魂の進化については前回のブログに書いた。

鉱物から植物、動物という順序を経て人間へとたどり着くという話である。

因みにシルバーバーチという高級霊とは意見を異にしている。彼は、猫は猫にしか、人間は人間にしか生まれ変わらないといっている。そして輪廻転生の回数も大体九回程度であるらしい。

 

本当のところはどうか分からないが、基本的に私は魂の進化論を支持している。ネットの中で見つけただけなのであるが、生まれてきた娘が「私は昔、お母さんの飼っていたフェレットだったの」といったという話を呼んだことがある。

ほかにも、自分がなぜか好きな動物は自分が過去世でその動物になったことがあるからそう思うのだ、とどこかで読んだことがある。好きな国や好きな地域も同じらしい。好きな国がある場合、その国の人間に過去世でなったことがあるのだとか。

 

話を戻そう。今回はあの世についていくつか記しておこうかと思う。

 

厳密にいうと、あの世という認識はいささか大雑把なものであるといわざるを得ない。

この世は物理法則や物質によって拘束された世界であるが、どうやらあの世でもあるということができるらしい。それはあの世という集合の中にこの世というものが内包されているからなのだという。

要するにあの世という大きな世界の中にこの世という小さな世界があるというわけだ。波動の法則や引き寄せの法則などに代表されるものはあの世の法則であり、それはそのままこの世の法則でもあるわけである。が、物理法則などはこの世の法則特有のものであってあの世の法則ではないというわけである。

 

そしてこの世は現界というらしい。あの世とこの世の狭間を幽現界。あの世は幽界。しかし、あの世は幽界だけではないらしい。霊界といわれる場所も存在しているという。

 

現界に関する説明は不要だろうから幽現界に関する説明に移りたいと思う。

幽現界とは死後にまず魂が向かう場所なのだという。いわゆる三途の川といわれる場所なのではないかと思う。

臨死体験した人たちの体験談がまさにこれを裏付けているといえようか。

多くの場合、お花畑とか野原とか、荒野などを見たという記憶があるようなのだ。しかし、その全てが同じ光景を目撃しているわけではないことに注意したい。

人によって見え方が異なるのはその人の内面や魂の放つ波動の影響を受けているという説がある。引き寄せの法則と似たようなものなのかもしれないが、幽現界のその先の幽界という場所がどういうところなのかを説明した方が分かりやすいだろう。

 

幽界とは魂が放つ波動や精神性といったものによって住まう場所を区別された世界なのだという。幽界の中はいくつかの階層に別れており、精神性の低い、もしくは波動の重い魂はそれに見合った階層に、逆に精神性が高く波動の軽い魂はそれに相応しい階層に住むことになるという。別の階層の魂と交流することは特別にそれを望まないかぎりは基本的にないらしい。幽界において魂の関心事はもっぱらこの精神性や波動といったものになるという。それは現界において誰もがお金を欲するが、どうやらその比ではないらしい。

 

例えば、下の階層では物質世界でもないのに人のものを盗もうとする魂や事業を起こして金を稼ごうとする魂たちが存在しているらしい。かたや高い階層の幽界では盗みや金を稼ごうとする魂は存在せず、居心地がいいという。

 

一つここで注意しておきたいが、魂といっても姿形が存在することである。前回のブログでも書いたようにエーテル体という魂の一部が我々の姿形を保っているという。心霊写真や動画に映りこんでいる幽霊たちのそのほとんどが生きていた頃の姿をしており、また素っ裸ではなく洋服を着ているのはそういう理由によると思われる。

 

またあの世では洋服や欲しい「もの」などは魂の思念やイメージによって瞬時に作り出せるのだという。もちろんそれらは物質ではなく、言葉ではうまく説明できないが、我々の意識というものがエネルギーに形を与えているのだろう。

日本や外国も存在しているというから、本当にこの世とあまり変わらない世界だと思われる。海外旅行をする魂もあるというから驚きである。住む場所は自分たちで決められるし、好きな場所に好きな時にいけるのだという。とはいえ、やはり日本人は日本に住みたがるらしい。この世で住んでいた場所や縁やゆかりのある場所をその住処にすることが多いのだというからあの世もこの世も本当に変わらないなとつくづく思う。

 

そして最後は霊界である。幽界を卒業した魂たちが向かう場所であるらしく、その性質上、幽界よりも精神性の高い魂たちの集う階層であると思われる。

なぜ幽界と区別されているかというと、顔や身体といった姿形を捨てなければ到達し得ない場所だからだという。第二の死といわれるらしい。

外見を完全に捨てなければ到達し得ない場所、逆をいえばそれほど精神性の高い魂たちの集う階層だといえるだろう。光りとしてしか認識できないらしいが、そのエネルギーには一つひとつに個性があるという。

 

最後に、魂の成長を意識レベルという言葉に置き換えて数値化している本を紹介しよう。デヴィッド・R・ホーキンズ著の「パワーか、フォースか」である。

 

『測定が示す数字は十進数ではなく、対数を表していることをよく覚えておいて下さい。

レベル300は150の2倍の範囲を意味するのではなく、10の300乗(10300)のパワーを示しています。ですから、ほんの数ポイント上がるだけでも、パワーは大きな増加を表しています。スケールが上がってくるにつれて、パワーが増大する割合はさらに莫大なものとなります。』ということらしい。以下抜粋。

 

●意識レベル20 「恥」

 

「恥」のレベルは、死に最も近いものです。なぜなら、恥があるからこそ意識的に自殺がえらばれるか、あるいはもっと微妙なことではありますが、人生を維持していこうとする手段を選択しないからです。

 

このレベルでは、避けられたはずの事故死がよくあります。私たちは皆「面目を失うこと」、つまり信用をなくすことや、「失脚」の苦しみについて、何らかの形で知っています。

