11月は、児童虐待防止推進月間ということで、

11月18日、北海道函館市にあるコミュニティ放送局「FMいるか」にて、

児童虐待について語る放送が行われました。



それに先駆けて、ツイッター上にて、

北海道函館市の公立大学で教員をしている川越敏司さんによる呼びかけで、

先日記事にしていただいた、児童虐待サバイバー・アーティスト、

シンガーソングライター、イクラさん @ikurakoikuraと、児童虐待の当事者の声を集めた本、

「日本一醜い親への手紙」を編集した、ライターの、今一生さんとの打ち合わせがなされて、

18日の函館ラジオ「FMいるか」にて、私にとっては、奇妙にもユニークな共演がなされました。



この呼びかけをなされた川越敏司 @ToshijiKawagoeさんは、

ツイッター上で(かな?)、イクラさんの唄に触れられて大きく感動なされ、

今回のラジオ放送にも、イクラさんの代表唄「ヒカリ」を流してお薦めくださるなど、

イクラさん好きのひとりとしては、同じ感動を分かち合え、広めてくれるという、

なんだかとても奇妙にも嬉しい展開になっていました。


また、今話題?の、文月メイさんの「虐待の歌」、「ママ」に関する言及から、

児童虐待問題についての、「世間一般」の理解のされ難さ、についても分析されています。


・・・・


個人的には、弱者がひたすら、次々に切り捨てられるこの社会は、

『忠孝』や『親孝行・親不孝』という言葉はあっても、

『子不孝・子孝行』という言葉が無い社会、儒教観念が強いこの社会では、

虐待された子どもや、DVの被害者、犯罪被害者、いわゆる『弱者』それ自体が、

【スティグマを背負ったもの】、【業深いもの】、【前世の因縁が深かったもの】、

要するに、【弱者・被害者自身に、【落ち度】があったのではないか】、


【因縁】があったのではないか、という、どちらかというと、

人を害するだけで誰の何の益にもならない、けれど一度確立されてるがゆえに守られ続ける、

悪しき強い信念、迷信、という意味では、宗教的、カルトにも通じる、

【穢れ視・忌避視】が、文化的、潜在的に、根深くはびこっているのが原因ではないか、と思う。


・・・

ただひとつだけ言うが、先の記事に書いたけど、

【児童虐待】は、「心の傷=脳、DNA」 を損傷し、様々な精神、身体疾患を患わせ、

人間本来が持っていた、正しく育てられたら、どこまでも伸びるような才能や可能性の光を潰し、

その人間の心身と人生と、その周りの人間を、ほぼ一生、

半世紀に渡って毒し、害し、闇を吐き、破壊し続ける、ひたすらコストのかかる放射性物質のような、

国家的損害のものだ、ということは、確実だと思う。



また、どんな弱者・障害者問題もそうだと思うけど、

児童虐待問題も、普遍的問題でありながら、切実なほどに、

(その背後に社会の問題のある)個人的問題でもある。


声に出る前に、どうしようもないほどの社会の闇に潰された、

声なき声がこうしたことの背後にひしめいていることの想像力を、忘れてはならないのだと思う。



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(ちなみに、ライターの今一生さんが編集した「日本一醜い親への手紙」に

16歳当時の自分の拙文載せていただいてます)





(「FMいるか」の公式ブログの人物紹介の記事には、

http://www.fmiruka.co.jp/tapestry/2013/11/18 …

イクラさんについて書かせていただいた、当拙ブログを載せていただきました。

恐縮です。ありがとうございます。)


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イクラさんと今一生さんの講演などは、今月も行われるようです↓


●ゆるくなれる児童虐待トーク

「ソーシャルデザイン50の方法:あなたが世界を変えるとき」

の作者今一生さんと児童虐待について語りながらお茶しませんか?

