メル・ギブソン監督がイエス・キリストの最後の十二時間を映画化した『パッション』をきっかけに

掲示板でやりとりしたことと、マイケル・クライトンの『インナー・トラヴェルズ』を読んだことと、

ある日、被虐待児童や情緒障害の子供たちとの魂の交流を描いて大反響になった

「シーラという子」「タイガーと呼ばれた子」などの著者、児童心理学者でセラピストの大好きな作家、

トリイ・ヘイデンと精神科医の斉藤学さんの対談本「子どもたちは、いま」を読んで、
トリイがそこで何度も使った「ヒーリング」という言葉を見て、ふと思いついた。



父が使っていたパソコンを開いて、人差し指でぽちぽちと「ヒーリング」と打って検索してみた。
その中からつらつらと見ていって、ひとつのHPに飛んで、電話番号を控え、申し込んでみた。

電話すると普通のおじさんがでて、申し込みの手続きをした。
一回数千円だった。カウンセリングなどのお金を親にもらっていたので、それをあてた。



名前と生年月日だけを告げて電話も介さずに行う「遠隔ヒーリング」というものらしかった。

指定したセッションの時間になると、確かにモヤモヤ何か感じる。
ふと普通の中年男性が、普通の一軒屋の部屋で、

目を閉じて手を上に向けて瞑想のようなポーズをとっている光景が浮かんだ。



後でメールに男性がした「ヒーリング」のカルテを送ってもらい、それによると、
私は全体的にものすごいネガティブエネルギーに囚われていて、
おじさんは特に、私の足にべったりと黒く絡み付いていたという

