うさぎを飼ってたころだから9歳くらいのときの秋の夜、窓辺の勉強机で母に勧められた
イギリスの獣医師ジェイムズ・ヘリオットのエッセイ、『ドクター・ヘリオットの生きものたちよ』という本を読んでたら
鈴虫が大合唱してる庭で、微妙に異質な音が混じっていることに気がついた。
割れるような機械的な鈴虫の合唱の中で、もっと微かでもっと柔らかい鈴の音がしている。
私は本を読みながら耳を澄ました。
金属的な鈴虫の音に混じって、ため息みたいなすすり泣きみたいな、
微かな柔らかい鈴の音が、静かに闇に沈む庭の草の中を這っている気がする。
なんだろう、気のせいかもしれない、じっと耳を澄ませていると、
微かで柔らかい鈴の音は意図を持って移動しているようだった。
本の内容にリアルの音と見えない姿の影が被さって、私は本に集中できなくなって、鈴虫の合唱以上に小さく細い、
けどどこか確かな存在感のする音に意識を奪われ続けた。
ベランダに出て闇に沈んでいる庭を見つめたけど、部屋の電灯の逆光になって見えない。
とうとう懐中電灯を持ち出してきて、ベランダに出て庭をあちこち照らしてみると、
さっとサーチライトのように光を照らしたある箇所の闇に沈んだ草陰に、
ダイヤモンドのようにキラリと光る何かが落ちている気がしたけれど、雨露かもしれない。
私は一筋の光も飲み込んで何も見えない闇に目を凝らすと同時に、割れるような鈴虫の合唱の音の中から、
草を踏む音のように柔らかいけれど、虫たちよりも確固とした意思を感じさせる何者かの立てる音を拾おうと耳を澄ました。
闇に姿を隠し音に音を隠す隠れんぼの好きな幽霊の影を、目と耳だけで捕まえようとしているみたいだった。
私が部屋の光を背にして闇に沈む庭をじっと見つめているように、
移動する鈴の音も闇の中からじっと私を見つめているのを感じた。
私は怖くなって懐中電灯を消すと部屋に戻った。
そういうことが続いた数日後、晩御飯を食べてたら父が珍しく早く帰ってきて、玄関で開口一番
「おい、猫がきてるぞ」とにやにやしながらいった。
私と姉は弾けるように玄関の外に出されてるうさぎが入ってる水槽のところにいった。
うさぎが入ってる水槽の前に、真っ白な猫が端然と座って、水槽の中のうさぎを身じろぎもせずじっと見ていた。
私は猫を追い払おうと近づいたけど猫は私に怯えることもなく水槽から離れず、
臆さず私を真っ直ぐに見つめたので、私のほうが怯んだ。
発光してるような純粋な白の猫で、青緑色の目だった。
猫がどかないのでうさぎは怯えて興奮して、後ろ足をドンドン地面に叩きつけてた。
私は猫の視線をさえぎるために何本もの雨傘を広げて、水槽を中心に放射状に広げた
(よくそうやって、何本もの雨傘を柄のところで束ね、紫陽花の花のように放射状にした「雨傘の檻」を作って、
その中に入って遊んでた)。
そしたら猫はようやくうさぎから視線を外した。
そのままくつろいで毛づくろいし始めて、人懐っこくてびっくりした。猫は好きだから嬉しくて猫を撫でた。
猫はまた私を真っ直ぐ見つめた。目ヂカラがすさまじい猫だと思った。
見つめられると圧力を感じた。猫が体を押し付けてくるようなその視線の圧力の感触に覚えがあった。
猫の体に手を這わせてると、首輪がついていた。
古ぼけた厚紙のような首輪に、安物のアルミの銀の鈴がついていて、それが柔らかい音でちりちり鳴っていた。
あっと思った。ここ数日、夜に庭の鈴虫の声と混じって聞いていた別の鈴の音は、この猫だった。
首輪がついてても飼い猫かはわからなかった。野良猫ではないかとも思った。
その猫はそれから、父が猫を見つけて私たちがうさぎの水槽の前で猫を見つけたのと同じ時間帯にいつも家に来るようになった。