ゲスト今 一生

日時12月1日(日)午後1時~

場所澄川TMC札幌市南区澄川3条1丁目9-41

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11/29(金)18:00-21:00

函館は中島廉売横丁ふれあいセンターにおいて、

ジャーナリストの今一生さん、歌手のイクラさんをお迎えして、

児童虐待の問題を中心に講演会を開催します。

参加無料、事前申し込み不要、手話通訳&要約筆記あり。

・・・

お近くの方、ご興味のある方は、ぜひ足を運んでみてください。


また、イクラさんは、児童虐待について、全国を巡って、歌い、講演をなされています。

もしお近くにイクラさんが来たときは、ぜひ一度足をお運びになってみてください。

講演によって児童虐待について(人間=自分そのものについて)理解を深めるだけでなく、

魂、命そのものから湧き出るような、命を貫くような、歌のすばらしさに感動できると思います。


『御茶ノ水KAKADOワンマンライブ1』





『2』










イクラさんは、児童虐待サバイバー(過酷な虐待の「生存者、生き残り」)、

その過去を講演やライブで、言葉で、歌で、語り、歌い続けている人です。

イクラさんを知ったのはツイッターで(イクラさんのアカウント@ikurakoikura)

イクラさんの代表歌「ヒカリ」もyoutubeで見させていただき、胸に迫るものがありました。



6月に水道橋KAKADOさんで行われた、シンガーソングライターイクラさんの

ワンマンライブに馳せ参じました。

わたしはもともと、自分で自分がどこにいるのかもわからないひきこもりだし、

極端に人嫌いだし、人見知りなので、ネットで時々言葉を交わす以上のことはなかったのですが、

今回、イクラさんのライブがあると知り、なんとなく、掻き立てられるように、

行ってみよう、という気になりました。


アーティストのライブに行ったのは、その時が初めてだったのですが、

虐待の痛みと残酷さと醜さを、鋭く、苛烈に、優しく、哀しく歌い上げる色彩の豊かさと、

歌声と歌詩とオーラの迫力に圧倒され、一挙に「アーティスト・歌人としてのイクラさん」

のファンになってしまいました。


イクラさんの歌は、「命を鷲掴みにされる」というか、「命に触れてくる」歌、だと思います。

だからでしょうか、不思議な涙が出てくるのは・・・・。

他にも、素晴らしい歌の数々があるのですが、youtubeにあがっているのがこれだけで、残念。


ツイキャス→ twitcasting.tv/ikurakoikura

Ust→ http://www.ustream.tv/channel/ysasakijpn?utm_campaign=t.co&utm_source=8880341&utm_medium=social

HP『無声音』→ museion.grassdream.jp 


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児童虐待について、語る、歌う、ということ。

イクラさん自身が、虐待のサバイバーだから、わたし自身が、不確かな自覚ながら、

そうだから、当事者として、でも、決して、全ての当事者の代弁者などにはなれない、

この、『虐待』という、きっと恐らく、誰にも、代弁などできないのではないかと思われる、

語っても語っても語り尽くせず、歌っても歌っても歌い尽くせないのではないかと思われる、

あまりに果てしなく、あまりに遠く、広大な、底のない、この、「闇」について。


わたしは、誰かの代弁をするわけでもないし、必ずしもすべての被虐待者の理解者ではない、

ただわたし自身の思いを言葉にするだけ、という前提で。


「虐待」という言葉の原型は、アビューズ、(権力の)濫用という意味。

必ずしも、子供を死に至らしめるほどの暴力のみを指すのではない。

ニュースになるのは、すでに死者となった、「濫用された果ての子供」の姿だけ。

この国では往々にして、魔女裁判のように、子供は、死んで初めて、

「虐待されていた」「親の被害者だった」と世間に認知されるようだ。


・・・


『今もその傾向は残っているが、当時、「児童虐待」といえば、それは子供が大人に殺される話だった。

殺される子供は三歳以下の幼児が多いから、マスコミは「幼児虐待」という言葉を使いたがる。

児童虐待は滅多にないことがらで、その被害を受けた子の殆どは死んでしまうということになれば、

被虐待児のその後に関心が向かうこともない。



結果として、苛酷な幼児期を過ごして、児童期、思春期、更に成人期を迎えた人々の対人関係の障害、

友達の作れなさ、気分のムラ、嘘つきの傾向、怒りと衝動性、自殺しやすさ、アルコールやドラッグへの溺れ、

恋愛幻想とそこから始まるストーカー行為、多重人格を含む乖離性障害などに関心を持つ人は

極めて少なかったから、そうした問題を抱える子供や大人は、脳神経系の障害を持つ子供と認められたり、

人格に問題のある大人と見られていたりしていた。』



「日本には性的虐待がない。

これが日本の文化の特徴の一つである」

(1997年に東京で開かれた国際学会での、ある精神科医の言葉)

