大きな変化の時にいらっしゃるのだ
それにしても激しい
クジラを探すと、クジラ達はすぐ側にいました。
クジラの声を聞いているとそれは、まさに
それは、まさに「クジラの救難」でした。
くじらはそれを察知しているかのようでした。
くじからからの救難メッセージ。
あきらめずに進んでくださいね。
世人とは自己喪失、自己疎外の状態に他ならないが、これが技術の世界である。
ハイデガーによれば、この「世人」は平均を重んじ、接触を好まず、その代わり、
私から責任を除いてくれる。
それが私に命ずるのは、ひとの行うように行えということである。
それは集団の成員に、その集団の社会的紐帯を強固にする
役立つ規律を課することを目的としている。
家族や種種の共同体、さらに国家に対する奉仕、犠牲が要求せられるのはこの立場からである。
ハイデガーによれば、このような非本来的実存は死の不安を避けようとし、
気晴らしに耽ることによって生ずる。
それは克服できぬものであり、人間たることをやめぬ限り、我々に付きまとっているものである。
それ故、この良心の真の姿を回復せしめなければならない。
世界のうちに投げられ、その純粋なる虚無のうちにある現存在から生まれる良心の呼びかけは、
世人のうちに頽落している現存在を促して、本来性を選択すべく決断を迫る。
本来性は、我々の生と死、すなわち、我々の出て来た虚無と
たどり着かねばならぬ虚無とを受け入れることにある。
したがって本来的実存はこの気晴らしを拒否し、死の意味を受け入れるところに成り立つこととなる。
本来的実存はすべてを、死によって開示される虚無に照らして見るのである。
それは一つの呼びかけである。
呼びかけられているものは、もとより現存在であるが、ただしそれは世界の中に溺れてしまい、
「世人」にとらわれてしまっている限りの現存在である。
呼ぶものは、投げられた状態において自己の存在可能について不安を感じている現存在である。
呼びかけられるものもこの現存在であり、それが最も本来的な存在可能へと呼び出される。
そして、現存在は呼びかけによって世人への頽落から呼び出される。
かくして、ハイデガーにおいては、
根源的罪責を引き受けることが良心の呼びかけに対する応答なのである。
ハイデガーによれば、それは現存在が自己の選択しなかった実存を引き受けることに同意したからであり、
その時現存在は不完全な実存として実存することに同意したわけなのである。
ここに罪責が存在する。
したがってハイデガーにとっては現存在の責めを負うものたることは、
その構造そのものに内在しているのであり、決して現存在の一契機にのみ関連するものではない。
呼びかけは、この現存在を自己の面前に連れ戻し、忘れられ、
なおざりにされたその独自の可能性に現前せしめようとするのである。
その呼びかけは何事も述べはしない。
それはただ私が責めを負うたものであることを認めさせようとするものにすぎない。
呼びかけるものは、それではなんであろうか。
それは日常生活における偽りの自己といかに異なるにせよ、自己自らなのである。
つまり、呼びかけるものもまた現存在なのである。
ただし、赤裸々の本来的状況に苦しんでいる現存在である。
呼びかけるものの声が私に外的なものの声のように思われるのは私が真の私から極めて隔たった存在であり、
私が世界の中に頽落して、己の真に何であるかを忘れ果てているからに他ならない。
ベルクソンによれば、自然が欲したかぎりでの、換言すれば進化の終局点として出現した限りでの
人間社会に見られるのは閉じた道徳である。
ここにあるのは、人間という種を創造するに及んで、いわばそこでぐるぐる廻りを行い始め、
もはや、新たな種の創造へと向かわぬ運動、
すなわち運動といっても事実上は停止に他ならぬ運動である。
しかし閉じたものの、有限なものがいかに拡張されても、有限なものにとどまり、
開いたもの、無限なものへ達することはできないとすれば、閉じた社会の道徳はいかにして得られるのか。
この相対的停止を突き破って新たな種への創造作用へと向かうのが真の生の飛躍である。
開いた道徳はこの生の飛躍の働きを通じて成立する。
ベルクソンは従来生の飛躍と述べてきたものを、この場合愛の飛躍と名づける。
かかる飛躍を行うのは道徳的天才である。
ベルクソンはいう。
「彼らは何も要求しない。
彼らは説教する必要もない。
彼らは実存するだけでよい。
彼らがそこにいるということが呼び声である」
と。
この道徳は方式化を許さぬ個性的な形態をとるもの、
我々を強制する代わりにインスパイアするものなのである。
「西洋倫理思想史 矢島羊吉」
人は他方を憎むことなしに一方を愛することはできない。
分裂が結合を生み結合が分裂を生む。
全ての相対愛はそれが愛であるということによって必然に憎を含む。
我々は他を憎むこと無しに自己を愛することはできない。
この自己矛盾こそ有限者としての人間の愛の現実の生き姿なのである。
所詮人間の愛はどこまでいっても相対愛であって絶対愛ではありえないのである。
その根底を種的に閉じた社会に持つものである限り、
第一原理としてどこまでも主我性の上に立つものであってこれを超えることのできるものではない。
これを開くエネルギーは人間自身の中には存在しない。
友愛もまた外から内を限る小数の封鎖的結合となる危険を持つ。
それは外に広がる性格を持つものであるよりはむしろ内に相結ぶものである。
「プロレタリアの倫理」