二歳のとき、初めて母に連れられてこの孔雀のいる幼稚園に来たとき、
道中ずっと母に痛罵されて疲れきった私はキンキン頭から突き抜ける母の怒鳴り声を遠くに聞きながら、
孔雀の檻の前でひきずっていた足を止めた。
白い鳥籠の中で、一羽の孔雀が、見つめる私の前で、ゆっくりと大きく羽根を広げた。
無数の青と緑の光る目に見つめられ、吸い込まれそうだった。
その光る目をキレイだ、と思った。
キレイだ、と頭では思っている私と、キレイだ、と「感じる」ことができないことを哀しく思っている私が、
私の中で分断していることを感じて、私はうつむいた。
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宝石のように息を呑むほど美しいものが、檻の中で誰にも見つめられずにそこにあることを不思議に思った。
そんなにも美しいものを檻に閉じ込めることは、世界の輝きを檻に閉じ込めるようなことだと思った。
孔雀は罪を犯したわけではないのに、私に世界の美しさを見せてくれている孔雀なのに、
孔雀はまるで世界の光の一部を閉じ込めたように、檻の中に入っていた。
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檻を作るのは人間、檻に閉じ込めるものは人間。
一方に自由を、もう一方に不自由を閉じ込めるのは、人間だけ、人間の特権。
それは、人間がそれだけ自由だからだろうか、それとも、それだけ不自由だからだろうか。
何かから自由を奪って檻に閉じ込めるのは、それだけ自由だからだろうか、
檻を作り自由を奪う行為ができることが、自由を持っているということなのだろうか。
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世界の光を檻に閉じ込めている人間と、檻に閉じ込められて、
その中で輝く無数の青と緑の目を私に見せてくれている孔雀と、
どっちが自由なのだろう、どっちが檻に閉じ込められているのだろう。
檻のこちら側から見つめている私か、檻の向こう側から見つめている孔雀か。
人間に自由を奪われ、檻の中で誰にも見られない美しい羽根を広げている孔雀と、
檻の外にいて、美しいものを美しいと感じる心の自由を人間に奪われて、疲れきって痺れた心の私と。
檻の外にいるのは、檻の中にいるのは、閉じ込められているのは、
金網を挟んだそことここ、どっちなのだろう。
と思って、母の金切り声が空に突き刺さるように響き渡ったので、
まだ羽根を広げている孔雀から目を引き離して、また足を引きずって私は母のところに戻った。
その幼稚園は、その当時から対人恐怖症的だった私でも、どこかくつろぐことができる場所だった。
ここにいることなら平気かもしれない、と思い始めた矢先、その幼稚園にある滑り台から子供が落ちて腕を骨折した。
何人かの親が教師の監督不行き届きを非難して、子供をそこから転出させた。
私の親を含めて。
そこにいたのは二ヵ月くらいだった。