初日にうさぎに関心を示していたのを嗜めてからは、猫は一切うさぎに関心を払わなくなった。
次の日夕飯を食べてると、開けた玄関の前から、ニャーと一声強い声が響く。
弾かれたように行ってみると、あの猫が玄関の前に立って、真っ直ぐこちらを見てた。
私が見つめ返しても全く臆さず見つめ返し、私はまたその眼差しに怯んだ。
猫は絶対自分から家の中に入ってこなかった。いつも家の境界線を守って、そこから呼びかけた。
私はご飯を食べるのもそっちのけで猫と遊びに行った。
猫は餌をねだるでもなく、ただ私たちと遊びたかったみたいだった。
ただ戯れたり触れ合ったりしてるだけで嬉しい楽しいと全身から一本一本の毛先から発散してた。
佇まいだけでものすごく存在感があり、ものすごい表現力のある猫だった。
白い猫の青緑の目に無言でじっと真っ直ぐ見つめられると、その視線の圧に、
誰にも見られたことのない魂の底まで見つめられ、誰にも触れられたことのない魂の底に触れられるみたいだった。
・
夜、猫が玄関で鳴くと、私と猫は白い月の光の下で遊ぶ。
どんな深い闇にも飲み込まれないだろうと思えるほどくっきりとした白の猫が、白い月の光の下で更に白く光りながら、
闇に白い軌跡を曳きながら跳ね回ってるのを見てると、まるで発光する月の欠片が落ちてきて、
気紛れにつかのま人間の私といっしょに遊ぶことにしたというような、
妖精か何か、この世のものではないものの化身のように時々錯覚した。
どんなによく見ても猫の存在をこの世に定着できないのではないかと思うような、
夢の断片か幻のような感じがずっと付きまとっている時間だった。
ちょっとしたため息や何かの弾みでパチンと弾けて目覚めてしまう、魔法がかかったような時間と光景で、
その猫を見ながら私は何か特別な瞬間に立ち会っているような気がしていつもどきどきしていた。
そして魔法が弾けてしまう「ちょっとした瞬間」はいつもすぐそばにあることをどこかで予感してドキドキしていた。
ある夜、私と同じ目線の高さの縁に上がって毛づくろいしてる猫の尻尾をふざけて引っ張ると、
猫は動きを止めて私を見つめた。突き刺すような視線の圧が、これ以上やると猫パンチを食らわせるぞと語った。
私がおそるおそる尻尾を離すと、猫の視線が和らいで寝そべって毛づくろいを始めた。
猫の眼差しは、「イケナイときはイケナイと怒るけれど、分かればいいのよ」と私に語りかけた。
私は猫の白いお腹に頭をもたせかけた。猫は尻尾で私の頬をはたいた。
お母さん以上にお母さんみたいだ、と思った。
すごく人懐こい猫だったけど、猫には一つだけ許容できないものがあった。
いつも母が玄関の掃き掃除に使ってる箒を手にとって、ふざけてブラッシングの真似をしようとしたら、
猫は私が箒を持った瞬間にすごいスピードでダッシュして、遠く離れたところから警戒を全身から発散して用心深く私を見た。
あまりに激しい反応にびっくりして慌てて箒を手放したけど、それでもまだ用心深く近づいてこないので、
箒を見えないところにやると、猫はおずおず近づいてきて、訴えるような青緑の眼差しを向け、
何かを確認するように私に体を擦り付けた。私は猫の中で胎動のように脈打っている恐怖に触れた
何度か箒への猫の反応を確かめためたけど、猫は箒がそこにあるだけで絶対に私の半径数メートルに近づかなかった。
箒が強力で透明なバリアのエネルギーを発しているかのように、猫は私に近づきたくても近づけず、
ジレンマでその場でうろうろして、恐怖で顔が引きつり、不安を目に湛えた。
あれほど神秘的で超越的なほどに表現力と伝心力のある生き物がこれほど強力な恐怖に囚われているのは残酷だった。
