みなさん、こんにちは!

 

 

今年4月に家族5人で長野県佐久市に

移住したパラレルワーカー、内村広樹です。

 

 

今回は自己紹介3連載シリーズの2回目。

 

 

(前回の記事はコチラ↓↓↓)

 

 

 

大学4年生の時、僕は人生最大の挫折経験を

することに。

 

 

どこかの大手企業に受かるだろうと

高を括っていた僕は順調に、自分が名前を

しっている大手企業に片っ端から応募。

 

 

ところが・・・・・・

 

 

ほとんどの企業で

 

 

エントリーシート落ち

 

 

行けてもせいぜい1次面接か2次面接

 

 

おかしいぞ!と思いつつ当時から数を

こなすことに慣れていたので、対策を考える

ことなくエントリーを続けました。

 

 

・・・それでも結果は

同じ

 

 

やっぱり大手だけでなく、中小企業も見て

みようと思いエントリーするも結果は

たいして変わらず。

 

 

ダイエットの経験を話しても、

 

 

「キミ、嘘ついちゃいけないよ!」

 

 

と心無いことを言われたこともありました。

 

 

そんな僕にも千載一遇のチャンスが

多くの同級生が内定をもらっていた4年生の

秋ごろ

 

 

東海地方にある、某メーカーさんの

最終選考に奇跡的に残り、当時住んでいた

神奈川県から新幹線で現地へ!

 

 

迎えた最終面接。

 

 

役員さんを含む、数名の採用担当の方。

そして学生側は僕を含め、5~6人。

 

 

確かひとりひとり、志望動機を述べましたが

それぞれに与えられた時間は「2~3分」。

 

 

「これでだめならまた振り出しか~」

といった不安やその場の緊張感に押し

つぶされ全く手ごたえなし。



正直、終わった瞬間に

「落ちたな」と思いました。

 

 

数日後、結果が来て案の定

 

 

不合格

 

 

時間とお金をかけて新幹線で言って、

何もできず2~3分で終わってしまった

不甲斐なさが残りました。

 

 

ところが、僕はその後、ある行動に出ます。

 

 

その会社に電話して、

 

 

「今後の自分の成長のためにお聞きしたい

のですが、僕が足りなかったもの(=不合格

の理由)は何ですか?」

 

 

と聞ききました。困惑する人事の方。

少々お待ちくださいと言われ、数分後。

 

 

「申し訳ありませんが、お答えすることは

できません」

 

 

との回答。

 

 

「そうですか。。。。わかりました」

 

 

と電話を切った僕。

 

 

その瞬間、

僕の「糸」は

完全に切れました。

 

 

大学4年の男子がくやしさのあまり、

母親の前で号泣。

 

 

その光景はいまでも覚えています。

 

 

僕も社会人になり、ずっと人材系の仕事を

しているので、不合格の結果は伝えない

のは当たり前というのはよくわかります。

 

 

でも、当時の僕にはそれがわからなかった。

 

 

大学4年の秋。僕は就職活動を完全に

諦めました。

 

 

不合格の数は約100社になっていました。

 

 

自分は社会から必要とされていないと

感じ苦しかったのは事実。でもその反面、

本音を言うと、同情した親が就職しなく

ても、家に置いてくれると思っていました。

 

 

ところが、それは大きな勘違いでした。

 

 

その後、就職活動をせず、フラフラしていた

僕に対して、自衛官だった父親から

この一言が。

 

 

「お前が就職するかしないかはお前の

勝手だが、卒業したらこの家から出て

行ってもらう」

 

 

えーーー!?傷口に泥を塗るつもりか~。

 

 

と父親を恨みましたが、これは真逆で、

今思えば愛情以外の何物でもありません。

 

 

熊本の田舎で3人兄弟の末っ子として育ち、

「パイロットになりたい」と航空自衛隊に

入った父親。訓練生として、飛行訓練は

したものの、最終的にその夢かなわず、

地上で働き続け僕を育ててくれました。

 

 

そんな父親からしたら、こんな甘ったれた

僕は見るに堪えなかったのかもしれません。

 

 

ということで、就職活動を大学4年の年明け、

つまり卒業を3か月後に控えた時期にスタート。

 

 

縁あって、卒業間際に千葉にあるリクルート

求人広告の代理店に内定。新卒で入社し、

12年間勤めました。

 

 

 

職種は「営業」

 

 

就職活動をはじめた当初は誰もが知る

大手企業を志望していた僕が最終的に

入社したのは

 

 

当時設立2年目、社員数10名ちょっとの

ベンチャー企業でした。

 

 

最終回へ続く