幼馴染みにバッタリ遭った。
気まずい。
彼女は片手挙げて「よぉ!」と相変わらず気さくだけど、こっちは半笑いで「あ、ども…」。
大家族(7、8人…)総出だったけど、相変わらず、無防備で不安なほど気さくだ。
みんな土偶みたいなコロコロ丸い安産型「母ちゃん」体型している。
そんな無防備だから、子供時代を通してずっと、
私なんかとも別け隔てなく友だちなんかになったりするから、
ずっと私にイジメられて、私の地獄に引き摺り込まれたのに。
最初から、私なんかと関わらなければよかったね。
5才のとき、駄菓子屋の狂犬に襲われたのを私に黙って見殺しにされてた彼女、
血塗れの彼女を置いて逃げるように走り出した私に、
待ってよぉ、置いてかないでよぉ、と血塗れの手を伸ばした彼女。
それが無い私に、アイデンティティを乗っ取られようとした彼女。
私と彼女以外死に絶えたように誰もいない世界を、
泥水の中を泳ぐように走って家について親に報告しようと
家の扉に手をかけた瞬間、私の背後で閉まった扉に記憶を遮断された。
背後で家の扉が閉まった瞬間、私は全てを忘れて立ち尽くした。
14才の一人の夜、レノア・テアの「記憶を消す子供たち」を読んで、不意に思い出すまで。
その後彼女にこのときのことでずっと恨み節をいわれた。
遠回しにイジメられた。
いっそ関係を切ればよかったのに。
蛇の生殺しみたいな関係を続けるよりはいっそ本心をぶちまけて、
関係を切ってほしいと何度も願った。
彼女を前にすると、言わなければならないこと、いいえない言葉が、喉を塞いで窒息する。
今さら、あのときの話をする?
まるで、嘘みたいな、作り話みたいな話を?
信じてもらえるわけないじゃん。
見苦しい、言い訳にしか聞こえないに決まってるじゃん。
私の記憶が、嘘か、本当か、誰に、どうやって、判断できる。
人が、その人以外の他者にでもなれるのでない限り、そんなことは、不可能なのだ。
誰も、私自身になどなれない。
誰も私になれるのでない限り、私を、本当だとも、嘘だとも、判断なんかできない、
理解できない、信じることなんかできない。
誰も、その人が、本当か、嘘か、判断なんかできない、理解もできない、
だから、人が、人を信じることなんか、不可能なんだ。
人にとって、一番遠い存在が、人なんだ。
不可能という諦めを内包したものが人間なんだ。
彼女が信じなければ、私は嘘をついたことになる。
そしたら、彼女はまた、傷つく。
また、私に傷つけられる。
私は、どうしたらいい?
それに、彼女はきっと、今のままのなあなあな関係を望んでる。
今さら、私なんかの「本心」なんか聞きたくないに決まってる。
これ以上、私に深入りすることなんか、望んでいない。
たぶん、彼女の人生で、彼女を一番傷つけただろう、彼女の記憶、
彼女の記憶の真実を補完する、私の記憶。
でも、私は、彼女の記憶を補完する私の記憶を、彼女に渡すことは、できない。
きっと、彼女は、それを望んでいない。
彼女は、私なんかもう、きっと望んでいない。
私はこのまま、彼女の前から消えるべきだ。
彼女の記憶のもう半分の記憶と共に。
私が消えることで、彼女の記憶のもう半分の物語も、永遠に繋がれることもない、
きっと、それしかない。
あのとき、あの日、あの夏の5歳の日、犬に組み敷かれ牙を立てられ、泣き叫び、
たすけて、と私に手を伸ばした、血まみれの彼女を置き去りにして、私が走り出したとき、
私は彼女を裏切ったのだ、私が記憶を手放したことで、彼女の記憶も物語も失われたのだ、
彼女の記憶の半分を担うことを、私は手放し、裏切ったのだ。
ごめんね。
私は、人の運命を刈り取る死神みたいだ。
記憶の底を見つめたとき、記憶は、私が何者であることを物語るのだろう。
私の記憶の深淵を見つめるのが怖い。
そこにいるものと、目を合わせるのが、怖い。
だって、私は、その名前を呼ぶことができない。
名を呼べず、ただその目と、きっと、その悪魔のような紅い目と、
目を合わせることしか、できなくなる。
そして、目と目を合わせたまま、名前を奪われ、言葉を奪われ、声を奪われた私は、
きっと、私の記憶の底にうずくまっている、空白に、食われて、呑み込まれてしまう。
だって、それは、きっと、名前がない。
それに名前がないということは、それにとっての私にも、名前がないということ
名前を拒否しているそれとの間には、関係性を築くことができない
名前を呼ぶことができない私の記憶、そこにある記憶にとって、
関係性なく孤立し立ち尽くす、名前のない私。
だって、その名前は、きっと…、