などといっていたのは、人々の実態を見ることを怠った、「専門家」たちのゴタクに過ぎなかったのである。』


トリイ・ヘイデン「タイガーと呼ばれた子」あとがき 斉藤学


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10年程前に書かれたこの指摘と現状は、未だに、そう変わりないという気がする。

虐待には、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(放棄)、精神的虐待、の分類がある。


虐待は、見た目的・絵的に、その「惨状」が、こちら側にどう主張してくるか、ではなく、

子供(人間)が権力に「アビューズ、濫用」されているかどうかを、こちら側が、

眼差す目・読み解く目、が問われる。


眼差す目は、人間の根幹、人間が人間であること、わたしがわたしであること、

人間という社会の、「尊厳と人権の根幹」を眼差す目。


子供虐待問題とは、個人個人が、どれだけ、「人間・自分の中の尊厳/人権」を見つめられているか、

という問題と関わっていて、誰もの「人間の根幹」と、地下水脈のように、


深いところで、関わり合っている問題だと思う。


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虐待の影響は、長い間、現場でも、一般的にも、「心の傷」という、

抽象的、観念的な言葉でしか表現されてこなかった。

けれど最近になって、虐待の行為が及ぼす影響が科学的に研究され、

「心の傷」といわれてきたものが、実態的・物理的な、「脳の損傷・傷」であり、

人間の一生に破壊的に影響を及ぼし左右する、「DNAに及ぶ損傷、傷」であることが、判明しつつある。

虐待とは、そして、それによる「心の傷」とは、子供という人間の根幹、

人間という社会の根幹である、脳とDNAを、直接的恒常的に破壊する行為だ。


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『児童虐待が脳に残す傷」M.H.タイチャー(ハーバード大学医学部)

出典:日経サイエンス 2002年6月号


「子どもの脳は身体的な経験を通して発達していく。

この決定的に重要な時期に虐待を受けると、厳しいストレスの衝撃が脳の構造や機能に

消すことのできない傷を刻みつけてしまう。

いわば”ハードウエア”の傷だ。

虐待を受けると、子どもの脳では分子レベルの神経生物学的な反応がいくつも起こる。

これが、神経の発達に不可逆的な影響を及ぼしてしまう。



幼いころの経験が脳梁の発達に影響を及ぼすという結果は、

エモリー大学のサンチェス(Mara M.Sanchez)によるサルの研究でも確認された。

…この一連の出来事を通して、暴力や虐待は世代を超え、社会を超えて受け継がれていく。
 

私たちが断固として主張したいのは、まず最初に、

何としても児童虐待が起きないようにする努力がもっと必要だ、ということだ。

いったんカギとなる脳の変化が起こってしまうと、二度と元に戻らないのだから。」

http://www.nurs.or.jp/~miyazaki/news/2002-4/2002-6nikkeisience.htm



「幼い脳、性的虐待、言葉の暴力で萎縮」

「萎縮は、虐待をストレスと感じた脳が副腎皮質ステロイド(ストレスホルモン)を大量に分泌し、

成長している子どもの脳の一部の発達を一時的に止めることから起きると考えられている。」

http://qnet.nishinippon.co.jp/medical/news/kyushu/post_685.shtml


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『虐待を受けた子どもの傷 遺伝子にはどのように残るのか』


