9歳のとき、母親に斉藤惇夫氏の「冒険者たち」を読むように薦められた。


小さな命の尊さをわからせるという情操教育だったと思う。


わたしは本を読むのが嫌いな子供だった。


本は内省させる。


本は感じさせる。


本は考えさせる。


わたしのタブー領域に触れる。


わたしは、人間でも生物でもない機械なのだから、親に機械だと思われているのだから、


考えたり感じたりしたら、親に逆らうことになるのだから、機械のようでいなければならなかった。


本なんか読みたくなかった。


機械は本なんか読まない。



わたしは母の要求をはねつけた。


母は、いい本だから読みなさい、一度騙されたと思ってと、感動するからと、執拗に勧めた。


わたしは感動なんかしたくなかった。


毎日、毎時間、毎分、毎秒、感動しないように、何も感じないように、何も考えないように、びくびくしていた。


親に逆らわないために、一秒たりとも自分を人間だとか、生物だとか思わないように、


何も考えないよう、何も感じないよう、秒刻みで戦々恐々と、機械であるのに必死だった。



でもその母の命令なので、私は「冒険者たち」を読んだ。


感動して泣いた。


母の言うとおり感動したと。


あまりに感動し、あまりに母の言う通りなので、「冒険者たち」の主人公、


ガンバにみたててネズミを飼うことにした。


げっ歯類なら何でもよかったのだけど、ネズミは害獣なので、ハムスターで妥協することにした。


わたしはそのときの級友チヒロにも、母と同じように「冒険者たち」をすすめ、感動しろと迫った。


とても感動したから、小さな生き物の命を大事にする精神で、ガンバに見立てた小動物を飼おう。


彼女を私のストーリーに巻き込み、彼女と二人でお年玉の残りを出し合い、


二匹のハムスターをペットショップで購入した。





初めてペットを飼うという、親の了承のない背信行為に、罪悪感を感じた。


なんであれ、わたしが親の命令でないこと以外のことをしたら、


誰が私の主人かわからせるために、親に目にものをみせられる。


だから親には内緒で飼うことにした。


でももしばれても、お母さんが薦めてくれた物語に感動したから、


だからその影響なのだと言い訳して、うまくまこうと画策した。



わたしは、お小遣いをもらっていなかったので、一年をお年玉でやりくりしていたので、


出費には細心の注意を払っていた。


そのころはまだハムスターブームが来る前で、一匹500円か1000円くらいだった。


親への背信感覚と、今まで経験したことのない、命を購うという行為に、


やましいような、どきどきしていたわたしは、


ひとつの命がたかだか、500円なのかと拍子抜けした。


これが猫、犬ならそうはいかないのだろう、


体の大きさに応じて、命の値段は変わるのだろう、


これだけの大きさしかない命だから、


これだけの値段の命なのだろう、と思った。



わたしは親の目を盗んでペットを手に入れた高揚と、


そんなに興奮する程度でもない数百円の命という落差に、なんだかがっかりした。


親に背くような大それたことをしている、でもそれは親が私にしてくれたことに、


いかにわたしが感動しいい影響を与えられたか、いかに親が正しく崇高で尊いか、


を証明するための行動なのだ、と、


もし親にばれても、自分を貶めながら親に賛美的な言い訳をすることで、


かえってほめられるかもしれない、という興奮が一気に冷め、早くも飽き感がした。


住む場所をどうしよう、ケージは、というピクニックの予定を立てるような、


わくわくした気持ちも冷め、とりあえず彼女の家にあった、


プラスチックの虫かごの中にハムスターを閉じ込めることにした。





わたしが初めて触った、別種の生き物の命、500円分の命。


あたたかくて、もこもこして、くるくるしていた。


わたしと彼女は、子供が動物と関わる際の典型的な反応、


「わあ、かわいー。」を連発し、スキンシップをとりまくった。


わたしも、「わぁ、かわいー」を連発していたが、


自分がそれを、かわいいと思っているかはわからなかった。


それよりも、げっ歯類らしく、じっとしておらず、常にせわしなく、


くるくる動く様が、気に触りさえした。


これでは始終どこかに勝手にいかないように捕まえておかなければならず、


「小動物の命を尊く愛好する、高邁で愛らしい子供の図」がぶち壊しだ。


そろそろ夕暮れてきたので帰ろうと、ハムスターを虫かごに戻した。


ハムスターの虫かごは、彼女の家と、私の家との中間ほどにある、空き地の茂みの中に隠すことにした。


