小説と劇の台本って、全然別物だし」
「だから、手伝って!」
「手伝うって……何を?」
「朗読に決まってるじゃない!」
「え……読むの? これを?」
「そう」
「……ここで?」
「そう!」
 サトミって、こんな積極的なタイプだったっけ。いや、普段は全然違うけど、創作に関して、特に何かのスイッチが入ったり、「ゾーンに入る」状態になった時だけは、人が変わったようになる。こうなっちゃったら、もう手がつけられない。ボクはあきらめて台本の原稿を受け取った。

「雨上がりの放課後」
 ようやく雨が小降りになってきた。
 放課後、一人きりの教室。みんなもう帰ったか、部活に行ってしまって、教室には僕以外誰もいない。僕は窓際の席に腰かけて、滴り落ちる雨粒の音を聞きながら空を眺めた。西のほうは少し明るさを増している。きっともう少ししたら、雨は上がるはずだ。
戸村「雨、やまないね」
 急に声を掛けられて、ボクは少し驚いた。同じクラスの戸村さんだった。
戸村「傘、持ってないの?」
佐藤「……うん」
戸村「私の傘、貸してあげようか?」
佐藤「予備の傘を持ってるの?」
戸村「んーん、これ一本しかないよ」
佐藤「えっ、じゃあ戸村さんはどうするの?」
戸村「佐藤君と一緒に入って、送ってもらえばいいかなって」
佐藤「ま、またそんなこと言って……。からかわないでよ、もう」
戸村「別に、からかってないよ。それとも……私と一緒に帰るのは、イヤ?」
佐藤「い、イヤなわけじゃないけど……」

 って、なんだこのシナリオ。
 いやまあ確かに、「戸村さん」っていうグイグイ系ヒロインの話を書いたのはボクだけど、実際にこのやり取りを音読するのは、正直、キツい。恥ずかしい。勘弁してほしい。耳が熱い。というか、顔全体が熱い。
「あの……どうしても、読まなきゃダメ?」
 往生際の悪い問いかけをすると、サトミの顔が険しくなった。
「ダメ。自分一人で音読するだけじゃ、聞こえ方のイメージがつかめないの。男女の声の違いでもセリフのイメージが変わるから、佐竹じゃないとダメ」
「演劇部の人に来てもらうのは……?」
「ある程度、完成の目途が立ったら演劇部の人にも読んでもらいたいけど、まだ原稿段階で、ここから何度も改訂していくのに、その都度来てもらうわけにいかないでしょ。それに、実際に読んで気づいた佐竹の意見も聞かせてほしいし」
 そう言われると、ぐうの音も出ない。
「だ、か、ら、はい! できるだけ気合い入れて、本気で読んでね!」
 ……今日のサトミ、作中の「戸村さん」とは別のベクトルで、グイグイ来るなあ。

戸村「雨、やんじゃったね」
佐藤「うん」
戸村「ちょっと残念だな」
佐藤「えっ、どうして」
戸村「せっかく一緒に帰れると思ったのに……なんてね」
佐藤「途中までは、帰り道も同じじゃない」
戸村「うーん、それはそうなんだけど、そうじゃないんだよねー(クスクス)」
佐藤(恥ずかしくて無言のまま視線を逸らす)
戸村「だけどね、私、雨上がりも好きなんだ」
佐藤「どうして?」
戸村「なんだか、世界が生まれ変わったような気がするから。……ほら、街も木も花も濡れて、いつもと違うように見えるでしょ」
 そう言って笑う戸村さん。雲間から太陽の光が差し込んで、彼女を照らす。その笑顔がまぶしくて、僕は――
佐藤「うわっ! 水たまり踏んじゃった!」
戸村「きゃっ、私まで濡れちゃった」
佐藤「ご、ごめん!」
戸村「ううん、気にしなくていいよ」
 カバンからタオルを取り出し、僕のズボンの裾を拭こうとする戸村さん。
佐藤「タオルが汚れちゃうから、いいよ」
戸村「……なんだか、前にもこんなことがあった気がするね」
戸村「私ね。実は、ずっと前から佐藤君のこと……」

 ちょっと待て。この展開はサトミオリジナルだ。こんな場面、ボクの元原稿にはなかったぞ。いくら「戸村さん」がグイグイ来ると言っても、こんな展開は恥ずかしすぎてボクには書けない。
 サトミが「戸村さん」のセリフにかぶせるように、じっとボクを見つめてくる。感情移入しすぎじゃないのか。「戸村さん」のセリフのはずなのに、これじゃまるで、サトミに告白されてるみたいじゃないか。
 その後も赤面もののやり取りが続く台本を、ボクたちは読み続けた。
 ボクは恥ずかしさで何度も挫折しそうになったのだけど、途中から照れるのをやめた。サトミがあまりにも真剣に取り組んでいるので、いちいち恥ずかしがっていたら、彼女に失礼だと思ったからだ。
 最後まで読んで、ボクたちはいろいろと気づいたことを話し合った。
 日常会話ではあまり馴染みのない文語表現や四字熟語は、文章を黙読する際には全然気にならないのだけど、音読する際にはとても聞きづらく感じること。