 

恥をかくと、人の目につかないようにと祈りながら、頭をたれてそっと遠くへ去るでしょう。歴史的に見ても「追放」は、恥に付随しているものです。原始社会において追放は、死ぬことと同じだったのです。

 

性的虐待によって人生の早い時期から「恥」の意識が植え付けられると、心理的セラピーによって解決されない限り、生涯にわたって性格は歪んだままです。

 

— 中略 –- また、「恥」に基づいている人は、完全主義者で偏狭な性質を持っているので、カッとなりやすく、また我慢することができません。

 

–- 中略 -–「恥」は性格全体のレベルを引き下げることから、恥だけではなく、ほかのネガティブな感情によって傷つけられやすい結果を招くので、愚かな自負心や怒り、罪の意識をしばしば起こさせます。

 

 

 

●意識レベル30 「罪悪感」

 

私たちの社会で、人を操ったりするためによく使われるのが、「罪悪感」です。それはさまざまな表現をもって現れます。自責の念、自己非難、マゾヒズム、それから犠牲心など、これら兆候のすべてに罪悪感は行き渡っています。

 

無意識の罪悪感には、心身症や事故、さらには自殺行為を招いたりします。多くの人々が生涯にわたって罪と闘いながら生きるのですが、それ以外の人々は、罪を道徳的にも不道徳的にもとらずに、罪を全面的に否定しながら、絶望的にそれから逃げようとします。

 

罪悪感にとらわれてしまうと、結果として「罪」の意識に支配されてしまいます。それはだれに対しても「許さない」と いう態度を引き起こします。またこの感情は、宗教煽動者によって強制や支配に利用されることがあります。彼らは得てして自らの罪悪感を演じるか、あるいは それを他人に投影するなどのかけ引きをするのです。まるで刑罰ばかりに取りつかれたようにふるまいます。

 

マゾヒスティックな行動に走るサブカルチャー(低位文化)が、おおやけの儀式のいけにえとして動物を殺すなど、残酷 な側面を表すことがあります。罪悪感は激怒を引き起こし、そして「殺し」は、その表現をよく表しています。死刑制度は、罪の意識に支配されている大衆を満 足させることはよいとする例です。

 

許すことを知らないアメリカ社会は、例えば、新聞で罪を犯した者をあざ笑いながら、見せしめの罰を抑止したり、矯正教育処分をまったく示すことなく、懲罰を割り当ててしまいます。

 

 

 

●意識レベル50 「無感動」

 

このレベルは貧困、絶望、希望を失うといったことが特徴として挙げられます。世界や未来は灰色に見えるでしょう。哀れさを誘う気持ちが人生の中心となります。

 

無感動は希望を失った状態です。その犠牲者は物質的にだけでなく、あらゆることに貧困状態で、生きるエネルギーにも欠けてしまいます。その結果、外部の援助者からのエネルギーが供給されないかぎり、最悪の場合は自殺による死を招くこともあります。

 

生きる意志がなければ刺激に対して反応もなく、彼らの目はものを追うことをやめて、提供された食物を飲み込む十分なエネルギーさえ残らずに、絶望があっけらかんとその人を見つめるだけです。

 

これはホームレスなど、社会から見捨てられた人のレベルです。また多くの高齢者や、慢性あるいは進行性の病気によって隔離された多くの人々の運命でもあります。無感動は依存的で、周囲からは重荷として感じられてしまいます。

 

社会は、このレベルの文化に対して、また個人に対しても、何らかの支援をしようという思いがあまりにも欠けていま す。なぜなら、彼らを「社会のクズ」と考えてしまうからです。これはカルカッタのスラム街のレベルです。あえてそこで救済できるのは、マザー・テレサと彼 女の追随者のような道を歩む勇気ある聖徒だけです。無感動は希望を放棄したレベルです。そして、それと実際に直面する勇気があるのは、わずかな者に限られ ています。

 

 

 

●意識レベル75 「深い悲しみ」

 

このレベルは悲しさ、損失、依存に関係しています。人はだれでも一時期このレベルを経験しますが、このレベルに固定されてしまうと、ひとは絶えず続く後悔の中でうつ病のような生活を送ってしまいます。これは、過去に関する悲しみや死別、後悔のレベルです。

 

何かにつけて常に負けることを経験する人や、負けることが当たり前になっている慢性のギャンブラーのレベルでもあります。時として、仕事や友人、家族、チャンスといったものを失ったり、お金と健康も同じように失うことがあります。

 

人生の早い時期に大きな悲しみを経験すると、成長するにつれて「人生とは悲しみだ」という境地にとらわれるようになります。子供を見ても、人生そのものを見渡しても(いや、何をみても)、悲しみに支配されるので、人生が「悲しみ」に色づけられてしまうのです。

 

「深い悲しみシンドローム」になると、それ一色に覆われてしまうので、たとえば愛する人を失うことが、愛そのものの損失と同一視されます。このレベルでは、そのような感情的な損失が、深刻なうつ病や、死の引き金となるかもしれません。

 

深い悲しみは「人生の墓場」では、ありますが、無感動よりはまだエネルギーがあります。したがって、トラウマの影響 によって無感動の状態に陥っている患者さんが急に泣き始めると、それは彼らが回復に向かっているサインです。いったん泣き始めると、彼らは再び食事ができ るようになるからです。

 

 

 

●意識レベル100 「恐怖」

100のレベルになると、エネルギーが出てきます。危険に対して恐怖を抱くことは、健全だということです。

 

世界のほとんどは恐怖に支配されているのですが、それが人間のやむことのない行動の源泉となっています。敵に対する恐怖、老いたることや死に対する恐怖、拒否されることへの恐怖など、数多くの社会的恐怖が、ほとんどの人々の生活における基本的な動機づけとなっています。