豊かで強い魂が、豊かで強いまま自由に羽ばたくのではなく、逆にその豊かさと強さゆえに、
強力に恐怖にも閉ざされ自由を制限されてしまう。
・
ある日、恐れた日がやってきて、母が、もうあの猫に構うのはやめなさい、と言い渡した。
子供が自分の意思と離れたことをすると母は不安になり、不安を怒りで押しやる。
母の意思は私の意思。私はハイというしかなかった。
いつものように無邪気に私を信頼しきって擦り寄ってくる猫を私は絶望的に哀しく見つめた。
猫は期待に満ちた顔で私を見つめ返した。
こんなに頭のいいどこか超越的な猫なら、今私が陥っている窮状も察してくれればいいのに。
いつもこうだ。私は、私を信頼してくれるひとをいつも裏切る。
私の手はいつも大事な存在を取り零し、永遠の向こうに手放してしまう。
そのひとが私を信頼してくれる絶頂から、最高地点から、そのひとを突き落とす。致命的なほどに。
もう誰も私なんか信用しなければいいのに。
私は私より力の強い手に捕まれ、私はその手の意思よりも弱い者の手を掴んでいられるほど強くない。
結局、いつも同じ結論に行き着く。私が弱いから悪いんだ。
親に逆らえるほど強くないから、自分より強い手に掴まれ、逆らい自分の身を守れるほどに強くないから、
自分より弱い者も結局、私の弱さが裏切るんだ。
弱いということはそれだけで自動的にどこかで強いものの庇護を受けていると同時に、その意思の支配下にあることだ。
私は弱いことで悪であり、自分が罪を犯していると思う。
私は弱いから強いものの庇護とそのメリットを失わないために、強者の意思が切り捨てるものは誰でも何でも、
私の手も同時に裏切る。
弱い私が強者に縋って生きるために強者の意思の手に自分の意思を委ね、
自分が生きるために、結局私が私より弱いもの全てを裏切るんだ。
強い者の手が与える餌を貪って生き延びながら、その分魂は死にながら、私は他者も自己も全てを喪い裏切りながら、
生き延びるのだ。
私より弱い動物たち、幼馴染の友だち、そして私自身も、私を掴む強者の手がそれを望むなら、
私の手はそれらを手放し、切り離し、永遠の深淵の向こうに放擲してきた。
今は私には、これまでもこれからも、全てを喪ってもずっと、私の意思は私より強いものの意思の手に握られ掴まれ、
その手に好きなように振り回され続けるのだろうという、諦めた絶望しかない。
私の手が裏切る痛みも裏切られる痛みも、傷つけ傷つけられる痛みも、大事なものを手放す痛みにももう慣れた。
私の手は何も掴まない。
掴んだそばから手を開いて、全てを5本の指の間から零していきたい、私にあと他に何を喪うものが残っているのか、
私はあとどれくらいで全てを喪うのか、全てを喪った無の果ての風景とはどんなものなのか、
砂時計の砂が最後に落ち切るところを確認したいだけでそれを見つめているような、暗い愉悦に満ちた好奇心しか残っていない。
私は猫を抱き上げ、家から離れたところに連れて行ってそこで降ろして、バイバイといって背を向けて歩いた。
猫は立ち去る私にうにゃうにゃ言いながら尻尾をぴんと立てて小走りについてきた。
それを何度も繰り返したけど、猫はこれを面白いゲームだとしか思わなかったようだ。
玄関先で私に期待に満ちた顔を向けてくる猫を絶望的に抱き締めた。
母が「なにやってんの?早くその猫どっかにやんなさいっていったでしょ」といって玄関を閉めた。
また鍵をかけられて家を閉め出されるかもしれない。
ハムスターを地面に叩きつけたときのようにもっと酷いことになるかもしれない。
私に他の手段はなかった。私は猫を降ろすと、箒を手に取った。