一匹の500円分の命は、私と彼女の共有財産なのだ。





私と彼女は毎日、学校帰りにハムスターとスキンシップした。


なんだかそのわたしたちの姿は、よくそこらへんの薄暗い雑木の中に捨ててある、エロ本みたいに、


後ろ暗いものに思えた。


薄暗い雑木に、人目に隠れて捨ててある、エロ本みたいな、


あるいはそこで人目に隠れて、エロ本でマスターベーションする、誰かみたいな、


何か後ろ暗い陰があるように思えた。


ハムスターは、虫かごのプラスチックの壁の中を空しく彷徨って、うろうろしていた。


わたしたちはエサのひまわりのたねも購入し、


ハムスターの頭の上からひまわりの種をぱらぱら降らせた。


季節は冬で、雨が降ろうが、雪が降ろうが、霙が降ろうが、


ハムスターは虫かごに閉じ込められ、野ざらしにされていた。


わたしは、寒い屋外でのスキンシップが億劫になっており、時々様子を見る以外、そこにいくのが間遠になった。


エサやりや掃除をさぼった。





年末だったか、田舎に帰省したため、一週間以上もハムスターの虫かごに行かなかった。


彼女のほうは、私よりもハムスターの様子を見ていたらしく、


それを伝えてきたのは彼女だった。


ハムスターが死んでいるという。



霙交じりの雪が降る日急いで行くと、虫かごの中は、ハムスターの命の体温だったのか、


まだ温かかった呼気だったのか、内側から細かい水滴がつき、雲っていた。


曇ったケースを通して、ハムスターの体の茶色と白の小さな塊がぼやけて覗いていた。


なんだか私にはそのことが、わたしへのハムスターの弾劾に見えた。


ハムスターの命を蒸発させたことへの、暖かな命の呼気を冷たく結露させたことへの、


声のないハムスターの、最初で最後の、蒸気のような、弾劾に思えた。


曇りを通してハムスターの茶色と白の毛玉が縮こまっているのがぼやけて見える。


あれほど騒がしく動き回っていた体は厳かなほど静かに、じっとして動かない。


死は厳かなものなのだ。



おそるおそる虫かごを開けてみると、外的から身を守るように四肢を縮め、


団子虫のようにこちらに背中を向け、丸まっている、茶色い背中が見えた。


よくハムスターが眠る際にとる格好で、彼女の服の中や、私の手の平の中で暖をとり、


眠りについて丸まる姿勢だった。


でも今は、どこにも暖のない、暖の奪われた虫かごの中で、


眠っているわけでもないのに、眠っているのと同じ格好で、


永遠に目覚める機会を奪われて、目覚めるために眠る機会も奪われて、


一切の活動的生の機会を奪われて、ただ、死んでいる。



私はなんだかその雰囲気に怯えた。


どれほど騒がしく暴れるハムスターよりも、厳然としたなにか、


もっと雄弁で、もっと声高ななにかが、その背中から、暗黙に発せられているような気がした。


すべてへの拒絶、という、静止と沈黙での、わたしへの告発を。





虫かごの中は、雨と雪が入り込んで、びしょぬれだった。


ほとんど飼育放棄だったから、糞尿まみれかもしれないと思ったけど、


どういうわけか、そうした汚れはなかった。


餌があまりに供給されないため、出るべきものも出なかったのかもしれないと思った。



敷き詰めた白いティッシュが、泡だったホイップのように、ハムスターの周りで波打っていた。


ひまわりの種の殻のかけらが、申し訳程度に、ぱらぱら散らばっていた。


実の入った種はひとつもなかった。


サテンのようだったハムスターの毛並みも、塗れてはりついて、ハムスターは一回り小さくなっていた。


そっと、厳かなまでに持ち上げると、すべてに抵抗するような、硬い反発を感じた。


死後硬直を起こして固まっていた。


死に顔は、ネズミらしい、苦悶に満ちた表情。


わたしは動物界で、死に顔が一番苦しそうなのはネズミが一番なのではないかと思う。



わたしは、ハムスターが死んでいることを認めた。


名前もろくに定めず、今、死んでいるそれの名前を呼んだことは一度もなかった。


まるで、生きているうちから、生きていることを否定したように。


わたしによって、否定されたように。





彼女は、私より動揺していた。


彼女は泣いていた。


泣くという情緒は、わたしにはなかった。


泣いてみようと思ったけど、うまくいかなかった。


これはすべて、いかに親が正しいかを証明する、虚構の舞台設定でしかなかった。


彼女は自分の親に知らせたという。


わたしはそのことのほうに、死んだハムスターを手に持ったまま、血の気が引いた。


余計なことをした彼女を殴ってやりたかった。