 

このレベルから見ると、世間は罠と脅威の危険でいっぱいに見えます。「恐怖」は全体主義国家が市民をコントロールす るため、好んで用いる制度です。そして「不安」は、おもに経済を巧みに操る手持品です。メディアと広告は、市場占有率を増加させるために「恐怖」を用いる ことがよくあります。

 

「恐怖」がもつ増殖的な性質は、人間の「想像力」と同様に、限界がありません。人間がいったん「恐怖」に取り付かれ ると、世の中の限りない事象が恐怖の餌食となります。それはさまざまな形で現れます。たとえば、関係を失うことの怯えは嫉妬となり、慢性的な高いストレス を引き起こします。恐怖の思いは、パラノイアとなって膨らむか、あるいは防衛的な神経症の構造を作り出します。また、それは伝染性のあるものなので、社会 全体に蔓延することにもなりえるのです。

 

恐怖は個性の成長を制限し、また個性に根づいてしまうことにもなります。「恐怖」より上のフィールドに上昇するため にはエネルギーを要するので、抑圧されている人は、助けなくしてより高いレベルに達することができません。したがって、恐怖に取りつかれている人は、そこ から解放されたいがために、自分の恐怖を征服したかのように見える強いリーダーを求める傾向にあります。

 

 

 

●意識レベル125 「欲望」

さらにもっと多くのエネルギーが、このレベルで出てきます。「欲望」は、経済も含めて人間の活動の広い領域を動機づけます。広告業者は、私たちの「欲望」をニーズに結びつけるようプログラムしながら、衝動的にもてあそぶのです。

 

「欲望」は、目標を達成するか、その見返りに努力をするようにと、私たちを動かします。お金や名声、パワーを得ることに関わる欲望が、恐怖のレベルから抜け出した多くの人々の優先的な人生の動機となります。

 

また欲望も嗜癖のレベルになると、渇望が人生そのものよりも重要になってしまうこともあります。実際に欲望の犠牲者は、自分の動機の基盤が何であるか気づいていないかもしれません。

 

どうしても注意を引かなければいられない人たちもいて、彼らのきりのない要求に周りの人々は離れていきます。性的に認められることへの切望は、化粧品やファッション産業全体を生み出しました。

 

欲望は蓄積することや「強欲」にも関係しています。しかし「欲望」は、たえず何か目的に向かうエネルギーフィールド なので、飽きることを知りません。したがってひとつ満足を得ても、他の何かへの満たされていない渇望に取り替えられてしまいます。例えば億万長者は、さら に莫大なお金を手に入れることに取りつかれたままの傾向があります。

 

明らかに、欲望は無感動や深い悲しみよりも、エネルギーの高い状態にあります。それは「得る」ためには、まず「欲し い」というエネルギーがなければいけないからです。テレビは抑圧さている多くの人々に必需品を教え込んで、生活の向上を求めさせることで活気を与えます。 「無感動」よりはある程度人を動かせるので、大きな影響力があるのです。欲することは、それ以下のレベルよりも達成への道に私たちをスタートしやすくさせてくれます。したがって、「欲望」は意識のもっと高いレベルへの飛込台となるのです。

 

 

 

●意識レベル150 「怒り」

 

「怒り」は、殺人や戦争に通じるのかも知れませんが、エネルギーレベルとしては、「死」からはるかに遠いものです。怒りは創造と破壊のどちらにも通じることができます。

 

「無感動」と「深い悲しみ」から抜け出て「恐怖」を乗り越えると、「欲望」という意識が出てきます。「欲望」はフラストレーションに通じていて、順序としては「怒り」に通じます。

 

したがって、怒りは圧迫から自由へと猛烈な勢いで向かうテコとなるかもしれません。社会的な不公平感や、処罰、不平などに対する怒りは、社会構造に変化をもたらす大きな社会運動を生んできました。

 

しかし「怒りは」恨みや復讐心を表すので、爆発しやすく危険でもあります。怒りが習慣となっている場合には、わずかなことにも敏感になり、「不公平なこと」を探し集めたり、喧嘩早かったり、もめごとや訴訟好きになったりします。

 

怒りは欲求不満から生じるので、「怒り」以下のエネルギーフィールドに基づいてしまいます。フラストレーションは、 欲望の重要性を誇張する結果です。腹を立てている人は,まるで子供のような欲求不満状態から激怒に移ることもあります。怒りは簡単に憎しみへと通じて、憎 しみは人生のすべての領域に破壊的な影響を及ぼします。

 

 

 

●意識レベル170 「プライド」

 

プライドは170で測定されますが、実際にアメリカ海兵隊の精神的基盤になるほどのエネルギーを持っています。

プライドは現代人の大方が求めているレベルです。下方のエネルギーフィールドに比べると、このレベルに達するにつれ て、人間はポジティブになります。自尊心が涌いてくると、意識の低いレベルで経験したすべての苦痛は和らぎます。プライド意識は自らの格好の良さを知って いるので、人生というステージでそれを見せびらかそうとします。

 

プライドは「恥」や「罪」や「恐怖」といったレベルから十分に上昇しているので、例えば、スラム街に満ちている「絶望」から海兵隊のもつ「プライド」のレベルまで上がるには、莫大なジャンプ力が必要です。

 

一般にプライドはプラスに評価されていて、社会的にも奨励されるのですが、意識レベルのチャートから見ると、200という臨界点のレベルより下に留まっているため、まだネガティブな状態といえるでしょう。これはプライドが、優越感に浸れるに過ぎないものだからです。

 

