新ユニットのAZB21を結成した情報幹事・広報幹事の田中康博です。



って、そんなユニットはありません。もしかしたら、と思ったあなた、残念ですがそれは情報の取捨選択がうまくいっていないのかも。なんちって。えへへ。世の中パチもんばっかりだから、何が本物か自分の目で見極めなくちゃいかんですねぇー。外国に行ったらパクリもんばっか売ってて、日本人は押し売りに弱い傾向にあるから案外買っちゃうらしい。

話がそれました…

今回の日記ですが、僕の仕事について云々書いてもあんまり興味がないでしょうから(前に書いたので)、日ごろ思っていることについて書いておきます。変なこと考えてるんだなぁこの人、って思ってもらえればそれでいいです。

では問題です。

みんながこの部にいられるのは、誰のおかげでしょうか?

誰のことが一番先に思い浮かぶか。

別に誰が最初に思い浮かんでもいいとは思うけど、もし何番目でもいいけど両親のことが思い浮かばなかった人は、まずいかも、いや、相当にまずい。

親のありがたみくらい大学生になったから分かるよーだって、家ではご飯作ってくれるし、お金も必要な分はくれるし、いろいろしてくれるからねー。今まで自分を育ててくれたことには感謝してる。

って思うだろう。自分もそうだった。ただ、その程度の感謝で本当に足りるのか。ここで疑問を投げかけたい。

自分の母親は約1年前に倒れて、死にかけました。今はなんとか日常生活を送るまでに回復したけど、失ったものは大きい。今も後遺症と戦う日々です。

突然生活が変わって、身勝手がきかなくなった。今まで母親が何をしてきたのか、自分が何をしなくちゃいけないのか、痛感した。

ここで具体例をあげるわけではないが、親は自分たちが思っている以上のことをしてくれている。あれこれしてくれている、それだけじゃなくて、精神的な部分で大きく支えてくれている。何せ親は幼少期第2人称として認識していた存在であるから。親を第三人称、つまり第3者として認識していく過程が精神面での「自立」です、よ。

自分は常駐マネとしてほとんど家にいない生活を送っているが、そんな勝手を許してくれるのは親の優しさ以外の何物でもないでしょう。本当なら家でご飯作って家事をして母の世話をしてあげる、家事をしている父親の負担を減らしてあげる、そうあるべきだ。


母がある時こう言った、「自分はもう生きていてもあまり楽しみがない」

それを言われた時はショックだった。自分の母親が絶望の中で生きていることを知って、正直言葉が出なかった。自由を制約された母親は日々の生活で精いっぱい。余暇を有意義に使うこともできない。

それに対して、自分はまだ自由がある。部を続け、大学に通い、それなりに自分のやりたいことをやらせてもらっている。

多分みんなもそう。自由にさせてもらってるんだと思う。

それが一体どれくらい価値のあるものかは、自由の裏につきまとう「責任」の大きさから分かるはず。

その責任はなんなのか、各自考えてみるといいんじゃないでしょうか。答えは人によって様々でしょう。だから言いません。



とにかく、長ったらしい文章を書いて何が言いたかったかというと、自分の今ある環境に、それを実現してくれている人に多大なる感謝をしてほしいということです。そうすれば、いま自分が何をすればいいのか、少しわかってくるでしょう。

え、分からない?まぁそれもそれでいいと思います。考えることが大事で、そんなにすぐに答えが出るもんでもないでしょうから。ただ、そう言うことを考えないのは、よくない、と思っているのです。

そろそろ終わりにしないとどこまでも書いてしまいそうなので、終わりにします。

では、ここで

<偉人たちの言葉>コーナー

夢は逃げない、逃げるのはいつも自分だ。 (野原ひろし)

今こうした自由があるからこそ、夢は追い求めることができるのでしょうね。みなさん、これからもがんばりましょう。ではさよなら。また会う日まで。