冷たくなったハムスターに、彼女は自分の体温を移そうとして、抱きしめ、なでた。


わたしは、その物体の意味が、わからなくなってきていた。


意味のわからない不気味なものに見えてきていた。


私も彼女の真似をして、別れを惜しむようになでた。


このハムスターが、私に別れを惜しまれて、喜ぶとは思えなかった。


私たちは別れを済ませ、ハムスターを土に埋めた。


彼女と私は墓前に手をあわせた。



その後、あるテレビ番組で、ハムスターも気温が低下すると冬眠することを知った。


だとしたらあれは、餓死、もしくは凍死ではなく、


ただの冬眠だったのかもしれない、


わたしはハムスターを殺しはしなかったのかもしれない、


と、都合良く考えることがある。


でも、だとしたら、冬眠しているだけのハムスターを、


わたしは、今度こそ土に生き埋めして、窒息死させたのだろうと思う。



この一件が、彼女の親からわたしの親にばれた。


他人を介したからか、親の反応は時々そうなるように生気のないほど薄く、


飼いたかったら親に言って家で飼いなさいとだけいった。


私はハムスターを飼う事に親の容認を得たことに喜んだけど、


この一件で、自重としての気分もあり、もうほとんどハムスターを飼う気にはならなくなっていた。





その後、母が、自費でハムスターを買ってきた。


わたしが動物の小さな命に関心を持ち始めたと思ったのかもしれない。


母の「冒険者たち」の推奨のおかげで。


わたしの暗示的なパフォーマンスが母に伝わり、


ここでこうして、私にあだとなってふりかかっている。



母は嬉々として、ケージ、水飲み、ねずみがまわす車、ハムスターの飼育に必要なひとそろいを買って来た。


これほど準備万端なら、今度はハムスターを殺さなくてもよくなるかもしれないとわたしはどこかで思った。


同時に、わたしが、この家が、何か、命を生み、育めるとは思えない、とも思った。


この家で、自分がいるだけでも限界なのに、さらにこの家から、


私以外の生き物を守り、育てる余裕などない。


母はわたしの責任で飼育するように申し付ける。



最初は興味本位で、このハムスターは親のものでもあるだろう。


親がハムスターの関心を離れ、飽き、わたしひとりの責任でまかされるとき、


このハムスターは、わたしの同類、わたしの仲間として押し付けられるということだ。


わたしの仲間、わたしの同類、親の敵。



親の敵のように親から憎まれ、


虫かごに閉じ込められているような孤立無援の状況に、


このハムスターもわたしと同じように、閉じ込められるのだ。


親の興味を引きとどめられず、親の関心を離れ、わたしひとり、子供ひとりの、


自己責任で、とは、


子供が持たず、親だけが持っている生活力のパイプラインから、


拒絶され孤立化すること、それが自己責任で、自立する、ということなのだから。



今後、ハムスターが、怪我をしても、病気になっても、餓えても、死にかけても、


何があっても、親に知られてはならない、助けを求めてはならない。


感情、思考、自己、存在を、表現してはならない、わたしが、そうあるように。


それが、他者の存在を認めない、自分の存在だけを世界に認めて生きる、


自己責任、自立する、ということなのだ。


わたしと、ハムスターは、同じひとつの虫かごに、閉じ込められたのだ。


私自身が檻の中にいるのに、


どうして、もうひとつ、別の檻の中にいる動物の世話をすることができるだろう。





案の定、最初は、物珍しさから、ハムスターを弄って遊んでいた親の手元にいるときは、


ほとんど親の管理下で餌やりや水やりをしていたのだけど、飽きられて親の手元を離れると、


臭いから、汚いから、家が汚れるから、という理由で、


ハムスターの檻は犬小屋みたいに、家の外、玄関の脇に置かれることになった。


私がよく、汚いからという理由で、玄関から締め出され、家を追い出されたように。



親の関心が見離したハムスターをかまうことは、


親の意識に逆らうことになるのではないかという防衛感情がわたしに湧く。


それは、汚くて臭いから、家主である親に家を追い出されて当然の子供、


わたしと、同じ立場なのだ。


汚く、図々しく、他者の世話を要求するろくでなしのわたしが、


家から追い出し、閉め出し、憎まれ、親の現実から抹殺されて、当然であるように、


わたしと同じ立場になったハムスターを、わたしが可愛がり、世話を焼くことは、


暗に、親の意識に、反逆している気がする。


わたしも、わたしをそうする親と同じように、わたしであるハムスターを見放し、