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「私たちは今日、素晴らしい友情を見聞しえない。
私達の精神が粉々に解体してしまったからである。
人間が、その生活のやむをえない圧力のために、さまざまな断片に、
或いは、さまざまなペルソナをつける怪物に分裂してしまったときに、
どうして人間と人間の全一的な交わりを結ぶことができるか。
我々は、だから孤独であり、寂しいのである。
分裂した自我の所有者である私達が、
私達と同じように分裂し崩壊の危機に瀕している友人の中に、他ならぬ自分自身を発見するとしたら、
私達は恐らく友を軽蔑し、併せて自己自身を軽蔑するようになるだろう。
それとも、そういう私達を私達自身が憎むように、友をも憎みたい気持ちになるのであろうか。
・
個人は正に機械の部品のように解体され、
この解体されたバラバラの部品を一個の自己自身にまとめあげることができないのである。
彼は完全に魂を失ったのであり、個性を喪失したのである。
友情を結ぶためには自己を修復しなければならぬのである。
自己のない友情というものを我々はどうして持ちえようか。
解体された部品のごとき自己の断片が、
そのような断片に相応ずるもうひとつの部品に遭遇したとき、
近代人は正に最も卑小な友情を発揮するのである。
それは孤高の魂と魂の友情ではない。
それは精神の断片と断片の友情である。
精神が自己の断片性を意識する限り、
それは確かに孤高の代わりに文字通り孤独なのである。
自己自身に対して孤独なのであり、友に対して孤独なのである。
・
友を第二の自己だというのは正しい。
しかしこれが正しいのは「第一の自己」について完全な認識があった上でのことである。
第一の自己について知らず、第二の自己を知り且つ愛するなどということは、
そもそも矛盾の極みではないのか。
透明な自己認識を持ちながら、なお私達が孤独を忘れるほどに、
私達自身について歓喜しえるほどに、私達は誇るに足る価値を私達の内に蔵しているであろうか。
透明な自己認識は、自己の限界をまず教える。
自己が、やがて死に行くものであることを、
刻々、死に接近しつつものであることを教える、
自己が魂を喪失した哀れな断片の寄せ集まりであることを教える。
そしてこれらのことを教えられることは、孤独と寂寞を知ることに他ならぬ。
透明な自己認識によって友を選び、友情を交えることだ。
・
・
一刻一刻と狭い庭を夕暗がかぶさってきます。
するとどうなるでしょうか。
何もかも、その形の鮮明さを段々失って暮色一色に塗りつぶされていきます。
夕方で、もはや樹の形も一枚一枚の葉の形もはっきり見えない。
しかし黒々とした夕方の一本の樹が、私なら私の感受性を全部圧倒してしまうのです。
私はもはやその樹の与える印象や感覚から逃れる術を知らないのです。
いや、逃れる術どころか、私自身、その樹と一緒に、夕方の乳色の中へ埋没してしまうのです。
私は樹の形をはっきり理性で見極めることもできないのに、
樹そのものが私を圧倒し去ってしまうのです。
私は樹の与える感覚の中に包み込まれてしまい、
私と樹は、夕暗の一色の中に全くくるまれてしまうのです。
私は、夕方が一切のものを「色」で塗りつぶすということをいいたかったのです。
昼間は私達は形を見ます。
物の形をはっきりと見るということは理性の働きなのです。
昼間が形の世界であり、理性の世界であるならば、
恋とは理性の届かない「夜」の世界です。
恋をするとは、私が相手の中へ吸いこまれてしまい、
相手の中でカラカラに渇いた愛の喉を潤したいことなのです。
・
・
「判るね。―」
「うん。判る。」
たったこれだけの幼稚な言葉しか口に出せないで、
あとは膝小僧を抱えたまま、夕方の空をふたりで黙って見つめて、
何分間もじっとしていたあの友情の世界、
私は遠く過ぎ去ったその頃を思い出さずにはいられないのです。
友情とは昼間の世界でもなく、かといって、一色に塗り潰された「夜」の色でもない。
形と色とふたつのものが、溶け合って一だから、ある時は形の点から、
別の時は、色彩の点から、相手を眺め、
相手を愛さずにはいられない世界とでもいいましょうか。
友情とは、そこで、昼間の明るい眼差しと、
夕暗の中の感覚的な色彩の世界と、このふたつのものが、
独特のスタイルで融合した世界のことなのです。
静かに留まって―
なぜなら、そうやって黙りこくったまま夕空を眺めている、
私と彼のうちにあるものは、知性や理性の活動ではないからです。
私は実際、むつかしいふたりの世界を、たどたどしい筆で、やっとこさ書いているのです