「心理的なストレスによってテロメアが浸食されるスピードが速まり、

時計が早く進む可能性のあることがこれまでの研究によって明らかにされ始めていたが、

上記の研究は被験者の虐待の記憶に依存するところが大きかった。


その後、米チューレン大学のステイシー・ドルリー博士らはルーマニア・ブカレストの

児童養護施設にいた子どものテロメアが里親の下で育てられている子どもと比べて短かったことを発見した。」

http://jp.wsj.com/public/page/0_0_WJPP_7000-441748.html?mg=inert-wsj



「幼少時に虐待を受けると、そのしるしがゲノムに残るようだ」と話す。

この発見は今週、「Nature Neuroscience」誌で発表された。

「アメリカ南東部ジョージア州アトランタのエモリー大学に在籍し、

ハワード・ヒューズ医学研究所の研究者でもあるケリー・レスラー氏は、次のように説明している。



「成人が患うあらゆる種類の精神疾患において、幼少期の虐待は最高レベルの危険因子であり、

それらすべての精神疾患には遺伝的要因があることが判明している。

そしていま、幼児虐待と遺伝的要因の相互関係が理解されつつある」。



環境がこの種の影響力を持つという考え方は、エピジェネティクスという新しい研究分野の重要なポイントである。

エピジェネティクスとは、DNAの塩基配列変化を伴わない遺伝情報の変化を研究する学問である。

「薬や毒などの化学物質ではなく社会環境が遺伝子の発現を変化させるという、非常に興味深い現象だ。

この分野は生命現象の理解にますます重要となるだろう。」とスジフ氏は言う。」

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=46943684



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永年臨床の現場が「心の傷」なる不可視のモンスターと、手ずから格闘してきた歴史に比べると、