苛め、殺さなければならないような気がする。



それを親に期待され、待たれ、見張られているような気がする。


これは、テストのような気がする。


いかに親の意識が作る現実に従えるか、


いかにわたしが勝手に自分の意識で作りあげた現実に従って単独行動を起こし、


親の現実に従わなくなり、親を裏切らないかの。



わたしは、ひたすら親の意識に抵触する、


親が作る現実のルールだけからはブレないように、一切から心を閉ざす。


ハムスターをかわいがるのは便宜上、


それが、「幸せで何も問題のない普通の家庭」の「幸せで何の問題もない普通のこども」がする行動だから。


ハムスターへの好意が親の現実のルールを上回ってはならない。


親に気を使う以上に、ハムスターを大事にしてはならない。


親の機嫌に抵触した場合は、即刻、ハムスターの命を絶つ必要がある。


即刻、ハムスターの命を絶つことに躊躇しないほどの、


自分のハムスターへの執着を絶つことに躊躇しないほどの、


親への恭順の意思を示す必要がある。





最初は、親の歓心をかうための、定型的な「小動物を愛する愛らしい子供」らしく、


「わあかわいいー」を棒読みで連発し、ハムスターと遊ぶというより弄っていた、


知的障害の姉も、そんな空気を察したのか、親の感心がハムスターから離れると同時に、


「親の敵は自分の敵」とばかりに関心をなくし、


檻から出して遊ばせているハムスターが、自分の膝元でうろうろしていても、


注意を払わなくなる。


ハムスターが勝手にどこかへ行ってしまうので姉には任せていられなくなる。


姉は、自分で皮を剥く自分の指先に、自分の指先の痛みに、自分の指先の血に、


自分の血の味に没頭し始める。


兄はこのイベントに、皮肉めいた雰囲気を漂わせて、距離を置いている。





ハムスターの存在を知っているのは世界でわたしだけという状況のような気がする。


だれもそこにいてほしがっていない、誰もそれに生きてほしがっていない、


幻のような、影のようなハムスターの世話を焼く役目は、


誰の相手にもされなくなった、ハムスターの相手をするのは、


誰にも相手をされないわたししかいないと、家族に見下されている気がする。



わたしはハムスターの餌やりを怠る。


掃除を怠る。


水遣りを怠る。


ハムスターは、たまに与えられる餌に、目の色を変えて飛びつく。


糞尿まみれになる。


親の言うように、汚く臭い、家を汚すものになっていく。


一度、母が与えた、人間の食事のあまりもの、


野菜の切れ端を与えたのに、ハムスターがっついているのにわたしが誤って手を触れると、


エサを取られると勘違いしたハムスターに猛然と攻撃され、すごい勢いで噛み付かれた。





つがいで買ったので、ハムスターは子供を生む。


10個ほどの、ぴくぴくうごめく、小指の先ほどの赤い肉塊だった。


気持ち悪かった。


子供が生まれるという余興に、親の関心はまたハムスターに向く。


わたしは、ハムスターを世話する許可を、親から向けられた関心によって得たように感じ、


こまめに世話をするようになる。


子供は成長して、何匹もの小型のハムスターの形になる。


今度は親に飽きられているどころか、


「このまま成長したらどうするの」と、


親の厄介に、荷物になり始めているのを感じる。


不安がもたげる。


いっそ、と思う。





夏休み、年末、いつも、一、二週間、休みいっぱい田舎に帰省する。


そのときハムスターは置いていかれる。


車が臭く汚くなるから。



父が大型の水槽を引っ張り出してくる。


ほかにもアルミのお菓子の空き容器のようなものを探し出してくる。


ハムスターの檻、空容器、大型水槽に、増殖したハムスターをべつべつに別居させる。


共食いしないようにするため。



母は子供と接触しないため、


わたしと父でハムスターが共食いしないための準備をする。


多めに餌を与える。


「この程度でいいんじゃねえか。」 父が言う。


父がいいというなら、それはそれでいいのだ。


それでよくなければいけないのだ。


わたしはただ、父の意見の絶対的な賛同者として、いつもそこにいるだけだ。


それがわたしの役割だから。



檻の中の親ハムスターには、餌容器いっぱいのひまわりの種とビスケット。


アルミの空き容器にいれた子供たちのほうにもひまわりの種とビスケットと果物をいれ、


蓋を閉める。


高さ30センチ幅50センチくらいもある大型の空水槽に入れたのは、


