「この句には、琵琶湖という言葉はどこにもない。
句の表現の中心がそこにありながら、この作品に”参加”する読者自身が当然補うものなのです。
たった十七音節という最短小の形式の中に、そんな限りなく多感なものが込められているのであって、
よほど眼と心の肥えた読者でなければ補い尽くせないものが表現されているのです。
こういう重大な点を読者の直感的判断にまかせきっているのであって、
これもまた、読者が作品に参加して補いつつ完成する性質のものであることがわかります。
ただ、古典文学になると、何が暗示されているかを知るには、
読者の眼が肥えていることが、いよいよ、要求されるでしょう。
日本語はあいまいであるが、それゆえに暗示的であること、
その特質に根ざしているところに、日本の文学、わけても和歌や俳句の特色が見られることは、
古典文学に限った話ではありません。
感動が深いとき、私たちはそれをどう表現していいのかわからなくなって沈黙してしまう場合がある
この沈黙の底に宿る理解というものもあるのだ。
多くの民衆は、昔からそうしてきたのではないか。
夢殿の前に幾たびも佇んで、その美しさに見とれ、
歴史の思い出に生きてきた「表現しない」人々の心を忘れてはなるまい。
ものを書いていると様々の虚栄心がつきまとう。
それを捨て去った「無心」の境地を私はいつも忘れまいと思うのである。
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最後に、我々が見逃しがちな大事な点について、一言だけ触れておきたいと思います。
それは、日本の古典文学は、美術的要素を抜きにすれば、魅力の大半を失うだろうということです。
古今集や新古今集歌は、色紙なり短冊なりに、水茎の跡美しくかかれたものであって、
その紙の色と、書かれた文字の墨の濃淡と、そのつづきざまの調和の美しさこそ、
まず第一に味わうべきものであって、歌の意味、内容は二の次といってもいいでしょう。
そんなわけで、日本の文学には容積があり、面積があり、色彩があり、触覚があったということ、
何よりも、まず、”見て楽しむ”要素がどっさりあったということを忘れてなりますまい。」
「古典へのいざない」臼井吉貝