「心の傷」なるものが、観念的抽象的なものではなく、物理的・実態的なものであることが

ようやく科学により可視化されたことは、やっと、であり、あまりに、半世紀は、遅い。

現場、実態の場から、科学はいつも、あまりに遅く追いつく。



それを待つことなく、「虐待」、「心の傷」という、時に忌避されるが故に不可視なるモンスター、

昔も今も、人間と社会と世界の根幹に、破壊的に波紋する、

透明な血と叫びを上げ続ける「心の傷」の実態に、目を凝らし、耳を澄ましてほしい。




そして、もっと未知で、もっと大切なこと、

虐待の破壊性の痕跡が、脳、DNAに、いわば、「心、魂」に刻まれるのだとしたら、

きっと、今まで現場が、「心の傷」と格闘してきた歴史、

この暴力と痛みに満ち溢れた世界では、奇跡的な確率しか存在しないかもしれないが、

「心の傷が癒える、回復」という過程もまた、半世紀遅れで、その一縷の光である軌跡を、

科学はいつか、明らかにするのかもしれない。


それは、科学的に未知で未だ不解明である以上、

心が癒える=脳やDNAそのものが癒える、回復する、という定義ではないのかもしれない。

けれど、不可逆といわれる、脳やDNAの損傷すら癒す、回復する、ちからが人間にあったなら、

破壊するちから、闇と同等の、愛の、光の、癒すちからもあったなら、と思う。願う。




女性日本画家の松井冬子さんのことは、昔のNHKスペシャルで知ったひとが多いと思う。

そのときのタイトルは、『痛みが美に変わるとき』。 この番組そのものもよかった。


痛みというのは、絶望の行き止まり、ひとが痛みにあられもなくのたうち回る醜悪さ、

グロテスクなもの、気持ち悪いもの、狂気、ネガティブで否定的なもの、

生から忌避され排除される、存在権を奪われた、誰もが目を背けるスティグマ、

一見ポジティブな語、「美」とは、正反対の語だ。

その否定的姿、「痛み(排除されたもの、権威なきもの)」が、

「美(ある種の権威)」に「変わる」とき、とは、なにか。  


「美」と、「美しさ」と、「キレイ」は、全く別の言語だ。 

松井さんが描いている痛みは、見目美しい「美しさ」でもなく、「キレイ」でもない。 「美」だ。

「美」とはなにか。


抱えきれないほどの多くの痛みを抱えたひとには、松井さんの「痛みの美」に、

掬いを見出すひともいるのだろう。


「救い」ではない。

「掬い」。


闇を光にする「救い」ではなく、闇を闇のままに掬う、「掬い」。

痛みの渦巻く混沌の闇の中で、何をどのように救うかなど知れないけれど、

誰も何も救わないかもしれないけれど、自らの痛み自体を回路、通路にして、

痛みで痛みに繋がる、ただ痛みで痛みに寄り添う、痛みで痛みに触れる、痛みによって痛みを掬う、

それ自体が痛みを伴うけど、闇に取り巻かれたひとりぼっちの痛みへ、痛みの手を伸ばすこと、

痛みで痛みに語りかけること、そんな不確定で曖昧で無力で弱いことの中で、

痛みと痛みが触れ合い共鳴するとき、それが、「救い」ならざる、「掬い」としての芸術、

痛みの中の「美」、なのではないかと思う。



痛みで痛みに触れる、少し加減を間違えると、抉る、暴力、になる。

痛みを見つめ抜き、痛みを内向的な自滅と絶望の行き止まりにするのではなく、

発散的な暴力にするのでもなく、痛みを別の痛みに繋ぎ、触れる通路、回路にすること、

その危うい境界線を、無数の線に塗りこめた、痛みのコントロールを失墜することなくゆくこと、

共感、共有可能なものとして、けれど、共有も共感もされないかもしれない、

誰も掬わないかもしれない偶然性の中へ、(共有と共感は、あとからついてくるものでしかない)

