http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-11193012603.html  の続き。



そのころ、メル・ギブソン監督がイエス・キリストの最後の十二時間を

忠実に再現したと謳われた映画『パッション』が上映された。

映画館には見に行かなかったけどビデオを購入して見た。

イエスは全人間の罪を一人で背負って浄化するために十字架に架けられて死んだのだ。

だから私はすでに許されている。許されていない人間はいない。イエスを信じ神に帰依するなら。

私の問題は、私は人間なのか、私は存在してるのか、自分でもわからないことだった。



私は物心ついたときから自分の存在と世界の存在と生には大いに不満だったので、

それらを創造したといわれる「神」にも人並み以上の関心があった。

また、心理学や精神医学や哲学の本などを読むと、

まるで聖書にかかれたことやイエスが実在の出来事であるかのように

普通にそれらへの言及がでてくるので戸惑うと同時に、

意味がわからないこそ理解したいという思いもあった。


聖書や仏教聖典なんかもパラパラ読んでみた。そのとき一番好きな作家は遠藤周作だった。

聖書は理解できないけど、私と私の人生を作った、世界の総ての総責任者ともいえる

のが『神』なのだろうと子供のときから思い、神にはいろいろ思うことがあった。


でもわたしはひきこもりになる以前から、何も思考しない何も感じない機械であり

道具でありモノとして見なされていたので、自分の中で誰にもいえない

誰にも見えない「神」への思い不満で弾けそうになっていた。


そのころ父が買ったPCを弄っていて、キリスト教関係のサイトを見てまわってみた。

宗教的胡散臭さばかりが漂っていた。

ふと思いついて、映画『パッション』の掲示板を探して見てみた。

予想通り、華やかなハリウッドイメージのあるメル・ギブソンが作った

キリスト教のファンダメンタリズム的映画に、普段は宗教など敬遠しがちな一般人から、

冒涜だと映画を批判する敬虔なキリスト教まで、宗教臭のないごく普通の一般人のたちが、

ただ一つの見解に関心を持って様々な意見を持ち寄っていた。



狂信的な人たちや揶揄する人たちはいつの間にかいなくなって、

だんだんいつも同じメンバーが常駐するようになっていた。


「信じれば救われる」を否定する一般人は、知り合いが悲惨な事件にあって

精神を病んで自殺未遂をしていることをあげて、

この世界を作った神がいるならなぜ責任を取らないのかと憤激していた。


そこに常駐していた敬虔なキリスト信者の数人の人たちは、

自分たちが信じる「神」とは何かを丁寧に説明していた。


聖書を学術的に論じている人たちは

いろんな歴史や本と比較して聖書に書かれたことがどういうことなのかを探っていた。


ただそこにいた人たちに共通してたのは、

キリストを信じているかどうかより、キリストに至るまでの人生の物語が

深い人間性に溢れ、それを心を開いて率直に語ることのできる魅力的な人たちだった。


その人たちの穏やかで暖かな人間性こそが、

神を信じたことによって得た救いなのかもしれないと思い、

神を見出せない私は彼らを羨んだ。

私はそこで私の状況は書かずに(書けるほど自分をが存在していると思えなかった)、

ひきこもりになってから蓄積し続けた思考をぶちまけた。



ほとんど独り言に近い一方的な思考の垂れ流しだったけど、

それに信者さんたちなどが穏やかで寛容な反応を返してくれると嬉しかった。

掲示板の使い方がわからなくて普通に本名を入れて書き込んでいた。

そこが私の最初の掲示板デビューであり、ひきこもって初めて得た誰かとの関わりだった。



神への疑問と怒りを口にしていた一般人や聖書を研究してた人はそのうち教会に通いだした。

私も神を信じて帰依し、彼らのように穏やかで寛容で救われた人間になりたかった。

でも、決してできなかった。

私は生きているのかもわからず、存在してるのかもわからず、何者とも関係できなかった。


私は神を信じたかった。世界に愛があることを信じたかった。

心の底から信じられるものと許しと愛を欲していた。

でも、芯から「納得した・理解できた」という合理性が得られない限り、

私はいくらそうしたいと望んでも、感情論で動くことができなかった。

私は感情のない機械だから、感情で動くことはできない。

機械的合理的理解でしか動けない。


それに、うまくいえないこともあった。

とことん「神」というものを合理的に考えるとでてくる、うまくいえない疑問の言葉。

でもそこで、私にまで優しくしてくれる、心から何かを信じている人のいい彼らに、

信じたいから信じたいものを信じている、とことん主観的感情的になることを選択している彼らに、

合理性などという冷や水をかける気にもなれなかった。


それで、私はひきこもりの間に溜まっていた思考を一方的にぶちまけると、

あとは段々お茶を濁した口当たりのいいことしか書き込まなくなった。

神を信じて救われた彼らは心を開いて人を愛することを知っていたけれど、

私は結局そこでも、本当のことなど何も言わず、結局そこでも誰も信じず、心を閉ざし、

猜疑と不信と拒絶に閉ざされていた。