ネガティブエネルギーに処置をしてくれたとのことだった。
私は確かに、足を重点的にモヤモヤしたものを感じていた。



おじさんが私にしてくれた「ヒーリング」とやらは、

今まで私が感じてきた、「姿は見えないのに強烈に感じる何か」の延長として、

まあそういうものなんだろうと思った。


どんなカウンセリングも精神医学の本も理論も、私ひとりの精神を救うのに役に立たない世界で、
そのような非論理的なものに遊び半分で救いを求めるのは、

世界の合理性への真に冒涜的な行為で私は半ば痛快だった。



そもそも「人間の心を科学的に何とかしようとする精神医学」

という矛盾だらけでそれ自体が非合理的な学問が、

一番の壊れモノである人の精神を何とかする唯一の学問だということに半ば絶望してたし、

そんな非合理なものが合理的科学としてまかり通っている世界で、

真正面から「エネルギー世界」という非合理なものの真ん中に身を投げ出すことは理にかなっていると思えた。



私を排除したこの世界の合理や論理は、私ひとりすら救えない。
ならば、この世界が排除する非論理や非合理に救いを求めて何がおかしい。


非論理的なものにさえ救いを求める境地といえばそうだったかもしれない。

「これは先祖の呪いを解く壷で云々」といわれたら購入したい精神状態だったのかもしれない。

でも私に仕えるお金は限られてたし、

「ヒーリング」は一回数千円のところが多く、気休め冷やかし程度で見て回るのに抵抗はなかった。



それに今まで私は、虐待的な実害もあったけど、それよりも、

『見えないけど強烈に感じる何か』にほど怯え、被害にあってきたので、

ここら辺で逆ベクトルの『目に見えないない何か』があってもいいのではないかと思い始めた。



「目に見えない何か」は今までおどろおどろしく悪いものだったけど、

悪いものとしての『目に見えない何か』があるのならいいものとしての『目に見えない何か」もあるはずだし、

もしその仮定が正しいとしたら、恐らく悪いものとしての『目に見えない何か』に対抗できるくらいか、

それを上回るくらいの可能性を秘めていることかもしれないと、

妄想じみた一抹の期待を抱いた。




でもそのおじさんはいまいちだったので、別のヒーラーを探してみた。

次にあたった人は、一部では少し有名な人だという、

本も出してるヒーラーを師匠として学んだという人、レイコさんだった。




その人に申し込むと、指定の日、以前のおじさんのときより確かにはっきりと「何か」を感じた。
「パチッ」と電気的なものが流れ、空気がクリアになるような。


その人のカルテにも、私の魂が深い宿業の闇の中にいることが書かれていた。
まあネガティブなことをいって「助けてあげますよ」と釣る占いサイトと同じかもしれないけど

ただその人のヒーリングを受けて、苦痛というガスで破裂寸前だった私の中に、

ふと思考の余裕が生まれたのを感じた。



そうしてふと私は、私に絶えず絡んできていやがらせを仕掛けてくる兄から離れて、

父の実家の長野の祖母の家に行こうと決めた。


その後は金銭的理由と、レイコさんの師匠のHPからレイコさんのサイトに飛んだけど、
HPのつくりが複雑で、リンクが多すぎて再びレイコさんのサイトを見つけられず、
別のヒーラーに依頼したもののいまいちで、ここのサイトからも遠ざかっていった。


