3月6日、父方の福岡のおばさんが亡くなった。
彼女は、おばさんは、私が最初に出会った、
「虐待の後遺症で、様々な負の連鎖の人生と、重度の身体疾患を生じた、元被虐待児」だ。
父の妹だった。
なんでだ。父の方が先に死ぬはずだったではなかったか。
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おばさんは、今の私みたいに、長野の男尊女卑農家の父の家で、
家族中からいじめ、精神虐待受けてた人だった。
年中罵詈雑言、嘲笑を受けてた。
あからさまな女差別を受けてた。
大学には行かせてもらえなかった。
重症の子宮の病気に罹り、子供を生めない体になった。
それでも、虐待された子供たちのための仕事をしていた。
自分に関わる人、触れる人、手当たりしだいに罵倒嘲笑し見下す、
わたしの父と母を汚染源とした、親族間に生じたドロドロした毒草のせいで、
私は親族の人たちと心おきなく付き合えなかったけれど、そのおばさんだけは、
何も聞いてない初対面の時から、不思議に、誰よりも心の壁を自然と薄くして関われた。
遊びにおいでって言ってくれた。
私のために、初めて泣いてくれた人だった。
虐待されて、進学を阻まれて、病気して、結婚や人間関係も上手くいかなくて、
体も心もボロボロなくせに、傷ついた子供の世話をして、「今、幸せだよ」って、笑った、
すごく、強い、美しい人だった。
好きだった。大好きだった。
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いいひと、美しい人ばかりが、先に行ってしまう。
神様は美しいものたちばかりを贔屓して、すぐに連れてってしまうんだ。
醜い人間ばかりが売れ残されたこんな世界は、ゴミためだ。何の意味もない。
初めて、私のために、泣いてくれた人だったのに。
たくさん傷ついてきて、報われない人生を生きてきて、それでも、幸せだ、と笑った、
強く、美しい魂の人だった。
大事な人が、この世界からいなくなったのに、
下らないロクでもないやつが生きて、存在して、へらへら生きてることが、許せない。
大事な人の死を踏みにじる、許せないやつを、殺さない自分もまた、
大事な人の死を蔑ろにしているのだ。
その人を悼み慰めるために、あの醜いやつらを殺せない、自分が、いちばん許せない。
絶対泣かない。
泣いて、償いの代わりにでもするくらいならば、絶望と憎悪と自己嘲笑の、
絶対消えない傷口を自分に刻んだ方がいい。
何もできない究極のバカの私に、少しでもマシなできることがあるとするなら、それだけだ。
絶対謝らない。
私はアホすぎて、謝りどころすらわからない、くらい、アホ。
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いつか、遊びに呼ばれてた福岡に行こうと思っていた。
いつか、何気ないように電話してみようと思っていた。
いつか、ちゃんと、自分の正直な気持ちを語り、叔母さんの気持ちを聞いてみたいと思っていた。
「いつか」を、「今」やらなきゃ、その「いつか」は、絶対に永遠に、来ないって、知ってた。
いつか、また、もう一度、声が聞きたかった。
いつか、また、もう一度、ちゃんと話したかった。
「いつか、また」、「いつか、また」。
あんなことを言おう、あんなことを話そう、と、脳内完結するだけで、
現実を脳内で補完するだけで、現実には何一つしないで、努力を怠って。
脳内だけで何かした気がして、何か結論づけた気がして。
私はほんとバカだね。
こんなバカ姪でごめんね。叔母さん。
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去年から、母方のおばのだんなさん、茨城のおばさん、と立て続けに親戚の死が続いている。
父方の祖母も去年に亡くなった。
行かなければならない墓が増えた。こんなんもう増えんでいい。
なのに私は、数年前に、親戚に顔を見せることのできないようなことをして、
そのひとたちのお墓参りにも、一度も行っていない。
わたしが何か行動したとき、わたしが何か発言したとき、親の発狂の注意が私を向くことが、怖い。
恐怖で怯えて、親の目につかないことだけを考えて、
怖いことをするよりも、人間性を切り捨てることを選び続ける私は、最低だ。
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死と、罪と、別離と、分断、喪失。
おばの死から数日後、東北震災から二年目の月日が来た。
