お疲れ様です、3S癸生川です。

滞納すみません。

近況報告するネタもないので、思ったことでも書いてみます。

 

最近、人の内面は自身にとって都合がいいんだと思いました。

極端な表現をすれば、自身を無条件に全肯定してくれるって感じでしょうか。

そこまで言わなくても、多くの人にとって内面は自身の価値観が絶対的に正義になる世界なんじゃないですかね。

 

偉そうなこと言ってますが、自分はその顕著な例です。心の中の癸生川が絶対正義マンに甘えてたら、こんなわけのわからない人間になってしまいました。

それでも成長できた点があるとすれば「癸生川の内面は癸生川にとって都合がいい」って理解できたことでしょうか。

先に保険をかけておくと、まあこんなこと思ったところで充実した日々は送れません。

 

他の人の意見と自分の考えてることなんて同じことのほうが少ないくらいですよね。

でもそこで「あいつはああいう考え方だから~」とか「まあ価値観が違うから~」とか言っててもなんの解決にも救いにも慰めにもなりません。そういう前提の下で話し合いしましょうってなっても、結局多数決か声がでかい人の意見を採用するかに決着しちゃうと思います。

 

ちょっと話題を変えます。

基本的に誰の意見にも根拠はあります。「なんとなく楽しそうだから!」も「○○のほうが期待値が高いから…」も、一応その人が想像できる範囲で考えた結果の産物です。現代社会は後者のほうを客観性があるため望ましいと評価しますが、本来これらの間に優劣は存在しません。

わざわざこんな話出してなにが言いたいかというと、発言の根拠は考えられるよねってことです。

例えば前者のような意見を出す人がいたとして、なんでこういう発言をする(した)のかなって思うと、

・客観的評価より主観的指標を大切にしてる

・自身の直観への信頼度が高い

・上2つのような価値観でこれまで問題なく生きてこれた

・わざわざ数字を使って考えるほど話題に対して興味がない

なんかが挙げられます。

後者に対しても同様に、いろいろ考えられるわけです(なんか長くなりそうなので割愛します…)。

 

ちょっとまとめです。が、申し訳ないことにまだ続きます。

あなたがどう感じるか(良い悪いなど…)はおいといて、基本的に他者の意見には根拠があります。

そして、そういう意見になった、そういう根拠になったのにも、やはり根拠があります。

ここから他者に対して、そうやって言動を掘り下げていった結果の「根拠の根拠」が是とされる価値観を持ってる人なんだって判断することができるんじゃないかと考えられます。

 

まあ要するに、言動一つとっても深掘りしていったらその人自身をよく表してるよねってことです。

それで、そうやって深掘りすることで他者をよりよく理解できるんじゃねって、ただそれだけです。

 

私たちは自己完結性の低い社会的な生き物なので、9割以上の人は誰かと関わりなしにはきっと生きていくことすらできません。

だからコミュニケーションとやらが有意義で、最近の何かにつけて多様性を重視する社会においてコミュニケーションの必要性はますます高まっています。うちの部も例外ではありませんね。

さて、コミュニケーションの訳語は「意思疎通」です。ある人の意思(=人が思ってること)が他者に疎通する(=滞りなく通じること)ってのが「コミュニケーション」です。

つまり、相手の言動をそれ自体として捉えている段階ではコミュニケーションは成立しません。基本的に人間は他者の思考を表面だけで理解・判断できないからです。

他者の言動を少し深いレベルで解釈できて初めて「コミュニケーションができた」って胸張って言えるんじゃないでしょうか。

 

そう考えると、最初のほうで言及した「あいつはああいう考え方だから~」とか「まあ価値観が違うから~」とかは他者に依存しすぎです。これらは例なのでわかりづらいかもしれませんが、要は他者の言動をあまり考えず切り捨てちゃうことがある人ですね。

他者に自身の考えを理解してもらえればコミュニケーションが成立しますが、そうでない場合「理解してよ!」「なんで理解してくれないの!」の応酬になってしまいます。

相手がどれくらい自分を理解してくれるか、どれくらい自分を受け入れてくれるかにかかっているというわけです。

他者には理解を求めるけど自分から理解することはないってなんか報われなくて寂しいし、同時に他者に自分の正義を強いる傲慢でもあります。

 

特に自分も「あいつはそういうもん」って思う気持ちがけっこうあるんですが、ちょっと堪えて他者を深く考えられるようになりたいなって思ったという話でした。

 

こんなくそ長い文章をわざわざ読んでくれてありがとうございました。

明日は半デンなのでよく寝たいと思います。