ただ、アマゾンで、レイコさんの師匠の人の本というものを取り寄せて読んでみた。

今までの「普通の本」には感じたことのない、確かに一種変な「何か」を感じる本だった。


後で知ることになるけど、この手のスピリチュアル系の人たちが好んで使う、

「ヒーラーのエネルギーが転写されている物です」というやつだ。


この手の商売文句ほど胡散臭いものはない。

だけどこの時期、なぜかバラエティー番組で、細木数子や江原啓之が持て囃されていた時期だった。

私は彼らの能力をかったり本を買ったりしたことはないけど。



そのころ読んだ小野不由美さんの『ゴーストハント』は、

スピリチュアル心霊オカルトサイキックな話でありながら、

主人公の「ナル」がその世界自体に批判と考察、分析を展開したように、

現実に「スピリチュアル」という不可視なものがあるとしても、いや、あるという前提で金銭が発生し、

人の人生に介入する責任が「エネルギー」という不可視なものを扱う

彼らスピリチュアリストらには発生するからこそ、不可視で不可解なベールに包まれているものを、

「神秘的で不可視で不可解ゆえに何でもありの解釈」にするのではなく、


より厳密に、科学的合理的に、現実的ツールとして現実的にどう使えるのか、

現実の中でどのような役割があるのか、現実の実体的実際的領域と橋渡しするのが

「エネルギー」を扱うものに求められるものではないかと思った。


それを、キレイな言葉で商品化したり、仰々しくおどろおどろしい演出を凝らしたり、

「選ばれた特別な能力を持ったものにしか見えない世界」のようにして

胡散臭い商売臭がするだけで、近寄る気にもなれなかった。


彼らがそこに身をおき、理解しており使いこなしていると自負する

「エネルギー世界」の解釈は、素人の私でも突っ込められる矛盾と

主観に満ちていて、不完全に過ぎた。


「エネルギー世界」それ自体はあるのだろうとは私も知っていた。

私は体感的に、人の思念や精神力がほとんど即物的なエネルギーを持つことを知っている。

スピリチュアルに触れて唯一よかったのは、私のそうした感覚が

精神異常によるものの恐れとは別に、第二の解釈も生まれたことだ。


けれど、彼らの解釈、理解度は不完全なものに見え、

そうすると理解度に相応するエネルギーの適用範囲も不完全で主観に満ちたものになると思えた。

そして彼らスピリチュアリストたちは、仮に善意であり悪気はなくても、

不完全な理解度と主観的な使用方法で、意図的にそれを使うことは危険なのではないかと思った。


人の思念や精神性によって生まれるエネルギーそれ自体が主観的なものではないか、

主観的ではないエネルギーとはなにか、そんなものあるのか、

それはまだわからなかったけど、少なくとも不完全な理解で使用されるエネルギーは

使い方を間違えていると思った。



それをマスコミを使って宣伝し、巨額の金銭と人の人生に介入する責任を

大々的に発生させるのは詐欺に近いと思う。

そしてテレビに出ている彼らにそのような内省が一切見られないのが不審を抱かせた。



しかしマスコミは前回「オウム心理教」を散々持ち上げて痛い目にあってるのに、

未だにこういう、神秘と不可解を売りにするふわっとしたスピリチュアリズムを

嬉々として垂れ流すのがなぜなのか理解できない。

神秘で不可解で誰にも実証不可能だからこそ、底なしの金づるになるという魂胆なのかもしれない。


私は、学問で人の精神をなんとかしようという矛盾に満ちた不完全な精神医学というものに

自分の壊れた精神状態をなんとかしてもらうより、もうそのような

非合理的な方法に縋ってもおかしくない精神状態だった。


細木数子にも江原啓之に縋ってもいいはずだった。

そこら辺の霊能力者やヒーラーに救いを求めて縋って信者になってもいいはずだった。

でもそこでも私のどれだけ激しい感情も欲求の干渉もはねつける、感情や欲求から切り離された、

対象を360度あらゆる角度からボロをつつきだそうとする、思考するのみの空白の「機械」の部分が邪魔をした。

どれだけ神を信じたくても信じられなかったように。


私は神にまで反逆し、たぶん世界で最も愛着する人にさえ、

自分の愛着心や感情や主観より、合理的批判的思考を優先し、

真空的思考の空白地帯で常に他者と自己を分断し続けるだろう、「機械のわたし」を憎んだ。


・・


長野の祖母の家でもやっぱり図書館と本屋、古本屋に行く以外はひきこもっていた。

そこで普段なら手に取らないスピリチュアル関係の本を次々に読んでいった。


精神医学、心理学が、なぜかそのうち哲学から宗教、

スピリチュアル的な領域に足を踏み入れるのが不思議だったのと、

映画『パッション』でキリスト信者の人たちとの交流で少し形の違う世界を受け入れられたのと、

エネルギー世界を合理的に体感したマイケル・クライトンの『インナー・トラヴェルズ』や

小野不由美さんの『ゴーストハント』を読んで、今まで私が悩まされてきた


「目に見えず耳に聞こえず触れられもしない、けれど時に、実体世界以上に影響を受ける何かの世界」

について、より合理的に新しい角度で物を見られるようになったことが手伝って、

精神医学では限界があるかもしれない私の状態を何とかする方法を、それらの世界の中に模索し始めた。


バシャール。フィンドホーン。「神との対話」のニール・ドナルド・ウオルシュ。ラムサ。

エリザベス・キューブラー・ロス。坂本政道の「死後体験」。シャーリー・マクレーン。

モンロー研究所のヘミシンク。エドガー・ケイシー。コリン・ウィルソン。ジャンヌ・ダルク。

世界各地の「奇跡」を集めた本。


スピリチュアルのいろんな世界を知った。
確かにスピリチュアルと心理精神医学、哲学と宗教の主張には重なる部分もある。


他者や外の出来事は自分が生み出していること、世界・神とは集合知であること、

自分の心の良し悪し、「波動」で自分に起きる良し悪しが生まれること、

物事には善や悪の区別はないこと、すべては愛であること、

すべては波動であり光の振動であり、魂はワンネスである、云々。



精神医学や心理学で普通にいわれる、

「正しく表現されず抑圧された感情や記憶は心身に症状として現れたり、

周囲の環境に問題となって表面化する」

という考え方は、人の「感情や記憶」それ自体が即物的なエネルギーを持つ

という前提なしには成り立たない説であるけれど、

その前提への論理化はすっとばして、なべて観察の結果の人の精神のメカニズムとして

ごく当然のように言及されいて、私も自分に思い当たるその説を

ごく普通に受けれいていることがむしろ不思議だった。




それらは映画『パッション』の掲示板で、神とは何か、人間とは何か、世界とは何か、

存在とは何か、なぜ何かが存在するのか、私はなぜ生きるのか、

を突き詰めて滔々と言葉にしてたときに段々と見えてきたことと重なっていた。


人の心が現実を見るように現実は作られ、

現実そのものには客観的良し悪しはなく、ただ心にある善悪の基準だけが

現実に反映されて善悪を作り出す。

地獄も天国も客観的環境にあるのではない、自身の心にあるもの、等。



それは事実かもしれないし事実ではないかもしれないけれど、

そのようなスピリチュアリズムの基本論理のように思われる、究極的「自己責任」のような論理は悪くなかった。


スピリチュアル的だしキレイごととしてキレイにまとまってるし

スピリチュアル的で実証の余地がないからこそ、反論の余地のない正論を吐く自分に陶酔できたし。

それは、とても合理的にキレイにまとまったファンタジーのようであり、どこか懐かしい風景だった。



それらの本を読んでいて妙な懐かしさを覚えてると

14才のとき、レノア・テアの「記憶を消す子どもたち」を読んで、
解離性健忘を起こした5才のときの記憶を思い出し、http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-10604706206.html

