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「感性が始まるところでのみ一切の疑と争は止む。


直接的な知識の秘密は感性である。


我々が感ずるのは石や木、肉や骨だけではない。


感覚を持っているものと握手したり、接吻したりすることによって、我々はまた感情を感ずる。


我々は耳を通して水の流れる音や木の葉の囁きなどを知るばかりではなく、


魂のこもった愛と知恵との音をも知る。


我々は鏡の表面や色の幻影を見るばかりではなく、人間の眼光をも見透す。


つまり、外的なものばかりではなく内的なものも、肉体ばかりでなく精神も、


物ばかりではなく自我も感覚の対象であるーーー




普遍的な感覚は悟性であり、普遍的な感性は知性である。


最も低い感覚、嗅覚や味覚でさえも、人間にあっては精神的な作用、科学的な作用を高められるのである。


人間はその生存を感性にのみ負うている。


理性、精神は書物を作るが、人間を作らない。


真の哲学は書物をではなく、人間を作ることに在る。



ここに私はいる、ーーーこれが現実的な、生きた存在の最初の印しである。


人差し指は、無から存在への道しるべである。


「ここ」が最初の限界、最初の区分である。


ここに私がおり、あそこに君がいる。


我々はお互いの外にいる。


だから我々ふたりは互いに侵害し合うことなく、存在することができる。


場所が十分にあるのだ。


太陽は水星のあるところにはなく、水星は太陽のあるところにはなく、


目は耳のあるところにはない、等々。



空間の内でのみ、理性は方向を定める。


私がどこにいるのかは、目覚めつつある意識の問い、


生きる知恵の最初の知恵である。


「どこ」とともに、私に初めて空間の概念が生まれる。


私はここにいるゆえに、あそこにいない。



人間は、感官によってのみ、自分自身に与えることができる。




 神が主体的人間的であればあるほど、


人間はそれだけますます多く自分の主体性と人間性を自分から疎外する。


なぜなら神自体が人間の自己が疎外されたものだからである。




ある人間が本質的必然的に関係する対象は、彼自身の対象的自我・露わな自己である」


ルードヴィヒ・A・フォイエルバッハ