 演者の動作や舞台装置で状況を表すことができないので、セリフに頼りたくなるけど、何もかもセリフに盛り込むと説明的になってしまうこと。
 セリフも地の文章も、音の響きやリズムなどを意識するほうがずっと効果的に聞こえること。
「目で読む文章」と「耳で聞く音声」は、まったく別物なのだ。
 それらの気づきを、サトミは一つひとつ丹念に自分の台本に書き込んだ。
「じゃあ、書き直してくるから明日もよろしくね」
「えっ、もしかして明日も読み合わせやるの?」
「当然でしょ。ってか、台本が完成するまで毎日やるからね!」
 ……マジか。もう何度目になるか分からないけど、ボクはまた頭を抱えるのだった。

 翌日以降も台本の編集は続いた。
 話の大筋は変わらないけど、細かな笑いが増えてコメディ要素が強くなったり、丸山さんに相談してセリフを聞きやすく変更したりと、台本はブラッシュアップを重ねていった。
 そしてついに、丸山さんを交えて読み合わせをする日が来た。
 会場となったのは学校の中庭。ボクたちとしては、人目にさらされるような場所は避けてほしかったのだけど、演劇部の部室は狭くて何人も入ることはできないし、体育館は運動部が使ってる。自由に使える空き教室もない。そんなわけで、演劇部が普段から発声練習などに使っている中庭の一画での読み合わせとなったのだった。
 佐藤役をボク、戸村役をサトミ、そしてナレーションなどを丸山さんが担当する。少ないとはいえ演劇部の部員や、通りかかる生徒たちもいる場所での読み合わせだ。ハッキリ言って、ボクはこの場に立っているだけでも呼吸困難か心不全を起こしてしまいそうだった。だって、安全な殻に閉じこもっているヤドカリを無理やり引きずり出したところで、すぐに新しい殻を見つけて引きこもるじゃないか。ボクだってヤドカリか、できれば海の底に沈んで海水を吸って生きるだけの貝みたいな立ち位置でいたい。そもそも、こんな表舞台に出ることを許された生き物じゃないはずなんだ。それなのにサトミと丸山さんに強硬に押し切られ、「一度きり」という約束で、こんな場所での読み合わせに付き合わされることになってしまった。
 ボクはほんの一かけらしか持ち合わせていない勇気をかき集め、手のひらに書いた「人」という字を何度となく飲み、緊張をほぐすという手のひらのツボを手が変色するまで押し続け、深呼吸を繰り返して過呼吸になりかけ、ここはかぼちゃ畑だかキャベツ畑だかと思い込もうとして、誰かが通りかかるたびに現実に引き戻され、結局のところ、往生際悪く無駄なあがきを繰り返していた。
 しかし、どれだけ考えても納得できないのは、この中庭での読み合わせを、サトミが積極的にOKしたことだった。彼女はどちらかといえば、演劇部のように前へ前へと出るタイプじゃなくて、「ボク側」の人間だったはずだ。それなのに、こんな場所での読み合わせをOKするなんて……。
「さて、それじゃ準備できたみたいだから、始めよっか。佐竹君、用意はいーい?」
 丸山さんが尋ねた。良くないって言っても、読み合わせを誰かが変わってくれるわけじゃない。だったらもう、覚悟を決めるしかない。ボクは力なくうなずいた。
「じゃ、行くよ。『ようやく雨が小降りになってきた。放課後、一人きりの教室。みんなもう帰ったか、部活に行ってしまって、教室には僕以外誰もいない――」

戸村「『今日は送ってくれて、ありがとうね』」
佐藤「『ど、どういたしまして』」
戸村「『また、一緒に帰ってくれるとうれしいな』」
ナレーション「『その言葉が胸に突き刺さる。世界の片隅にひっそりと存在していたはずの僕が、ほんの少しだけ物語の中に踏み出した気がした。濡れた町の匂いと、残り香のように残る彼女の声。生まれ変わった世界の中で、その全てが今の僕にとって、鮮やかな色彩となっていた』」
 読み合わせが終わった。ボクはへなへなとその場に座り込んだ。制服のシャツが汗でびちゃびちゃだ。冷汗三斗なんて言うけど、多分、いまのボクはそれくらいの汗を垂れ流してる気がする。
 周囲からパチパチと拍手が聞こえた。
「お疲れ様ー。すごく良かったよ。やっぱり原作者が読むと感情の入れ方や臨場感が全然違うね!」
 丸山さんがそう言って、冷たい水の入ったペットボトルを渡してくれた。ボクはキャップをひねり開けると、一気にボトル半分くらいを喉に流し込む。冷たさが水分と一緒にしみ込んできて、ボクは少しだけ落ち着きを取り戻した。
「てかさ、そうやって並んで座ってるところを見ると、二人とも『佐藤君』と『戸村さん』そのまんまって感じだよね! この際、二人とも出演してみない!?」
「「それは無理!」」
 キレイに声がハモる。その時になってようやくボクは、自分のすぐ隣に寄り添うようにサトミが座っていることに気づいた。
 ……え?