問題は、みなさんよくご存知のことわざで言うところの、「天狗の鼻」ということです。プライドは、外部の状況によっ て生きているので、受身的であり、傷つきやすいものです。外部の条件次第では、突然低いレベルに戻ります。ふくれあがったエゴは、攻撃に弱いのです。これ は、「プライド」を失うことへの恐怖心から「恥」に逆戻りさせられることもあるので、弱いレベルにとどまっています。

 

プライドは、他者と自分を区別するので派閥争いを招き、結果的に高い代償を払う事にもなります。人はプライドのため に死ぬこともありますし、軍隊は「愛国心」と呼ばれるプライドのために、いまだに互いを殺しあうことが定期的に行われています。中東と欧米間のおぞましい 歴史的な宗教戦争や、狂信的な政治的テロリズムなど、すべては社会が支払うプライドの代償です。

 

プライドのマイナス面は、「傲慢さ」と「否認」です。これらは人間の成長を妨げます。プライドのレベルでは嗜癖から の回復は不可能です。なぜなら感情的な問題や性格の欠陥を認めず否認してしまうからです。プライドの全面的な問題のひとつは、否認です。名声と信望をもっ て、プライドに代わる本当のパワーを得るためには、プライドは相当大きな障害となります。

 

 

 

●意識レベル200 「勇気」

 

200レベルにおいて初めて、「フォース」から「パワー」へと展開します。

200以下のエネルギーレベルに陥っている被験者をテストすると、すべての反応が弱くなるのが簡単に確かめられます。ところが200以上の生命を支えるフィールドでは、皆が強く反応します。

 

これは生きることに対して、ポジティブか、それともネガティブな影響を与えるのかを識別できる。臨界点です。

 

「勇気」のレベルにおいて、「パワー」が到来します。したがって、さまざまな能力が産まれるレベルであり、探求、達 成、忍耐力、決断力のゾーンです。もっと低いレベルでは、世の中は絶望的であったり、悲しいものであったり、恐ろしかったり、もしくはいらだたしく見えま す。しかし、勇気のレベルでは、人生は面白く挑戦的でもあり、刺激があるように見えるのです。

 

「勇気」は新しいものを試みながら、人生の変化と挑戦に立ち向かう意欲を意味します。能力が与えられるこのレベルでは、人は難問にも対処できるようになり、また人生のチャンスをうまく生かすことができます。

 

例えば200では、新しい仕事の技術を学ぶエネルギーを得ることができます。成長することや学びは、達成可能な目標となります。恐怖や性格の欠点に直面しても、そんなことにも負けずに成長できる能力があります。不安に対しても200以下の段階では無力ですが、ここでは努力をむだにしません。意識が200未満である人々を打ち負かす傷害も、このレベルに進化した人たちにとっては、逆に刺激となって働きかけます。

 

このレベルにおける人々は、自分たちが得るのと同じくらい多くのエネルギーを世間に返します。低いレベルでは、個人 に対しても、集団に対しても、社会に貢献することなく、ただエネルギーを消耗させるだけです。達成すること自体がポジティブなフィードバックや自分のため になり、また自尊心にもつながるので、次第に自分は強くなっていき、生産的な生き方が始まります。人類の集合意識レベルは、何世紀にもわたって190に留まり続けましたが、この10年間にほんの少しですが207というレベルにジャンプしたことは、興味深いことです。

 

 

 

●意識レベル250 「中立」

 

「中立」と呼ばれるレベルに達すると、低いレベルから解放されるので、エネルギーは非常にポジティブになります。

 

250未満では、意識はものごとを二つに分けて見る傾向があり、白黒で分けられない複雑で多因性の世界の問題に対しても、どちらかに固執する姿勢をとります。

 

しかしそのような姿勢を取れば、二極性が生じて反対や分裂を作ってしまいます。武道では堅い姿勢は攻撃されやすい要素となります。曲がらないものは壊れやすいからです。

 

傷害や、人のエネルギーを消耗させる対立を超えると、「中立」の状態となります。ここでは柔軟さがあり、批判的にな らないので、現実的な評価ができるようになります。「中立」であることは、結果に比較的こだわらないことを意味します。自分の思いどおりにならないことに 対する苛立ちは、もはや経験しなくなります。

 

「中立」のレベルでは、「さて、この仕事が得られないのなら、また別の仕事でも探そう」と言うことができます。これ は、内なる自信の始まりを意味します。自分のパワーが感じられると、人は簡単におじけづいたりしませんし、他人に認めてもらう必要はありません。浮き沈み する人生で、基本的に250のレベルの態度をもちながら、自然体でいられます。

 

「中立」の人たちには、幸福感があります。このレベルでは、この世で生きてる自信が現れます。このレベルの人たち は、対立や競争、罪悪感に関心がないので、周囲の人たちも安心して、良好な関係が築けます。彼らは基本的に感情の乱れがありませんし、批判的な態度や他人 をコントロールすることもないので一緒にいると快適です。中立の人たちは、自由を大切にするからこそ、彼らをコントロールすることは難しいのです。

 

 

 

●意識レベル310 「意欲」

 

非常にポジティブなこのエネルギーのレベルは、これからさらに上のレベルへの入口であると考えられます。

例えば「中立」のレベルでは仕事は適切に行われますが、「意欲」のレベルでは仕事はうまく進み、すべてのプロジェクトが成功するのは当たり前のことになります。

 

成長はここで急速に早まります。なぜならこのレベルの人々は、周りから求められて進歩するからです。「意欲」とは、人生に対する内面の抵抗に打ち勝って、前向きに生きることを意味します。

 

測定が200以下の人々は、閉鎖的な傾向がありますが、310のレベルになると、素晴らしいひらめきが現れます。

 