いわば、自らの壮絶な痛み、圧倒的な権威、尊厳の喪失、弱者性、死の開示を、

その無数の偶然性と不確定性の坩堝の中に孤高にさらす、あの野晒しの死体のように見せしめる、

という残酷で、絶望的に悲壮な行為、それも、美 なのかもしれない。



生の中で、尊厳と権威を死のように喪失して生まれる痛み、

痛みの向こうにあるものは、死。

痛みは生の中の死から生まれ、死を孕む。だから、痛みは忌まれる。

究極のネガティブとして、この世の生に排除されるスティグマたる痛みと死が、

芸術によって、共有可能なものとしてこの世に生に招き入れられ、

この生での美としての地位を得て生きる。



松井さんはまるで、画布という冥府を通して、この世に死を生んでいる。死を生かし育んでいる。

画布の向こうの冥府から、死から、痛みを生を死をすべてを飲み込んだすべての向こうから、

この世を、この生を、見つめている。

生に焼きつく冥府からの眼差し。


松井冬子さんは常に、痛みの通路を通って、死を、死の向こう側を見つめている。

松井さんの絵は、画布という冥府を通って、スティグマたる痛みと、その向こう側の死、

そして、死の向こう側の眼差しをも、この世の「生」に、何にも触れえざる地位の美、として参入させる、

松井さんの絵画の美しさは、この世では排除された、不可触であるスティグマの痛み、

その向こう側の、触れえざる「痛みと死、そして、死の向こう側」の、

すべてを抱きとめる、冥府の権威。


生の輝きに排除された闇、混沌、冥府は、しかしすべての存在と生の底流に落ちている影。

忌避という感情は、予めそこに存在しているものを、こちら側が、

なかったことにしたい、物事を歪めて認知したい、という欲求によって起きる。

闇や歪や冥府は、すべての生の存在に底流しているスティグマ。

生の秩序を維持するため、歪めた現実に押し込められ、なかったことにされ、存在権を奪われ、

語ることなく亡き者にされてきたものたちが、松井さんの筆によって暴かれると、

人の心の闇の底流に渦巻いていたモノたちが快哉を叫ぶ。

松井さんがしていることは、闇として形を与えられず彷徨っている情念に形を与え、掬い上げ、

語らせることによっての、浄化、浄霊なのかもしれない。




松井さんは、生の偽りの楽園を引き裂き、その中に隠れていた地獄の腸を引きずり出し、

誰もが目を背ける地獄をあられもなく暴力的に叩きつけ、開ききり、しかし優美に歌う。

秩序に保たれた生のウツクシサを剥ぎ取り、キレイな生の支配を突き破り、

その闇底に人知れず渦巻いていた、闇を闇として見つめる、闇を闇のままに掬う、

地獄を地獄のままに、痛みを痛みのままに露呈させる、

それは、『 この世でもっとも存在を許されなかったモノたちへの、許し。』なのだと思う。

この世でもっとも、忌避され、醜悪で、排除された闇のモノらこそを、存在させる、許す。

その手で掬い上げる。

闇と痛みに手を浸して、掬う。


存在権を与えられなかったもの、生によって闇に押し込められたもの、スティグマ、痛み、

冥府のものたちに、芸術と美術の中において、存在権を付与し、万人に開く、

汚濁の濁流のような闇を見つめきり、筆によって受け止める情念もすごいけど、

それ自体一種の狂気を思わせる胆力をもって、しかしロジカルに構築しきるすごさ。



抱えきれないほどの多くの痛みと無数の死、を抱えているのは、この時代、そのものでもある。

だから松井冬子さんの絵は、この時代の多くの痛みに「掬われ」たくて、求められるのだろう。

上野千鶴子さんとの対談も興味深かった。


なんかえらそうに書いてみた。

言語感覚も優れてるし、なんのかんのいっても、すごい女性だ。


・・・

綾瀬まるさんの、『あのひとは蜘蛛を潰せない』という本に、

「暗い場所から連れ出せないのなら、そばで手を握って立っていたい。」 という一文があった。

痛みの中の美、芸術の中の美とは、それだけのこと、それしかできないこと、

それがすべてなのかもしれないと思う。


・・・・・

おびただしい死者たちは、それぞれの声を彼の世にもっていきはしなかったのである。

声は結果、水中や瓦礫の原に、耳やかましいほどにとり残されてしまった。

ごくまれにそれらの声を聞きに海際の瓦礫の原を訪う。月夜がよい。

友らの声がキノコのように繁茂しているから。 


わたしの死者ひとりびとりの肺に  ことなる それだけの歌をあてがえ

死者の唇ひとつひとつに   他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ

類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを 百年かけて  海とその影から掬え 

『死者にことばをあてがえ』 辺見庸


すでに死者となったというのなら、神様や死神とでも友だちになって、魂の世界でも自由に旅すればいいのだ。
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地震雲など、民間信仰である、科学的根拠はない、無闇に危機感を煽るな、

という言葉が、頭の中をぐるぐる駆け回りながら、それでも、しがないおバカないち個人として、

ブログアップしてしまいます。


下は、2011年 3・11 の二ヶ月前に撮影した、地震?雲。


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黄昏の空を見つめて-11-01-15_006.jpg





で、一番上が、5月16日。


311前ほどじゃないけれど、かなり大きい。

そのときは早朝の一瞬に現れてすぐに消えたし、形も朧だったので、気のせいにしてたけど、

最近やっぱり空が騒がしいし(地震雲が頻出している)、関係ないけど、地震ナマズかお前はみたいな、

地元の嫌がらせストーカー集団も活発化=地震も活発化する法則なので、

なんか胸がざわざわしてる次第。



私は別に自分の命に気をつけたい気はないし(人為的に奪われる場合は別として)、

この世界に未練もないので、どれだけ大きな地震がきて破壊されようが、どうでもいいのだけど、

自分の命に気をつけたい人、気をつけさせたい人がいる人は、

最近地震がないからといって、油断するのではなく、

むしろ、ここ数ヶ月、気を引き締めた方がいいのではないかと思う。

何もなければ、それでいいのだし。

黄昏の空を見つめて-HI3H0712.jpg




眼科で、『アレルギー性結膜炎』と診断され、

コンタクトレンズは、一日使い捨てのものしか受け付けない目になっていた。

「見える・見えすぎる」ことが恐いから、片目だけ使えるようにしてるけど、全く支障ない。

眼病なので、恐い。目薬さしまくる。

時々、視界が白濁するのは、白内障か緑内障か……。

子供のときから懐中電灯持って布団の中で本読んだりして視力0,001くらいで


コンタクト着脱際よく爪で眼球ひっかくしコンタクト不衛生だし、

たぶん角膜傷だらけだし、人の顔に無防備に開いた傷口みたいなそんな目が不安で怖くはあった。


目、って、恐い。

唯一無防備に外気にむき出してる重要な神経で、繊細で傷つきやすくて、


それが傷つけば真っ先に世界が歪む。


見ることも、見られることも、見えなくなることも、見られなくなることも、

目は、人が人であることそのもののように、恐い。