 ちょっと待って。
 このこっぱずかしいラブコメ小説を。
 肩と肩がくっつくぐらいのこの距離で。
 サトミと一緒に読んでたの?
「緊張で周囲の景色が見えなくなる」なんて言うけど、これが本当に文字通りの意味で周囲が見えなくなるだなんて、いま、この瞬間まで考えたこともなかった。
 ダメだ、もう脳みそが情報過多でオーバーフローしちゃう。
 ボクはボトルに残っていた水を一息で飲み干し、大きくため息をついた。

 その後、丸山さんからの舞台出演の勧誘を固辞し、台本を渡して、ボクたちは帰路についた。
 サトミと二人で並んで歩く様子が、ついさっきまで読んでいた台本のシチュエーションとあまりに似ていることに、ふと気づく。
 いやいや、たまたまだよね。別にこれまでだって二人で一緒に帰ったことぐらいあったわけだし。周囲から見れば制服デートって思われるようなシチュエーションだったとしても、ボクたちにとってそれは特別でも何でもない日常の活動だったわけで。
 だけど、本当にそうなんだろうか?
 こんなふうに肩を寄せ合って恋愛小説を読んで主人公たちの恋愛を疑似体験して、現実世界でもこうして肩を並べて一緒に帰ってる。
 何日も何日も二人で台本を読み合って、それでもまだ、「これは練習であって、まだデートじゃない」って言えるんだろうか?
 そもそも、デートって一体何なんだ?
 二人で一緒に出かけること? じゃあ、これまでの文芸部の活動のほとんど全てがデートってことになっちゃうんじゃないか。
 ただのお出かけとデートを区別するものは何だ。
 恋愛感情?
 だとしたら、ボクはもう、そろそろ自分の気持ちと真剣に向き合うべきだろう。
 ボクは、サトミのことが好きなんだ。
 台本を通して「佐藤君と戸村さん」に向き合う中で、ボクはサトミの文章に向き合い続けてきた。サトミの創作にかける思いを受けとめ続けてきた。そして……サトミへの思いを育み続けてきた。
 これはボクにとって、練習の領域を超えて、デートと見なせる時間だったと言っていい。
 だけど、肝心のサトミはどうだったんだろう。
 彼女がどう思っていたか。
 彼女の気持ちがどうなのか。
 デートをデートとして成立させるために必要なものは、お互いの恋愛感情だ。
 ボク一人がデートだと思っていても、サトミがそう思っていなければ、デートは成立しない。
 それがはっきりしないうちは、やっぱり「これは練習であって、まだデートじゃない」と言うしかなかった。

 放課後の校門前は、昼下がりの日差しがとてもまぶしかった。
 私は少し離れた場所に置かれた十数本の竹ぼうきと、プラスチック製の大きなちり取り、大きなビニール袋をぼんやりと眺めながら、手持無沙汰に立ち尽くしていた。
 私のすぐ近くでは、仲良しグループの女子たちが楽しそうにおしゃべりをしながら美化ボランティアが始まるのを待っている。
 ……やだな。
「ポツンと一人」が何人かいる状態は、まだいい。自分一人が突っ立っていても何も不自然じゃないからだ。だけど、すでにグループの形成された場に、たった一人、新規で飛び込むのは大嫌いだ。こんな風に、おしゃべりに興じるグループの横で「ポツンと一人」の私がものすごく強調されてしまう。だからといって、気を使ったリア充グループに話しかけられるのも困るのだけど。
 今日は年に数度の美化ボランティア。各クラスから有志数人が出席して学校周辺の掃除をする。いつもは別の人が出ているのだけど、今日はその人が休みだったので、「代わりに出てくれない?」と先生に頼まれ、断ることもできずに出てきてしまった。こういうとき、強く自己主張できない自分の気の弱さが嫌になる。
 さっさと始まればいいのに。
 私は軽くため息をついた。
 さっき、チラッと佐竹の姿が見えて、話しかけようかと一瞬だけ迷った。だけど、知り合いを見つけていそいそと近づくなんて、なんだか迷子になった子犬が優しくしてくれそうな人を探してすり寄っていくみたいに思えて、結局、「ただの知り合いですから。話しかけたりして、噂になったら恥ずかしいし……」みたいな態度を取ることしかできなかった。