このレベルでは、だれにでも好意を持って接する人間になるので、社会的にも経済的にも成功は自動的についてきます。

 

意欲ある人は、失業にも煩わされません。彼らはどんな仕事も引き受けますし、自分から天職を作り出したり、自営業を 営んだりすることもあります。彼らはサービス業など決して嫌がりません。彼らはだれに対しても協力的で、社会のよき貢献者となります。また、心の内面の問 題にも前向きになるので、人生の学びに対する大きな障害はありません。

 

このレベルの人は、自己尊敬の気持ちが高く、社会からの認知や感謝、見返りといったポジティブなフィードバックに よって、それはさらに強化されます。「意欲」は他者の求めに共感し、敏感に反応します。意欲ある人々は、社会を築く貢献者です。逆境から立ち直り、経験か ら学び、自己修正できる傾向があります。プライドを手離したので、彼らは自分の欠点を知り、他者から学ぶ謙虚さも持ち合わせています。「意欲」のレベルで は、人々は優秀な生徒となります。彼らは容易に訓練できて、社会のために多大なパワーを発揮できることを示します。

 

 

 

●意識レベル350 「受容」

 

意識のこのレベルでは、自らがソース(源)であり、自分 自身が人生のクリエータであるという意識と共に大きな変容が起きます。「自分がすべての根源である」という責任を持つのは、このレベルの進化に特有なもの であり、生命のエネルギーと調和をもって生きることができる能力が特徴です。

 

200未満のレベルにおけるすべ ての人間は無力な傾向があり、自分を哀れな人生の犠牲者とみなします。これは、幸福の源や問題の原因が、「向こうに」あるという信念から起きます。幸せの 源は自分の内にあるという気づきから、自分自身のパワーを取り戻す大きなジャンプが、このレベルで完成します。

 

さらに進化した段階では、自分を幸福にする能力は「向こう」には何もなく、そして「愛」は人から与えられたり、人から奪ったりするものではなく、自分の内より創造されるものであるということに気づきます。

 

このレベルを受身と誤解してはいけません。受身は無関心の徴候ですが、「受容」とは人生をあるがままに受け入れることです。そこには感情的な穏やかさがあり、そして否定を乗り越えると、物事の見方が広がってきます。

 

人はこの状態で、歪みも誤解もなく、ものごとを見る事ができます。経験の内容は拡大されるので、「全体像をみる」ことができるのです。「受容は」本格的にバランス、割合、適切さに関係します。

 

「受容」のレベルにある個人は、正しいか間違いかを決めることには関心はなく、その問題の解決策を見つけだすことに 全力を尽くします。きつい仕事に対して不快に感じたり、うろたえたりしません。長期目標が、短期目標より優先します。自己鍛錬と物事に精通することが際 立ってきます。

 

「受容」のレベルでは、争いや抵抗によって二極化することはありません。他の人たちも自分と同じような権利があるので、平等さを尊重します。

 

また、低いレベルは硬さが特徴ですが、このレベルにおいては社会的な二極化は、問題解決への一段階として生じていると見え始めます。したがって、区別や不寛容さはありません。平等とは、多様性を無視しないという理解があるので、「受容」はむしろ全体を含めます。

 

 

 

●意識レベル400 「理性」

 

低いレベルの感情を超越できると、知性と合理性がまっさきに現れてきます。理性は、大きくて複雑な量のデータを扱うことができ、また迅速に正しい決定をすることができます。

 

関係性の複雑さや深さのレベル、微妙な違いを区別し、理解することができます。そして、抽象的なコンセプトや象徴的 な発想を活用することが、だんだん重要となってきます。これは科学や医学、それからインスピレーションを概念化することや、読解力が一般的に増大するレベ ルです。

 

このレベルでは知識と教育が「財産」として追加されます。理解と情報は達成のメインツールとなり、そこで400レベルが証明されます。これはノーベル受賞者や偉大な政治家、最高裁判長といったレベルです。アインシュタインやフロイト、そしてほかにも歴史に残る偉大な思想家の多くがこのレベルで測定されます。

 

このレベルの短所は、概念や理論についつい夢中になり、「木を見て森を見ず」の状態になってしまうことです。つまり シンボルそのものや、それが表すこととの違いを明確に識別することにとらわれたり、因果関係の正しい理解を制限させてしまう「客観的な世界と主観的な世界 の違い」に混乱させられたりすることです。このレベルでは結局、基本的なポイントを逃してしまいます。理性を働かせること自体が、最終目的となりうるので す。「理性」には限界があり、その範囲内で本質や複雑な問題の重要ポイントを見抜く力はありません。

 

「理性」だけでは真実を見いだすことはできません。理性は莫大な量の情報と資料に裏付けを生み出しますが、そのデー タと実際に起きる結果の矛盾を解決する能力に欠けます。すべての哲学的な論争は、単独では説得力があるように聞こえます。しかし「理性」は、論理的な方法 論によって支配されている技術的な世界では高い効果がありますが、逆説的に「理性」そのものが意識のより高いレベルに達することへの最も大きなブロックと なります。このレベルを超越するのは、私たちの社会では難しことです。

 

 

 

●意識レベル500 「愛」

 

マスメディアで表現される「愛」は、ここでいう「愛」とは違うものです。私たちが「愛」と呼んでいるものは、肉体的 な魅力や所有欲、コントロール、嗜癖、エロチシズムなど、目新しさが交わった激しい感情的な状態をいいます。それはとても壊れやすくて、また変わりやす く、満ちては引く潮のようなものです。

 

フラストレーションを起こすと、この感情は仮面を外し、それが本来持っていた基本的な怒りや依存関係が明らかになる ことがよくあります。愛が憎しみに変わることは、一般によく知られています。しかし、それは「愛」ではなく、依存的なセンチメンタリズムを言っているので しょう。そのような関係性は本当の愛ではなく、プライドによる憎しみから生じているものなのです。