デビット・チェンバレンの『誕生を記憶する子供たち』を読んで乳幼児期の記憶を思い出したりしたように、
私の中で何か形にならないものが水底からゆっくりと浮上してくるような、

胎動のようなあの独特の感じを覚えた。


私にはまだ、何か忘れていて思い出していない、重大な記憶があるのだろうか。



デビット・チェンバレンの『誕生を記憶する子供たち』を読んで、

0才のときからの記憶を思い出したのは18才のとき。

ごく普通に「そういうこともあった」とその記憶を受け入れていた。

ここで書いた。http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-10605593054.html


・・


スピリチュアルのいうように、魂は無限で光でワンネスなら、

今ここで、あまりにも狭隘な生体の有限性と限界性に囚われている私は何なのだ?

死後にしか魂の光と無限性を思い出せず、生きてる限りこの三次元の

有限性と限界性に捉われ続けるしかないのなら、

そんなもの思い出す意味もないし、思い出しても意味のない知識など持っていても無駄なだけではないか。


スピリチュアルの描く美しい世界と醜い現実世界の乖離に苦しむだけではないか。

苦しむだけの知識など持って何の意味がある。


私はそう考え始めた。

それに本当にはそれらの本のいってることが信用できなかった。

結局そこにあるのは、どれだけ合理的批判的思考といいながら、突き詰めれば

「感じる」という主観以外なかったのだから。



もしjこれらの世界が本当にあるのなら何かサインを送ってほしいと、目に見えない幽体の世界に私は念じた。

スピリチュアリズムのキレイごとは好きだ。

ただ、それはあくまで思考にとどまり、私の現実には何も影響を及ぼさなかった。

ただ、その世界観が妙に無性に懐かしいという不思議な感じに捉われていた。



そんなある誰にも祝福されなかった20才の誕生日、スピリチュアルを抜きにして、人間として好きで

読んで親しんでいた、西洋医療界では『死の医師』と揶揄を込めて有名になっていて、

その思想と行動から激しい反発と攻撃に会いながら自らの生き方を貫いた

『死の瞬間』『人生は廻る輪のように』『ライフ・レッスン』などの著者で著名な医師の

エリザベス・キューブラー・ロスが死んだ。


死んだように生きてる私の誰にも祝福されなかった20回目の誕生日に、

この世界で数少ない私の好きな人が死んだ。



いや私の好きなロス博士の言葉を借りれば、

有限性と限界性に囚われた苦しみと宿業の現世からやっと解放されて、

私が縛りつけられている地上性から軽やかに足を離して羽ばたいて、

彼女がずっと待ち望んでいた「魂の故郷」に帰還したのだ。



『ライフ・レッスン』を読んだ私は、それはロス氏が待ち望んでいた祝福の結実の日だと思った。

私は彼女の魂がきっと喜びに羽ばたいてこの世から飛翔しただろうことを

自分のことのように祝福し、私にとって特別な人の最も喜ばしい特別な日に、

私の誰にも祝福されなかった20才の誕生日が選ばれたことを、

私の人生で最高の誕生日プレゼントだと思った。



私はふと、暖かく軽い羽に触れられた気がした。


ある日、高橋良輔監督のアニメ、手塚治虫氏原作の、

これもまたある意味日本版スピリチュアルの権化みたいな作品だけど、『火の鳥』を見てて、

(内容は全然好きじゃなかったけど、OPだけは好きだった)

opの絢爛な色彩と音楽に細胞を洗われるような感じに思考を忘れて身を任せていた。

(偶然だと思うけど、キューブラー・ロスが死んだ年と『火の鳥』の放映開始年が同じ2004年。)



すると私の中で何かがめくれあがったような感じがした。


記憶が浮上してきた。



全ての始まりの5才の記憶。


全ての始まりの最初の記憶。