 いや、まあ佐竹が美化ボランティアに毎回参加していることは知ってたのよね。前に佐竹から話を聞いたことがあったし。だからといって、「佐竹と一緒にボランティア♪」なんて浮かれた気持ちはカケラもなくて、ただただ面倒だな、という思いしかなくて。
 ……と、せっかく美化ボランティアに出席したのに、活動が始まる前から心を濁しまくっている私。つくづく、かわいくないと思う。
「では、時間になったから作業を始めまーす。今日、皆さんに掃除してもらうのは、学校のフェンス沿いの道路です。通行する自転車、歩行者の邪魔にならないよう、十分注意して作業してください。よろしくお願いしまーす」
 生徒会の人の案内があって、ようやく作業が始まった。私も竹ぼうきとちり取りを受け取って……、さて、どこに行けばいいんだろう? 私以外の人はもう何度も参加しているのか、慣れた様子で自分たちの持ち場を決めて掃除を始めている。私が割り込んだら、縄張りを横取りすることになっちゃうだろうか。キョロキョロしていると、佐竹が一人で横道へ入っていくのが見えた。佐竹なら、縄張りに割り込むことになっても何も言わないだろう。そう思って、私は彼の後をついていった。
 その道路は普段から人通りが少ないせいか、落ち葉やタバコの吸殻、ペットボトル、空き缶など、たくさんのゴミが落ちていた。佐竹は慣れた手つきでビニール袋をセットし、掃除を始めようとしている。
「……もしかしてここ、ずっと一人でやってるの?」
 思わず聞いてしまった。だってこれ、一人で担当する量じゃないよ。ほかの場所なんて、ここの半分以下の落ち葉しかないのに5人も6人も集まって、ノンビリ雑談しながら掃除してるのに。目立たないからといって、こんなにたくさんのゴミが放置されてる場所が学校のすぐ近くにあって、佐竹以外、誰も見向きもしないなんて。
「あー、まあね。こっちは作業量が多いから、あまり人気がないんだ」
「そっか」
 淡々と、ごく当たり前のことのように佐竹は答える。
 私も素っ気なくうなずく(こういうところもカワイクナイ、と自覚はある)と、佐竹と一緒に作業に取り掛かった。だけど、内心は全然穏やかじゃなかった。
 誰も見向きもしない場所で、たった一人、黙々と作業してる佐竹。おしゃべりしながら掃除したつもりになっているヤツらはみんな、佐竹の爪の垢を煎じて飲めばいい。――なんて言ったら、佐竹のほうが嫌がるかな。
 だけどコイツ、前からこうなんだよね。ただ几帳面なだけかもしれないけど、部室の本を片づけてたり、掃除してたり。本人は誰にも気づかれてないと思ってるのかもしれないけど、実は私はずっと前から知ってたんだ。
 そんなことを思いながら、黙々と手を動かす。うう……なんだか気まずい。いやまあ、普段から部室でひと言も話をしないで本を読んでるだけってことも多いから、黙って作業をするのは別にいいんだけど。いつもの部室とは違う、開放空間で二人きりになって黙っているのはなんだか勝手が違った。
「……あのさ」
 沈黙に耐えきれなくなって、私は不意に尋ねていた。
「こないだの作品のことなんだけど」
と、口に出した後で、しまった、と思った。この質問は、しないでおくつもりだったから。これを聞いてしまったら、まるで自分がヤキモチを妬いていると思われそうだったから。だけど、口に出してしまった以上、最後まで聞いてしまわないと、この場の空気が持たない。
「佐竹は、ああいうグイグイ系の女の子が好きなの?」
「へぁっ!?」
 ……なんだその気の抜けたウルトラマンみたいな声。そんなに予想外の質問だったのかな。
 それはさておき。私としては、どうしても気になっていた。佐竹が初めて書いた恋愛もので、主人公がおとなしい、地味系の男子。多分、モデルは佐竹本人じゃないかって気がする。そこにグイグイと、誰がどう見ても主人公のことを好きだよね、と思わずにいられないような絡み方をする、かわいくて、クラスでも人気者タイプの女の子。
 私とは、全然違うタイプの女の子。
 私には、逆立ちしてもマネできない絡み方。