 

500レベルは、無条件かつ不変で永久的な愛の発展によって特徴づけられます。それは動揺しません。その源泉が外部要因に依存していないからです。

 

愛することは心の持ち方です。それは世界に対して許し、養うサポート的なあり方です。「愛」を発するのは、理性から でも頭からでもありません。愛はハートから発します。その動機の純粋さゆえに他の人たちのエネルギーも引き上げるなど、「愛」はかなり大きなパワーを持っ ています。

 

このレベルに達すると、物事の本質を識別する能力が優れてきます。問題の真髄がフォーカスの中心となります。理性を 使わずとも、問題の全体を瞬時に認識する能力が生まれます。それに加えて、特に時間とプロセスに対してのとらえ方がそれ以下のレベルより大きく拡大しま す。理性は細部だけを扱いますが、「愛」は全体を扱います。この能力は、よく直感に関係しているとみなされています。その理由は連続して現れる象徴を頭の 中で解読するのではなく、直感でとらえるからです。この抽象的だとみなされる現象は、実際にはかなり具体的なものです。それは測定可能なエンドルフィン が、脳内で放たれることを伴うものです。

 

「愛」は立場にとらわれないし、区別をしないので、その結果グローバルに広がります。どんなバリアもそこにはもはや存在しないので、「他とひとつとなる」ことが可能です。したがって「愛」は包括的であり、自己に対する意識が徐々に拡大していきます。

 

「愛」は生きることのすばらしさに焦点を合わせて、ポジティブさを増大させます。ネガティブなものを攻撃することよりも、かえってそれをリセットすることによって溶かします。

 

 

 

●意識レベル540 「喜び」

 

「愛」がますます無条件となるにつれて、あなたの内側から喜びがわき出ることを経験するでしょう。これは、突然何かの原因で起こるようなもではなく、すべての行動に常に伴い、一瞬一瞬に中に感じられるものです。ちなみに540とは、癒しとスピリチュアルな意識に基づいた自助グループのレベルでもあります。

 

540以上のレベルは、聖者や高度な精神の探求者、ヒーラーなどの領域です。このエネルギーフィールドの特徴は、長引く逆境に直面しながらも、大きな忍耐力で積極的な態度を根強く持つことです。

 

この状態の印は「慈愛」です。このレベルに達すると、他の人々にはっきりとした影響を与えます。このレベルに達した人たちは、長時間相手の目をじっと見つめることで、人々を愛と平和の意識に導きます。

 

500という高いレベルから見る 世界は、創造の完全さと絶妙たる美しさで輝いて映ります。すべてが共時性をもって自然に起きます。そして世界とそのすべてが、愛と神性の表現であることが わかります。個々の意志は、神意に溶け込みます。それを人々は「奇跡」と呼びますが、何か自分よりもっと偉大な存在が身近に感じられて、その存在のパワー によって、通常の現実で受け止められる感覚以外のものが感じられる現象が起こります。これらの現象は個人のパワーではなく、エネルギーフィールドのパワー を表しています。

 

このレベルにおける人間の、他者に対する責任感は、低いレベルで示される責任感とは異なった質ものです。特定の人間 のためにではなく、むしろ生命そのもののために意識を使う願望があります。この多くの人々を同時に愛することができる能力は、愛が深まれば深まるほど、自 分の「愛する能力」の領域の広さを発見することになります。

 

このレベルの特徴として、臨死体験が挙げられます。臨死体験を経験した人は、540~600のエネルギーとなり、意識が変容することがあります。

 

 

 

●意識レベル600 「平和」

 

このエネルギーフィールドは、「超越」「自己実現」「神意識」と呼ばれる状態に関係しています。非常に希な経験で、1000万人に一人しか到達しません。

 

この状態に達すると主観と客観の区別はなくなり、そして知覚は、どんな特定のフォーカスもありません。このレベルに達した人は、至福の状態が連続して起こるため、自らを世界から切り離し、通常の生活をやめてしまうこともしばしばです。

 

ある人は、スピリチュアルな指導者となります。人類の改善のために匿名で活躍する人もいます。また、彼らの各々の分 野で偉大な天才となり、社会への貢献をする人たちも生まれます。これらの人々には神々しさが満ちており、いずれは公に認められるかもしれませんが、このレ ベルでは、一般によく知られている宗教を超越し、すべての宗教が由来する純粋な精神性へと変わっていきます。

 

600とそれ以上のレベルでは、 時間と空間がスローモーションのように感じられると、しばしば報告されています。じっと固定しているものは何もなく、すべては生き生きと輝いています。そ の状態は絶え間なく続き、このうえなくすばらしい進化のダンスが繰り広げられるようになり、そこで感じる物事の有意義さと根源に対する気づきは、圧倒的な ものとなります。

 

このすさまじい気づきは理屈では説明できないので、心は思考することをやめ、永遠の静寂さが訪れます。つまり観察者 は、その光景の中に溶けて、観察されるものと等しくなります。無限のパワーの存在によって、すべてがすべてに連結し、優しさに満ちあふれているのですが、 石のようにもしっかりとしています。

 

優れた芸術品、音楽や建築は、600~700の間で測定されます。それらは一時的ではありますが、私たちの意識を高いレベルに運ぶことができて、どこにいてもインスピレーションと永遠を感じさせてくれることが認識されています。

 

 

 

●意識レベル700~1000 「悟り」

 

このレベルは、歴史上の偉大な人々のレベルであり、これは、昔から人類を従えてきた「スピリチュアルなパターン」を創造した数知れない人々のレベルでもあります。すべてが「神の意識」につながっていて、時には彼らも神と同一視されます。