ひきこもりの人が掲示板だけには本音がいえるという話などあった気がするけど、

私に限っていえば、たとえ掲示板の書き込みという、文字記号しかない、

距離を介したコミュニケーションであっても、

そこでも私は自分を開示することに絶対的抵抗があった。

自分を出したくても、もう出せなかった。

自分がどこにいるのか、自分がどんなモノだったのか、私はとっくに見失っていた。

私がわたしについて言えることは何もなかった。

私はわたしにとって、他人以上に理解できないモノだった。




ただその掲示板に書き込んでいるときに不思議な「経験」をした。

そのとき私が巻き込まれていたトラブルによって体の具合をおかしくしていたとき、

それを書き込むと、信者さんたちが私に祈りを捧げるという。

祈りには物理的エネルギーがあり、イエスが病人や盲の人を治したのも

祈りのエネルギーだったのだからと。


私は彼らの心遣いが嬉しかったので、特に何も言わずにいた。

だけど特に期待せず、彼らが私に祈りのエネルギーを送るといった日時も忘れていたあるとき、

急に暖かい毛布に包まれるような、優しく柔らかく暖かな温水に包まれるような気がした。



それはまた、情報の洪水でもあるような気がした。

どういう年齢のどういう外見の人が、どのような環境の中で私に祈りを送っているのか、

祈りのエネルギーという水を媒介して、その人の情報にも取り巻かれるような気がした。

今まで感じたことのない暖かさで、凍えた魂が溶け出すように涙がにじんだ。



後でその経験を話すと、その時刻に私に祈りを送っていたといい、

特に高揚することもなく「通じてよかったです」と感想を送ってきた。


彼らにいわせれば、イエスを信じたために起こる『奇跡の不思議エピソード』

を彼らは山ほど持っているみたいで、

自分たちが神を信じるのが当然のように、神がそれらの奇跡を送ってくれるのも当然なのだと

どこか当たり前のようにそうした世界を受け入れているようだった。


信者の方たちの議論によれば、イエスが病人を治すなどした『奇跡」は、

今の時代にも通用し、精神エネルギーとして誰もが持っていて、神を信じることで可能になり、

ジャンヌ・ダルクやルルドの泉の奇跡など、

世界各地で起きているイエスにまつわる奇跡がその証拠だという。


基本そういうトンデモ話は好きなのでただ傾聴していた。

小説のような軽食のような作り話では現実逃避ができないほど現実が重かったので、

それくらいぶっとんだ話でないと、重すぎる現実から踵を離して飛び立てなかった。


精神エネルギー、けっこうじゃないか。

私を閉じ込め、常に飛び立とうとする私の足をつかんで地にたたきつける、

このクソみたいな現実法則の総てをひっくり返し、歪め、ねじ切り、裏切り、めちゃくちゃに引っ掻き回し、

白を黒にし、黒を白にする、日本のSF漫画やアニメによくある、

「気合・気力・気」でなんとかする精神論な話。いいじゃないか。



ここでふと、精神医学や哲学がこうした宗教的な話と時々繋がるわけがわかった気がした。

精神医学や哲学は、人の心理や精神はほとんど物理的エネルギーを持っており、

人が身体的精神的病気になるのはそのエネルギーに捩れがおきているからであり

人のエネルギー状態を正しくする必要があり、人のエネルギーは実際の現実世界に様々な

物理的影響を起こすのだと見なしている、

と判断しなければつじつまが合わない箇所がいくつもあった。


それは、特に西洋の精神医学や哲学が究極の人間(超人?)の目的とするものが、

水の上を歩いたり、パンを増やしたり、病人を治したり、

木を枯らしたり実を成らせたり、海を裂いたり、究極的には死から復活した、

「祈りのエネルギー」で実際に物理的世界を自由自在に可能にものにした

イエス・キリストを置いているからではないかと思った。


西洋にとって、総ての物理法則を自由自在に可能にし、

究極的には不死の存在になったイエスは実在の人間で、

それを人間の究極の目的の姿として描いているのではないかと。



ただそのころマイケル・クライトンの「インナー・トラヴェルズ」を読んでて、

神を信じることと精神エネルギーを強くすることとは別にあるのではないかという疑問を思ったけど

そこでも何もいわなかった。



私は自分が思考すること、感じることに、それがそこに存在しているというリアリティを持てないので、

いつも自分が本当に思考し感じていることほど、言葉にできないのだ。

だって私は、世界中に他に誰もいないほど、変で、異常で、頭がおかしくて、精神病だから。

だからなるべく、「普通」っぽく、私ではない誰か他人にように装ってでしか、

言葉にできない、行為できない。



キリスト教の信者の人たちは好きだ。ここの掲示板にいる人たちみんな好きだ。

その人たちの中で教会に一度もいかないのは私だけで、

狂おしいほど神を信じて繋がって、愛され許されてみたくても、

自分の感情に従うことができず、機械的思考で合理的疑問点を次々見つけて、

でもそれを的確な言葉にできず、彼らに水を差すこともいえず、

私の中に段々その掲示板にいることの苦しみが溜まってきた。

私は段々そこから離れ始めた。


でも私はその場所もその人たちも好きだった。

字面でだけならいくらでもどうしようもない自分をキレイゴトで糊塗できたし、

