これは驚いた。
行く末が注視されていたNHKの副会長人事が昨日発表され、理事の正籬(まさがき)聡氏が任命された。正籬氏は昨年4月に理事になったばかりで、理事のなかで末席だ。大方の予想をいい意味で裏切る異例の大抜てきは、親安倍派とも言われた前田晃伸会長に対する見方を変えさせる象徴的な出来事だ。
外部会長が続くNHKにあって、副会長はプロパー職員からの登用が続いている。放送法をはじめとする複雑な法規や内規、1万人の職員、そして国民から徴収する受信料での運営という、特殊な組織を切り盛りするにあたり、長年職員として内部に精通した人材に補佐してもらうのが、執行部のトップとして効率的だからである。しかし近年、副会長は、会長を補佐するというより、お目付け役、官邸とのパイプ役的なポジションとして見られるようになっている。
放送法上、NHK会長は、内閣総理大臣が任命した経営委員によって選ばれることから、政治による間接支配を受ける。その仕組みの中では、うわべではNHKの番組が中立であるようでいて、実際は全体の編成から個別番組の制作に至るまで、時の政権が介入してくる余地がある。それを容易にするために、内部を熟知し、官邸の意向も上手に番組に反映できる職員を副会長に据えるほうが、外部会長の孤軍奮闘に期待するよりも効率的なのだ。
じっさい、松本正之会長が就任した2011年1月には、副会長として安倍官邸に接近を試みていた政治部OBが副会長に任命されそうになった。また、17年1月の上田良一会長就任時には、政治部出身の堂元光氏の副会長再任が官邸から提示され、それを嫌った上田氏が一時、会長就任を拒む局面もあったが、結局、押し切られて堂元氏は再任されてしまった。
そして今回、副会長と目されてきたのが、経済部出身の板野裕爾専務理事である。板野氏は経済畑の出身で、経営委員会事務局長となったあたりから急激に出世し、専務理事となったあと、NHKエンタープライズ社長に就任。その後、再び専務理事でボードにもどってくるという超レアな動き方をした人物だ。NHK人事が官邸次第という鉄則を分かっているせいか、籾井勝人会長時代には理事として官邸とのパイプ役を買って出て、最後は籾井氏と対立してしまったという経緯もある。昨年秋以来の会長人事では、板野氏が一気に会長に就任するのではとの観測も流れ、一時はその方向性が強まったそうだが、氏が頼りにしていた政府側が、桜を見る会やかんぽ保険問題で形勢不利となったため、あまり露骨な官邸人事は困難、との判断から、結局、現在の前田会長の就任で落ち着いたという。それでも板野氏は前田会長との二人三脚を狙うべく副会長に就任し、番組編成・内容面でグリップをきかせ、反政権的な左がかった番組が露出しないよう芽を刈り取りに来るにちがいない、と見られてきた。
そんな情勢を受け、局内には「板野氏が副会長になったら退職者が続出し、NHKは崩壊する」との声まであがっていた。
風向きの変化が伝わってきたのは、会長就任後の1月28日の経営委員会だった。副会長人事は経営委の承認を得る必要があり、委員たちが検討・審議するためにもその日に候補者名を提示する必要があった。メディア各社は当然そこで板野氏の名前が出され、その日のうちにすんなりと内定するのではと見ていた。ところが前田会長は「副会長については、ちょっと考えさせてほしい」と申し出て、次回以降へ持ち越されたのだ。じつは堂元光副会長の任期がそれ以前に切れるため、副会長空白の期間が生じてしまうのだが、それでも前田会長は慎重な姿勢を見せたのだという。
その結果が今回の抜てきである。
まずは末席の平理事を登用したところに驚かされる。板野氏はべつとして、ほかにも候補はいたように思う。だが正籬氏が政治部長・報道局長経験者であることを考えれば、キャリア的にはなんら問題はない。政治家との距離感も心得ているはずだ。さらに人物的にも優れている。いわゆる「政治記者」のようなエリート的傲慢さなどかけらもなく、穏やかでそれでいてシャープだ。番組に対する指示も大胆で的確だと聞く。趣味はランニングで、ひまさえあれば走っている。たしかに見た目も若々しい。
前田会長は就任会見で公共放送が守るべき政治との距離を強調したが、すくなくとも板野氏でなく正籬氏を登用したことは、安倍官邸と一線を画しての船出と言ってもいいだろう。
ただ、うがった見方もできる。
それは板野氏の印象が世間的にあまりに良くないので、下馬評通りに登用したら、「官邸人事だ」と朝日や毎日から徹底攻撃を受け、最終的に政権へのダメージになるとの判断が官邸側にあったのではないかということだ。それを前田会長が敏感に感じ取って自ら判断した可能性もある。
そうした微妙な判断を前提にするなら、正籬氏がこれから前田会長に対して行うサジェスチョンは非常に重要だ。末席理事からの登用を考えれば、正籬氏も前田会長の考え、判断に異を唱えることはまずあるまい。かといって官邸の伝書鳩のような動きもするわけがない。官邸、会長、そして番組制作の現場。これらを一つ一つどう調整していくかが、公共放送の明日を形作っていくことになろう。
最終的には前田会長がどんな施策で臨むかだ。
つぎは役員体制、局長・部長人事、そして一般職人事が待っている。多くの国民の最大限の幸福を追求する公共放送、公共メディアを下支えする組織、それを作るうえで英断を下していってほしい。それにより必ずや優れた番組が生まれていくはずだ。