 

これは強力な霊感のレベルです。これらの存在は、人類のすべてに影響を及ぼすアトラクターのエネルギーフィールドを 設定します。このレベルでは、自他が分離せず、むしろ自己の意識と神意識が一体化します。心を超越した大いなる自己(Self)を無限に感じるのです。さ らに、自らが模範となって自我を超越することで、他者にも貢献することになります。これは人間の範囲における意識の進化の頂点を示します。

 

偉大な教えは、人類のすべての意識レベルを上げます。そのようなヴィジョンをもつことを「恩恵」と呼び、その贈り物として、定義のしようがない、また言語でも表現できない、無限の平和が訪れます。

 

気づきのこのレベルでは、存在に対する感覚は、すべての時間と個性を超越するものです。「私」という肉体的な区別 は、もはや存在しないので、自分のという存在の運命に全く関心を持ちません。肉体とは、コミュニケーションすることが一番の価値であり、それは心が介入す る意識の道具にすぎないように思えます。個という小さい自己(self)は、大いなる自己(Self)に融合して戻っていきます。これは二元性がまったく 存在しないレベルであり、あるいは完全たるワンネスのレベルです。意識が局部に集中することはなく、意識は至るところに平等に存在します。

 

悟りのレベルに達したある人物が、人々に恩恵を与えるすばらしい表現をしました。「ムドラー」と呼ばれる、手を特定の位置で組み合わせる表現で、この悟りのエネルギーフィールドを人類の意識に伝達させることを意味しています。

 

「神の恩恵」であるこのレベルは、歴史を通して世界に記録されている最高水準の人間によって達成されました。その意識は1000という、人間では、最高のレベルで測定されています。よく知られているアバター(神の化身)として、主クリシュナ、主ブッダ、そして、主イエス・キリストがいます。彼らには「主」と名づけられるのが適切であるように思います。

 

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休日ということで、ブログでも更新しようかと思う。

 

前回のブログでスピリチュアル的な考え方は魂の存在をその体系的な思想の基盤にしていると書いた。

 

魂がある、と定義すると必然的に魂の帰る場所があるということになるわけだ。それが俗にいうあの世といわれる世界のことになる。

 

この世が物質と物理法則に拘束された世界であるとすれば、あの世とは物理法則に拘束されない非物質世界ということになる。死後に魂が帰る場所なのだから、当然のことながら物質世界と考えるには無理がある。魂が物質であるとする定義は見たことがない。

 

因みに魂の重さは21グラムである、という説がある。死の直前と死後に肉体の重さを計測したら21グラムほど死後の方が軽かったというわけだ。ゆえに魂の重さではないか、といわれているらしいが、どうやら信憑性はないようだ。測定のずさんさや標本数の少なさから、科学的には認められていないという。

 

ということで、魂とは非物質であり、肉体から離れた意識体と定義しておこう。

余談になるが、魂には複数のエネルギー体が混在しているという。

肉体とぴったりと重なっているのがエーテル体で、さらにその奥には感情を有しているアストラル体、さらにその奥には精神性をつかさどるメンタル体、さらに奥に仏性のコーザル体というものが存在するらしい。

ここら辺の定義はあいまいで、果たしてどこまで存在しているのかはよく分からない。

かの有名なスピリチュアリストがエーテル体とアストラル体の違いの話をしているのを目にしたことがあるから、魂と一口にいっても色々とあるらしい。

 

話を戻そう。上記にあるように、あの世があってこの世があってと定義すると、なぜ魂はこの世に生れ落ちるのかという疑問が浮かぶと思う。そしてそれは必然的に輪廻転生の可能性を示唆している。来世と前世、過去世というものの存在である。

 

これらに対する回答はネットや本といったどの媒体の活字を見ても大体同じ内容のことが記されてある。

まず、魂は不滅であり永遠の存在であるという定義がなされ、この世に生れ落ちる理由は魂を成長させたいがためである、と。

 

この世とは魂を磨くためのスポーツジムのようなトレーニング場であり、あの世が本来の魂の住処ということになるわけだ。

要するにこの世とは、ドラゴンボールでいうところの精神と時の部屋といえよう。

ゆえに死に対する悲観はない。スピリチュアルにとって死は里帰りなわけである。物理法則や物質に束縛されなくなるのだから、解放されると認識することもできる。意識や精神性の向上さえも期待できる可能性すらあるわけだ。いうなれば、アセンションである。

 

付け加えておくと、肉体を持った精神性の向上には限界があるという。キリスト教では愛であり、仏教では感謝に相当し、バシャールに言わせるとワクワクといった色々な考え方があるが、肉体という器が物質であるというその性質上、スピリチュアリズムが目指す魂の成長に肉体が蓋をしてしまっているという。

 

ダリル・アンカがチャネリングするバシャールという高次元密度の存在にいわせると、我々が放つ波動の振動数であるが、ここでは分かりやすく、デヴィット・R・ホーキンズ著の「パワーか、フォースか」という本を紹介しておこう。彼はその著書の中で魂の成長を意識レベルと定義し、0~1000までの値で成長の度合いを表している。

 

肉体が魂の成長に蓋をしてしまっているといったが、意識レベルが1000に到達しえた人間はこの長い歴史の中でほんの一握りしかいない。

分かっているだけで3人である。一人はイエス・キリストであり、二人目はゴータマ・シッダッタであり、最後はクリシュナである。

 

もうすでに分かっていると思うが、イエス・キリストはキリスト教の開祖である。ゴータマ・シッダッタはお釈迦様のことであり、仏教の開祖。クリシュナはインド神話に登場する英雄であり、ヒンドゥー教におけるヴィシュヌ神の第8の化身である。

 