神を愛し人を愛する愛と許しの心のキレイな誰かのふりをするのも悪くなかった


真っ黒に沸き立つマグマのような心を押さえ込んで乖離してリセットして、

『愛情豊かで素晴らしい親に幸せな家庭を提供されている

愛情豊かで何も問題のないごく普通のいい子』

のふりをするのが私の人生だった。


物心ついたときから自分の心を亡くして親に対してそうしていたように、

今度はここで神に対して同じことをすればいいのだ。

自分が何をするべきか、誰になるべきか、私の自由と自主性を制限して

糸で巻かれた操り人形のように一挙手一投足、心のあり方まで指示し、

決まりごとに満ちた『宗教」というのはその意味で、

私にとって今まで親が果たしていた役割を代理し引き継ぐものであり、

とても私の望みに適うものだった。


・・


「精神エネルギー」という観点は、私は特に抵抗なく受け入れていた。
物心ついた時から、何か言われ何かされる前から、

家中に充満する毒ガスのような憎悪のエネルギーに怯えていた。


ぱっとものすごく嫌な感じがする場や人、
逆に特に接点はないのに見ると落ち着く場所や安心する人などがあり、
それは、その場や人が表面的にどういう状態でどういう表現をしているかよりも私に強く影響した。



時々、明らかにその年頃の私が知るはずもない思考や感情や言葉、
その言葉が意味するものと、それが人に喚起させる感情と一緒になって、
脈絡もなく不意に私の中に生まれることがあった。



人の強い感情は私に刺すように感じ、人の強い思念は直接脳に聞こえるように思えることがあった。

表面的には一見静かに見える場や人であっても、

近づくことさえできないような暴風雨がその周りで暴れているような、
透明な絶叫のような、叩きつける透明な風のようなものを感じることがあった。



そういう人はその後爆発して暴れたり、事件に巻き込まれたり、何かネガティブな目にあったりした。

人の強い感情は、表面的には静かであっても、強い電波を発していて、
私はそれらのあらゆるものを受信してしまうような感じだった。



私が物心ついたとき、家中に毒ガスのように充満していた憎悪のエネルギーに私は窒息しそうだった。
私の目や鼻や口や耳、あらゆる穴から闇が私の中に雪崩込んで来るみたいだった。


5才の夜、布団の中でひとり、腹をつつかれた芋虫のように私は丸まって、

目をぎゅっと瞑り耳を両手でふさいで、
家中を暴れまわる黒いマントのような、透明な絶叫のような憎悪のエネルギーに怯えていた。


そのときの主観を断片的に言語化したのがこれ。

http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-10922878154.html

断片すぎて何がなんだかわからない。


また私に唯一優しくしてくれたおばさんのことを強く考えていると、

おばさんから電話が来たり手紙がきたりした。


「人の感情や思念は物理的ともいえるエネルギーを持っている」というのは、

理屈ではなく体感的な私の知識のひとつだった。
「いやな感じ」や「いやな予感」を無視すると、後で決まってしっぺ返しを食らった。



ある郊外で尿意を催して、辺りを見回したけどある公園の公衆便所しかなかった。

それを見た瞬間、強烈に拒否反応がでた。

特に汚いわけでもなく、公衆便所にしてはきれいなほうだった。

でも、強烈に嫌だった。


でも尿意もつよくて他にあたる場所がない

仕方なく扉に手をかけると、強烈に誰かの視線を感じた気がした。

辺りを見回したけど、誰もいない。というか、何かが物陰に隠れる気配がした。


何かを「感じる」なんて、私が異常だからだ。

人は何も「感じる」ことなどないのだと自分に言い聞かせトイレに入った。

用を足しているとき、扉の外で大きな音がして、男が覗いていた。


トイレから出て警察署にいって被害届けを出すと

男は近所で噂になってた変質者ということで、前科もあって捕まった。


一見静かな住宅地に見えて、濃厚なガスが充満してるように、

憎悪の壁が迫ってくるように感じられてたたらを踏んだときも、自分に気のせいだと言い聞かせて、

その後隣人からのすさまじい嫌がらせに遭った。



隣人トラブルなどの因縁もないのに、ある人に延々と呪詛の感情を送られてきたときは

あまりの気持ち悪さと脳を破壊されるようなはっきりした

攻撃の意思表示に、一生許さないと思った。


・・


「世界中の普通のみんな」はきっと「世界中の誰とも違う異常な私」

みたいには感じたり考えたりはしないのだろうけど、
これが「世界中でいちばんオカシイ私の事実」なのなら、仕方なく受け入れるしかないと思っていた。



こういうこともあったのだから、http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-11062137336.html

私がどんなに普通のみんなと同じ「人間」になりたくても、

私は先天的に異常で、オカシクて、電波なのだろう。


どれだけ普通になりたくても、神だの信仰だの姿の見えない誰かの視線を感じる、

などと、どれだけ否定したくても、どれだけそんなもの欲しくない、いらない、と思っても、


その感覚は、何の役にも立たないくせに、不良品の部品のように、

私に取り付いているのだ。