箒を見た瞬間、猫は走って逃げて、一定の距離から私を絶望的に見つめた。
それがあると近寄りたくても近寄れない、早くどこかにやってと目が訴えた。
いつものように私がまたすぐ箒を手放し、見えないところに隠すことを待っている。
私は箒を手放さなかった。そのまま猫に近づいた。猫はまた遠くに走って逃げた。
猫は階段に続く曲がり角で、そこを折れればすぐに姿を消せるぎりぎりのところに座って、私の様子を観察した。
私と猫はしばらく見詰め合った。猫は私を、私の持っている箒を見た。
猫の姿があまりに痛々しくて、ここまで猫を傷つけたことが私が痛くて、もう一度猫に触れて謝りたくて、
私は思わずそのまま猫に一歩踏み出した。
箒を持ったまま近づいた私を見た瞬間、猫は身を翻して曲がり角を曲がって階段を駆け下りた。
一瞬で猫は私の前から姿を消した。
一瞬呆然とすると、私は慌てて手すりを越えて下を見た。
階段から駆け下りた猫は走って逃げるでもなく、そのまま歩いていた。
尻尾を垂らし、打ち負かされたように、とぼとぼと歩いていた。
そして一度立ち止まると、今自分が駆け下りてきた階段を振り返った。
名残を惜しんでいるのだろうか。そこに私はいない。
一瞬後、何か振り切るように顔を上げて前を向くと、今度は一度も振り返らずに、きっぱりとした足取りで歩き始めた。
私はそれを見ると弾けるように箒を投げ出して走った。
通路を曲がって階段を駆け下りて猫を追いかけた。
一瞬前までいたはずなのに、もうそこには猫の姿はなかった。どれだけ探しても、あちこち探しても、どこにもいなかった。
秋の夜の黒い闇に、白い猫の影は煙のように消えた。それから二度とその猫を見ない。
・
それから、うさぎが死んで数ヶ月くらいしたとき、私は夕寝をしていた。金縛りにあった。
夢と現の間でうっすら目を開けると、私の寝る布団の周囲に、何か軽い足音の気配がする。
何か軽い生き物が動き回り、布団の周りを歩き回っている。ねこ、と思った。
その気配は、枕元の本棚に飛び乗った気配がした。私は頭を上げた。
輪郭だけの透明な猫がそこにいた。目に見えるほど濃厚な気配だけが猫の形をしている、透明な猫。
本棚の上で毛づくろいをしていた。猫を見る私を猫が見返し、姿のない目と私の目が合った気配がした。
魂の底に届くような視線の感触に身に覚えがあった。
あのひとだ、死んでしまったんだ、だから魂だけでここに来たんだ、と思った瞬間、
私の中で、囁くような、すすり泣くような、何千もの銀の鈴の音が鳴り響いて、私は叫んだ。
うわあああ!と叫んで起きた。そしたら猫の幻は消えるだろうと思ったのに、
それでもまだ数秒透明な猫はそこにいて、私の反応を伺ってるみたいに思えた。
そして透明な猫は本棚から跳躍すると、着地するのを待たずにその気配が煙のようにふっと消えた。
あの時みたいに、探してももうどこにもいなかった。
・
私は、二度までも、あのひとを裏切ったのだろうか。一度は箒で、二度目は叫び声で。
いつもそうしてきたように。家から追い出されたくない、親にこれ以上憎まれたくない、
傷つけられたくないと、強きに取り入って自分より小さく弱い生き物の命を裏切ってきたように。
自分で自分を裏切ってきたように。
内側から柔らかく発光する真珠のように真っ白で、魂の底に直接語りかける、
闇の中でダイヤモンドのように光った青緑の目の、銀の鈴の音のする透き通った猫。
私はあのひとの名前を、あのひとは私の名前を知らなかったけど、あのひとは誰よりも深く私の魂に触れた。
私はあのひとの名前を、あのひとは私の名前を呼ばなかったけど、誰よりも深く遠く、私の魂に呼びかけた。