要するに、各宗教において神格化された人間というわけだ。現代にまで名前の残っているレジェンドである。

 

そしてそれはそのまま輪廻転生からの解脱を意味している。肉体という器を持って成長できる限界まで魂が磨かれたとすれば、この世に生まれてくる意味がないわけだ。

 

話を戻そう。

魂の出発点はまず、鉱物であるという。そこから進化を遂げて植物になり動物を経て人間へとたどり着く。

 

一度人間に辿り着いた魂は動物や植物になることはないらしい。

 

因みに、イルカは精神性の非常に高い生き物であるらしく、一節によれば人間よりもスピリチュアリズムに長けた存在であるという。イルカのオーバーソウルはクジラであり、かつては人間に輪廻転生していた時期があったとも聞いたことがある。もちろん、イルカのオーバーソウルであるから、人間に輪廻転生するときは五、六人以上に生まれ変わっていたのだという。

出典元はバシャールである。

 

魂の進化と日本の宗教的な思想に類似点を感じるのは私だけだろうか。

 

日本は太古から万物には神が宿っていると信じてきた歴史がある。神道については詳しくないので割愛するが、どうやら万物に魂が宿っているという考え方はあながち間違ってはいないのではないかと思う。

 

私の予想になるが、鉱物に宿っている魂はそれはそれは長い年月をかけて自分という存在になんとなく気がつくのではないだろうか。100年や200年という単位ではなく1000年や1万年という単位の歳月が必要かもしれないが、風に吹かれてコロコロと坂道を転がりながらなんとなく自分が存在していることにうすぼんやりと気がつく。思考も感情もないだろう。しかし、自分に気がついたものだけが植物へと進化を遂げるのではないかと思う。

 

まさに、ライク ア ローリングストーンである。

 

植物は感情を獲得して動物へと進化を遂げ、動物は思いやりを獲得し人間へとステップアップする。

 

今日はここまでとしよう。

明日も仕事である。

あーあ。私も解脱してーな。

 

 

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吾輩はハックルベリーである。

 

ブログという形でネットの片隅から吹いたら飛んでいきそうな小さな情報を発信していこうかと思う。基本的にSNSなどはやらない人間だが、そんな私が重い腰を上げた理由は単なる思いつきに他ならない。なんとなくである。

 

ザ・スパイダーズの名曲、「なんとなくなんとなく」を引用しておこう。

 

君と会ったその日からなんとなく幸せ♪

 

その「なんとなく」である。

 

はじめて♪を使ってみた。すこし気恥ずかしいが、どうせなら色々な「はじめて」を経験していこうではないか。

 

 

ということで、第一回のブログ開幕である。

 

主に内容はスピリチュアルとしておこう。とはいえ、オーラが見えるとか、守護霊が見えるとかそういった能力は全く持ち合わせていない。

 

情報源は活字から得ている単なるスピ系ヲタクである。

 

そんな私が活字から得た知識をここにメモのつもりで残しておく。

 

まずはスピリチュアルというものが何たるかを書き起こしておこう。以下、完全なる私の偏見と独断による身勝手な解釈であることを断っておく。

 

 

スピリチュアルとはまず「我々には魂がある」という考えから出発しているといえるのではないだろうか。

 

哲学は「我思う、ゆえに我あり」というデカルト的な考えが根底にあって、そこから発展し「人生」や「生」というものをテーマにした思索が行われて築き上げられたものであると私は思っている。

それは「私がここにいる」という事実が出発点であり、そこから「人生とはなにか」、「いかに生きるか」といったテーマに発展していったのではないか。

紀元前のそれもソクラテス以前の哲学はどうやらその限りではないようだが、概ね間違ってはいまい。

 

自己啓発は「お金」や「成功」をテーマとして世にいう成功者や偉人たちの行動や考え方を分析し、そのエッセンスをまとめたものであろう。

普遍的な成功法則があるはずだという考え方が根底にあるのは一目瞭然であり、社会的な成功というある種の「幸せ」を得るためのノウハウを提供してくれるわけである。

 

宗教はいわゆる唯一無二の完璧なる存在といわれる「神」というものを想定し、それがいかなるものか、その教えとはいったいどんなものであるかをまとめたものであるといえると思う。

最近、スピ系の分野で宗教のはじまりや人類の起源については色々いわれているみたいであるが、ここではひとまずダーウィンの進化論的な解釈を一つの基準としておく。

人類は脳の発達により、未来を考える能力を獲得した。しかし、幸か不幸か、どんどん未来を考えて行った結果、人生の終わりである「死」にいきついたという。

死の恐れから逃れるために、宗教や神といった存在を作ったと誰かがいっていた。

嘘か本当かは別としても、宗教というものは神という存在がその考え方の絶対的な根幹をなしていることは事実であろう。

そして輪廻転生やカルマなどの様々な教えから、やはり人間はどう生きるべきなのかといった問いに対する一つの答えを提供しているといえると思う。

 

スピリチュアルとは宗教や哲学、自己啓発的な要素を含んだコンテンツであろう。

やはり、どう生きるかという問いに対する考え方やそのテクニックやノウハウを提供しているわけである。

 

自己啓発は成功やお金を得るためのテクニックからアプローチを行い、宗教は神や仏といったことから、哲学は我ここにありという普遍的な事実をその足掛かりとして、結局は同じような内容のことを私たちに教えてくれているのではないか。

 

その一つにスピリチュアルがある。

 

要するに、宗教を学ぼうが、哲学を学ぼうが、自己啓発を学ぼうが、スピリチュアルを学ぼうが、登山口は違えど登ろうとしている山は同じなのである。頂上から見える景色は変わりない。

 

余談だが、黒澤明監督の「生きる」はいい映画だった。

 

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