親指二つ分くらいにまで成長した、2匹のきょうだいハムスター。



父はなぜか嬉しそうに、今までになくハムスターに関心を向ける。


わたしは内心、父にどこかにいってほしい。


わたしの不在中にハムスターの身に起きることは、私の責任になるのだから、


今にはない時間と、わたしの不在の中にある責任を、


今、ここで、負うために、ハムスターの管理を、


わたしの考えと行動に、今ここで、一任してほしい。


父とわたしが何かを一緒にやるということは、


私がわたしの意志と、感情と、思考と、決定権と、選択を放棄して、


すべての決定を、父に譲渡するということだから。





新聞紙を敷き詰めた殺風景な水槽の中を、かさかさ音を立てながら、


不毛にくるくる歩き回る2匹の子供ハムスターを、


父はなぜか、妙に嬉しそうににやけながら水槽の上から覗き込み、


「お別れだから、奮発して、チーズでもやりゃどうだ」。


チーズを投げ入れる。


2匹は今まで見たこともないような食べ物へのがっつきを見せる。


わたしは、ああやはりねずみだからチーズが好きなんだなと、妙に腑に落ちる。


夢中でチーズをほおばり始めたハムスターを見届けて、


何かやり遂げたように、わたしと父は、家を後にする。


親ハムスターの檻は家の外、玄関の脇に、


子供たちの空き容器と水槽は、家の中に。





長野から帰省すると、真っ先に親ハムスターの檻に駆け寄る。


檻を覗き込んで、わたしは一瞬、自分が見ているものを言語化できない空白に向き合う。


次の瞬間、総毛立つ。


後ろ足で立ちながら、おやハムスターが両手で抱えながら食べている、


つぶしたイチゴのように、不自然なくらい真っ赤なもの。



家族が留守中に、再び生んだ子供を、餌がなくなって飢えた親ハムスターが食べていた。


軟骨を噛み砕くような、薄いセロファンをへし折るような、


ぺきぺきぺちゃぺちゃという音が甲高く響いていた。


親ハムスターは、2週間ぶりに帰ってきて、檻を覗き込んでいるわたしを、


自分が生んだばかりの赤い子供を食べて、さらに赤くしながら、見つめかえした。


ひと時も食べる口を休めることなく、一心不乱といってもいいくらいの勢いで租借しながら、


にらむように、告発するように。



わたしは大声を上げてケージを開けて、親の口から、ひき肉状の肉塊になっている子供を取り上げようとした。


親は食べ物を奪われるのに抵抗した。


取り上げようとするわたしの手を体でさえぎって、自分の手でかいこんで、


食べ物を奪われる前に、一心不乱に子供の肉を噛み砕いて、必死に飲み込んだ。


わたしは一瞬、それが、


子供と自分のどちらかが生き残らなければならない選択に追い込まれたとき、


自分が生き残ることを決断した親の、子供への弔いのために、


自分の罪を噛み砕き飲み込む行為、


子供を、自分の一部にすることで生きさせようとする、


親の必死の贖罪行為のための抵抗に思えて、たじろいだ。



わたしは一瞬、自分の手が、


子供を食事する選択を下した親の、


唯一の贖罪行為を取り上げるという罪深いことをするようで、


親の口元から子供の肉片を取り上げようとする手をためらった。


また、わたしは一瞬後、それはただ単に、ハムスターの、


唯一の食料を奪われまいとする、動物本能でしかないと思い直した。



親は、わたしの手に食料を取り上げられることに激しく抵抗しながら、


子供の肉を完全に食べ終えて、飲み込んだ。


いまさら、肉片となったこどもを取り戻しても仕方ない、


わたしはなすすべなくそれを見つめながら、とりあえず、


まだ生きている生まれたばかりの子供を親から非難させた。


親は、飢えたぎらぎらした目で、次の獲物を物色しているように見えたから。


わたしに、親ハムスターを非難し、子供ハムスターを救う資格など、あるわけがない。


その状況を作り、許したのは私なのだから。


とりあえず親には餌を与えた。


家の中の子供の様子を見に行った。



お菓子の空き容器の蓋を開けると、こちらも、共食いをしていた。


子供は大きくなっていたため、サバンナ状態のような、


死体の有様が無残なことになっていた。


腹をかっさばかれ、はらわたを剥き出しにされた死体が仰向けに、ごろごろ転がっていた。


その脇に、かすかすになって干からびた、


茶色く変色した果物の成れの果てと思えるものが転がっていた。


5、6匹いたうちの、2匹ほどしか残っていなかった。


今まで真っ暗闇の中にいたためか、役目をなくした目を諦観したように瞑りながら、