 もしも佐竹が、こういう積極的な女の子が好きなんだ、って知ってしまったら、なんだかショックを受けそうだから。
 自分でも、どうしてショックを受けるのか、ハッキリしない。別に佐竹がどんな子を好きになってもいいと思う。だけど……どうしても気になるというか……。
 佐竹が答える。
「……嫌いじゃないけど、好きってわけでもないかな」
「どうして?」
「振り回されて、疲れそうだからね」
「じゃあ、どうしてヒロインにしたの?」
「……書きやすかったから、かな」
 自己主張の強いキャラクターを主人公やヒロインにすると、物語を進めたいとき、そのキャラクターに「これがしたい!」と言わせたり、そのように行動させればいい。だから、とても書きやすかったのだという。
「そっか」
 そう答えた私の声が、自分でもハッキリと分かるぐらい「安心した」ってトーンになっていた。
 その後しばらく、私たちは無言で作業を続けた。私たちの竹ぼうきの音以外では、時折、フェンスの向こうから運動部の掛け声が響いてくるぐらい。とても静かだった。
 あまりに静かだと、どうしても「二人きり」ということを意識してしまう。学園系の恋愛ゲームで、イベントとして出てきそうなシチュエーションだ。しかもさっきから、落ち葉を拾うとかビニール袋を縛るとか、ふとした瞬間に何度か手が触れそうになって、もうまさにこれってその手のイベントに出てくるシチュエーションそのものじゃない! だけど、佐竹が真面目に掃除をしている横で、私だけがそんな雑念まみれになっていると思うと少し申し訳なくて、真面目さを取り繕おうとすると、どうしても表情が硬くなってしまう。
 そんなことを考えていたら、突然の風で、地面に置いたままのビニール袋が飛ばされそうになった。
「あっ!」
 私が手を伸ばす。一瞬遅れて、佐竹の手が伸びてくる。私の手の上から、佐竹の手が覆いかぶさるようにビニール袋を押さえつける。
 ピタリと重なった佐竹の手は、大きくて、温かくて。やっぱり男なんだな、と思って。
「あっ!」
 反射的に、袋から手を離す。そのせいで袋は風で飛んでしまうけど、そんなことはもうどうでもよくて。
「あっ、いや、えっと、その、ゴメン」
「えっ、あ、うん、別に気にしなくても――」
 しどろもどろになって、そっぽを向いてしまう。ああ、ダメだ。私に恋愛ゲームのイベントは向いてない。ほんのちょっと手が触れただけでこんなに取り乱してたら、イベント進行どころじゃないってば。
 だけど、佐竹もこんなに取り乱してるってことは、それなりに私のことを意識してくれてるんだろうか。いや、単に女慣れしてなくて慌ててるだけの可能性のほうが高いかな。
 掃除どころじゃなくなってしまったまま、気が付けば終了時間が近づいていた。
「そ、そろそろ終わりにしよっか」
「あ、うん、そだね」
 気まずさを振り払うように、私は落ち葉でいっぱいになったビニール袋の口を縛った。佐竹は片手で自分と私の分の竹ぼうきを抱え、もう片方の手にビニール袋をぶら下げて歩きだす。私も袋を持って佐竹の後を追った。佐竹は軽々と運んでいるように見えたけど、この袋、意外と重たい。ちょっとヨタつきながら追いかけたけど、あっという間に距離が離れていった。
 ……と、思ったら、自分のビニール袋を片づけた佐竹が戻ってきた。
「袋、持つよ」
 私の手の上から佐竹の手が再び重なってビニール袋を力強くつかみ、私は重みから解放される。
「あ、ありがと」
 佐竹はそのままスタスタと歩いて行ってしまったので、表情は分からない。私はただ、その後ろ姿を見つめることしかできなかった。
 なんだよ、もう。佐竹のくせに、一人ですっかり主人公やっちゃうなんて。さっき握られた手の温もりを感じてしまったら、こんなの、どうしても意識しちゃうじゃないか。
 今日、ボランティアに参加したのは代理出席であって、まだ次も参加すると決めたわけじゃない。
 決めたわけじゃない、はずなんだけど。
 多分、次も参加しちゃうんだろうな、という予感が、私の中に大きく芽生えていた。