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「ロゴスとは<語ること>ですが、


しかしそれはある音声を発するという意味での語りではなく、


それによって語りかけられているものが己を示すように、


語られている当のものを呈示するという仕方で、


あるものについて語ることなのです。


語りというものはいずれも、殊にギリシア人にとっては、


ある人に向かって、あるいは他の人と語ることであり、


自分自身と、あるいは自分自身に向かって語ることです。



他の人となにごとかについて語ることは、そのつど自分を語り出すことにほかなりません。


他の人となにごとかについて語ることのうちで、私は、


あからさまにであろうとなかろうと、自分を語りだしているのです。


ロゴスは人間の存在そのものの基本的な規定なのです。


ギリシア人によって人間は、<ロゴスをもつ動物>と見られています。


哲学的にだけではなく、具体的生活においても、



<(生物でありながら)言葉を持つ生物>だと見られているのです。



一個の生物はただ眼前に存在しているというだけではなく、


一つの世界の内に、世界を持つという仕方で存在しているのです。


一匹の動物は、ただ路上に置かれ、なんらかの装置に操られて路上を動いているわけではありません。


動物は、<世界を持つ>という仕方で世界の内に存在しているのです。



ところで、人間の世界内存在は語ることによって根本的に規定されています。



人間がその内に存在する基本的な仕方は、世界と語り、世界について語り、


世界から語ることなのです。




人間は共同存在という在り方で存在しています。


私の世界の内に生きている人間として私自身が私についてなす基本的言表、


<私は存在する>というまったく初次的な言表は、実は間違っています。


<私はひとである>といわねばならないのです。



<ひと>がいる、<ひと>がしかじかのことを企てる、


<ひと>はものごとをしかじかのように見る、というわけです。



この<ひと>が日常性の、つまり平均的で具体的な共同存在の真の在り方なのです。


<ひと>は日常性における人間の真の在り方であり、


この<ひと>の真の担い手は言語なのです。」ハイデガー



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じゃあ、他者と繋がるものとしての「語り」と「言語」から追放された私は、



世界の外に追放され、私の内の世界から外に追放され、



「人間の真の在り方」 をしてなくて、<ひと>ではないんだね、私は。



「語り」と「言葉」から追放された世界の外で、世界と「私」の残骸の言葉が吹き散らされる。