こちらもやはり、必死なほどの勢いで、きょうだいの肉を貪っていた。





あの親ハムスターの妙な、自分のしていることがなんであれ、


相手が誰であれ、客観者、部外者に邪魔され、環境を変えられまいとする、


自分を貫こうとするような、没我的な依怙地さは、こちらの子供にはなかった。


親のように、


きょうだいの肉をわたしに盗られまいとする行動もなく、


むしろ自分から進んで兄弟の死体から離れて、わたしのほうに寄ってきた。


子供の、この環境が変わることを望んでいた期待と一致する事態を歓迎してのことだろう。


だとしたら、あの、事態を変えるわたしの存在を歓迎しない、


むしろ、告発する目つきをしてわたしを撥ね付けた、


親の心理はいったいどういうものだったのだろう、という思いが過ぎった。



あらためて親の様子を見に行くと、わたしが与えたひまわりの種や餌用ビスケットを、


子供を食べていたときと同じ、一心不乱さで食べていた。


脇に転がって啼いている子供のことも、自分が食べているものが何かも、


念頭にないように。


だとしたら、あの、憑かれたように子供を食べる姿が、


何か決意的なもの、意思的なものに見えたのは、わたしの錯誤で、


ただ飢餓感からきた、やはり動物本能的なものだったのだろうと思った。


ただ、わたしの存在を拒み通すようにケージの奥にうずくまって、


一心不乱にビスケットを食べるハムスターの硬い背中が、


子供を食べることになろうが、ビスケットを食べていようが、


わたしがいようが、いまいが、ここにいる限り、どちらも同じことなのだと、


慣れ、適応していかなければならないだけのことなのだと、


諦めきった悲愴な決意を感じさせるようなのが、


わたしの気のせいなのかは、わからなかった。





この修羅場で半ば忘れていた、残りの二匹が入れられていた、もう一つのハムスターの巣を思い出し、


おそるおそる水槽のほうへ様子を見に行った。


ぐちゃぐちゃの赤い肉塊、造詣を破壊された体、そんなものを予想しながら水槽の中をのぞきこむと、


そこには、一瞬、敷き詰められた灰色の新聞紙の乾いた海の中に、淡い色のハムスターの姿を見失った。



一瞬逃げたかと期待して、目を凝らすと、すみっこに、


小さい棒状のウンチのように転がっている2匹の死体があった。


どこも欠けていない、破損していない。


共食いはしなかった。


不思議に思って一匹の死体をもちあげてみて、ぎょっとした。



苦悶の表情で目を瞑っている顔。


わたしと父が分かれの手向けに奮発して置いていった、食べかけのチーズの欠片、


小指のつめの先ほどの大きさになったそれを、


執念さえ感じられるほどしっかりと、片手で握り締めていた。


その死にざまに自分がしたことのだいそれたことを思い知らされるようだった。


もう一匹はとくにダイイングメッセージ風のものを手にもつこともなく、


行き倒れたように、前のめりに倒れたようになってうつむけで死んでいたのでほっとした。



親も、他の子供たちも、共食いをするほど飢餓ていたのに、


どうして水槽の中に入れていた彼らだけは、食べ残しのチーズを大事そうに抱えたまま、


共食いをするのではなく死んだのだろうと不思議に思った。


ふと思い当たったのは、わたしと父は、この空っぽの、


水のない水槽に閉じ込めた二匹に、餌をやりはしても、一滴の水も与えないままだった。


命には水が必要だということを、父と私は、知らなかったのだ。


父とわたしは、命のことを知らないから。





飢えよりも2匹は、水のない水槽の中で、水に渇えて死んだのだろう。


だとしたら飢餓感を覚えるより、もっと早く、


共食いをする、食べるという本能よりもっと先に、水に渇えて死んだのだろう。


だからチーズを食べ残したまま。


チーズだからなおさら水に渇いて、死んだのだろう。


けれど唯一の生命線であるチーズを、無邪気に一生懸命手放さずに。


チーズはねずみの一番の好物だから。


小さいハムスターの、小さい手の中の、小さな歯で、小さくかじりとられて、


ちっぽけになったチーズは、からからに干からびていた。





わたしたち家族は、ハムスターの共食いという久しぶりの話題を見つけて、大騒ぎだった。


姉はあからさまに「いやあ、いやあ」といいながらきゃあきゃあはしゃいだ。


父も母もイベント的な余興のようにはしゃぎ気味だった。


このころから家族と別行動をするようになっていた兄は自室に引きこもって何の反応も起こさなかった。


わたしたちはマンションの庭に死んだ子供たちを埋めて木切れの墓標を作り手を合わせた。



そのとき生まれた子供たちも、その後に生まれた子供たちも、


栄養不良かストレスなのか、年々小さくなり、生まれたそばから死んでいき、


あるいは親兄弟に共食いされ、とうとう一匹も生き延びなかった。


そのうち彼らが共食いすることにも慣れ、


またやってる、後始末をしなけらばならないのが面倒、だけを考えるようになった。


そのとき生き残ったハムスターも、親も、みんな、結局、死に絶えた。


ガラスケージの中で鑑賞され、こちらに何も干渉せず、こちら側から干渉されない、


わたしたち家族にとって、動いて遊べる人形以外の意味を持たないまま、


檻の枠組み以上に育つことも、産み増やすこともなく、飢え、渇き、糞尿まみれになり、


共食いし合いながら、死に絶えた。



その後何度も、まるで壊れたおもちゃを買い換えるようにハムスターのつがいを買うことになるけど、


結局彼らはみんな、檻の中に限定された生命を檻の枠組み以上に飛翔させることなく死ぬ。


マンションの庭には、わたしたち家族が購い閉じ込めた檻の中から、


ついに飛翔できなかった、小動物たちの死体が、最期までその生命を封印されるように、


わたしたちの手によって、累々と土中に埋められた。





わたしたちが可愛がっていたのは、自分の思い通りになる命だったのだ。


だから、可愛がる振りをして、握りつぶし、つつきまわし、放り投げ、弄んだのだろう。


自分の手のひらの上に乗る命を、自分の手が思い通りに左右できる、


支配欲と優越感だけが満たされていた。


飼育するふりをして、殺していた。


相手にはなくて自分にはある力を感じて優越の恍惚感を感じるために。


親が、人間の本質が、そうしていたように。


だけど、彼らは確かに、わたしの中の空白を、何かで埋める存在だった。



人間が、単純な命以上の欲や思惑で強権を働かせ、分け前を溜め込むのと違い、


食欲、排泄、住環境、まっとうな基本的人権以外の何ものも必要としない、


ただ単純に生きることに必死の命を見ていると、物珍しさという他者への関心を呼びおこされ、


何かうらやましく、見ているだけで飽きない。


ただ生きるだけのことにまっすぐで、ただ生きること以上を欲する人間に目をつけられ、命を切り売りされる。


ただ生きる以上を欲する人間の欲望の杯に注がれる贖罪の血。


彼ら動物はわたしにとって、人間よりは愛しかった。


彼らの温もりは人間よりはリアルだった。



お互いの存在を否定し合い、お互いの音を消音しあう静まり返る家の中で、


家族の誰かが、微かにでも物音を立てたると心臓がつねられるように慄き、


お互いの虫食まれた神経に疼く痛みを引き起こすのに、


ハムスターが檻の中を忙しなくくるくるかさかさ動いている物音を聞くのは、


誰の命も否定しない、自分の命も否定しない、ただまっすぐに生きる命の確かさを感じさせる音で、


胎音を聞くような安心感とリアルの存在の温もりがあった。





わたしの家族の中で、戦士し斃れた死屍累々のハムスターのうえに、


何代目かのハムスターのつがいを購入したとき、


わたしはそこに、今までついぞ認めたことのないもの、ハムスターの個性のようなものを感じた。


あるいは、感じたいと思ったのかもしれない。


こちらから一方的に干渉するだけのお人形では物足りなくなり、


相互干渉する他者としてのお人形がほしくなったのかもしれない。



そのころには、親の関心は完全にこの話題から離れ、慣れ、わたしが買ってくるハムスターは、


わたしが唯一持つことのできた一人遊びの道具に等しかった。


そこで自分だけの世界を醸成できたのかもしれない。


まったく親の関心を離れ、そのために親の「こうしなければならない」のない、


わたしだけが見届けわたしだけのやり方で運営する現実、


親のやりかた感じ方考え方でものごとを進めなければならない、他者のリアルではない、


わたしだけのリアル、わたしのリアルだという。


わたしはそのとき初めてハムスターの存在に心を開いて、


自分なりに感じ考え主体的に関心を持ったのかもしれない。


親の感じ方考え方ではなく、自分なりのだから、親に反逆することになるから、


こっそりとばれないように、密かに、わたしはそのハムスターに心を開いた。





彼らは子供を産んだ。


わたしはそのとき、初めて驚嘆した。



数百円で買える命、だから、数百円分の価値しかない命、でしかなかったものが、


どこからも、何によって購うこともなく、値段のない命を産むという驚嘆、


値段のつけられない命のあることの驚嘆。


命は人間が世界に付けた価値値段を超えた以上のところから生まれてくる発見の驚嘆。


わたしは初めて親ハムスターに畏敬の念を覚えた。


親ハムスターはわたしの感動とは無縁に餌をあさっていた。


その無頓着な命の創造行為にすら感動した。



それでも親の下敷きになって死んだり、親が共食いしたり、


不十分な世話のための栄養不良で子供は次々に死んでいき、


やっと親指くらいの大きさになった子供が、2匹だけ生き残った。


日々体毛が濃くなり、大きくなっていく。


金銭に購われることなく、命はパン種のように、未来に向かって膨らんでいく。


命が尊いのは、命が「今」だけではなく、


今にはない、これから起こりうる未来の可能性を開くものだからかもしれない。



命は、前に進みはしても、後ろに戻ることはない。


それが、命が生きるということ、命が本来的に望むことなのだ。


だから、前に進もうとする命を断ち切ることは、罪なのかもしれない。


命を奪うことそれ自体が罪なのではなく、


生きようとする命の、「自由な意思」を奪うことが、罪になるのかもしれないと思った。


わたしがやっていたこと、私の家族がしていたこと、


わたしたち、人間たちがしたかったことは、いつも自由な意思の殺害、


自由のコントロールだったのだと思う。





だからこの二匹は、わたしにとって特別だった。


メスと思える、母親譲りの、茶色と白のぶちの小さいのと、


オスと思える、一回り大きい、父親譲りの薄茶色一色の大きいの。


二匹とも、今までのハムスターにない人懐こさがあり、


今まで多くのハムスターを毒牙にかけてきたわたしの手中に、


無抵抗に身をゆだねる弱々しさ、生命力のなさが、かえってわたしは不安だった。


人懐こいというより大人しく弱々しく、あるところから大きくならないようなのが気になった。


体毛も薄く線が細くガラス細工のように今にも壊れてしまいそうに繊細そうなのが心細かった。


わたしは親に食べられないように、2匹の兄妹ハムスターを、


以前共食いしたきょうだいハムスターを入れていたアルミのお菓子の空き容器にかくまった。





小学5生のとき、学校から帰ると、真っ先にハムスターのかごの前に行く。


玄関脇の、打ち捨てられた犬小屋のようにうらびれ、


さびれるままに放置されている、檻の中に閉じ込められた命を、わたしは覗き込む。


学校帰りにひきむしってきた猫じゃらしの柄の部分で、


団子虫のように丸まって眠り、


暇さえあれば眠り、わたしを否定し、わたしの相手を十分にしない横着なハムスターをつつき、


恐慌的な反応を見せるのが面白く、くつくつ笑いながらハムスターの眠りを邪魔し続ける。


彼ら動物たちは、わたしが誰にも見せることのできなかった、


わたしのわがままの相手をさせる唯一の相手だった。





ハムスターは、植物の鋭い茎につつかれるたびに、団子蟲状態から素早い反応で腹を見せて仰向けになり、


相手を引っかき噛み付けるように歯をむき出して、四肢を突っ張る攻撃態勢をとる。


しつこくつつくと、植物の茎にさっと噛み付く。


憎々しげに、ぽりぽり茎を噛み砕く。


そのうちに、ほんとうにただ茎を食事にする。


ぽりぽりしながら、また寝入ってしまう。


動きがないとつまらないので、わたしはまた突つく。



息を強く「ふっ!」と吹きかけ、それにも恐慌反応を見せるのが面白く、哀しい。


哀しみを吹き飛ばすよう、残酷になりきるよう、何度もハムスターを苛める。


ハムスターはそのうち眠るのをあきらめて、もぞもぞと起き出す。


今までのわたしの虐待を水に流すように、


無邪気な瞳をして餌をねだったりする無知が、可愛くて、哀しい。


わたしがどんなに攻撃しても、親のように、わたしを攻撃し返さない。


わたしがどんなにダメ人間でも、親のようにわたしを責めず見限らず、わたしに頼る。





わたしが親にしてしていたこと、


底なしの空白に水を注ぐように親に注ぎ込んでいたわたしの労役、わたしが親に分捕られ生じた空白、


それを、


体面は親に信頼し従い、心では親を裏切り殺していた、


親に憎みながら従っていた私以上に、裏切ることと憎しむことを知らないその命で購ってくれたのは、


彼ら動物たちだった。


その無知な愚鈍さと、生きることへの必死さ。


どんなに命を守るために攻撃しても、痛々しく必死になっても、


意味はないのだということを動物たちは知らない。


所詮、わたしの、人間の、家族の、親の手にかかれば、


動物たちの命などひとひねりなのだということを。


哀しくなる、


愛しくなる。