・・・・・・・・・・・・

ひとつも窓の無い部屋で、影たちだけに囲まれて、きみはじっと立っている

ガラス張りの世界から、きみは静かに見つめている

何者にも触れられない場所のはずが、気がつけば、もう遅い

君は、あたかも、名前も居場所も無い、幻の人間

・・

その後、何年もの間、あの不思議な女の子は、本当に現実の人間だったのだろうかとわたしはよく考えた。

「世の中」の人で、あれほどまでに鮮烈にわたしをとらえた人は、それまで誰もいなかったからだ。

しかもただ一度しか会わなかったというのに、あの女の子は、

その後のわたしの人生さえ、変えてしまったのである。

彼女は「鏡の中の女の子」になった。

そして後には、わたし自身が「キャロル」になった。

どうして ? とわたしは目でたずねた。

とまどったわたしは、何とか理由を考えようとした。

そうか、キャロルには何か秘密があるんだ。だから何も言わないんだ。

わたしは尚も考えた。

キャロルだって、こうしてわたしがキャロルに会っていることは誰にも知られてはならない秘密だと、

ちゃんとわかっているはず。

だから誰にも気づかれないように、わざとわたしの真似ばかりして、わたしを守ってくれているんだ。

それからわたしは変わった。

タンスの扉を開けて中に入り、一日中、膝を抱えて、じっとそこにうずくまっているようになった。

そうして目を閉じ、抵抗感を始め自分自身の現実での感覚を全てなくしてしまおうと、

全神経を集中させるようになった。

そしてついに、タンスの内側の闇の中で、わたしはキャロルを見つけた。

彼女は、わたし自身の中にいた。

キャロルは人に好かれる全てのことを備えていた。

それから、「キャロル」は比較的普通に振舞う。

こうしてわたしがすっかり「キャロルになって」いた間、ドナはわたし自身の中から姿を消していた。

わたしは五歳になっていた。

自分で自分の名前を言うのさえ嫌だった。

わたしはキャロルになりきっていたし、周りの人たちのことも、キャロルの出会った人として

自分なりに脚色しながら見ていたからである。

要するにわたしは、感覚や感情にひずみのある本来の自分自身とは別に、

キャロルという名のもう一人の自己を、作り上げたわけだ。

それは演技以上のものだった。いつの間にかそれこそが、わたし自身となった。

一方その過程で、わたしは本来の自分が感じる心の奥の感情を、全て拒絶しなくてはならなくなった。

それはドナとして生きることを、全て拒絶しなくてはならないということであった。

ところがそんなわたしの前に、新たな困難が立ちはだかった。

「キャロル」は、社会的には誰からも認められてはいない存在だということを思い知らされたのである。

わたしはそんな社会と闘わなければならなかった。

これらの日々に、わたしの心の表舞台に立っていたのはもっぱらキャロル一人だった。

・・

もし本当のわたし自身というものが、単にわたしの潜在意識そのものだというならば、

それはまだ完全な眠りに落ちてしまったわけではなさそうだった。

また、もし本当のわたしがわたしの意識の中にいるならば、それはまだ完全には目覚めていない、

半分夢を見ている状態にあるようだった。

人は「世の中」との相互作用の中で、「わたし」としての自覚を深めていく。

だがドナ自身は、その相互作用を知らなかった。

「世の中」と関わり合っていたのは、もっぱら"キャロル"や"ウィリー"といった仮面のキャラクターだったからだ。

また、わたしは人とコミュニケーションしたかったから、

自分の代弁者であるキャラクターを創り上げて自分の知性と精神の正常さを証明しようとしたし、

そうすることによって自分でもある程度フラストレーションから解放されていた。

そうして「世の中」と「わたしの世界」との間のコミュニケーションの問題を克服している通訳として

活躍してくれていた。

・・

キャロルとして、本当の自分自身と感情から切り離されて生きていたわたしは、

一人きりになることが怖くてたまらなくなっていたのだ。

少しでも一人になったり、テンポをゆっくりにしたりすると、

暗い影に隠れて待ち伏せをしている"本物のわたし"が、キャロルを捕まえにやってきて、

そのまま取り付いてしまうような妄想に囚われていた。

わたしは、完全にキャロルになりきっていたのだ。それはまるで、

「世の中」でのわたしが亡き者になってしまったかのようだった。

"ドナ"は幽霊。"ドナ"は消えたのだ。

ドナは、どこでもとうてい期待にそうことはできなかった。

その一方で、ドナの想像上のキャラクターたちはそれぞれに命を与えられ、

ドナの失敗していることにも、すんなり成功するようになってしまった。

キャロルは皆と話をする。だから私も、人に話しかけるようになった。

「みんなが笑えば、"キャロル"も笑う」のだから、私も笑う。

叫びも、涙も、絶望も、"キャロル"の瞳には、決して表れることが無かった。

いつも、本当は、死んでいた。

つまり名前も居場所もない幻の人間になるには、二通りの方法があるわけだ。

ひとつは、凍り付いてしまって、自分からは何もできなくなってしまう方法。

もうひとつは、何の自覚もなしに、真似によって溜め込んだレパートリーを繰り広げることで、

なんでもしてしまう方法。

このとき、もし自覚があったら、本当は何もできはしないのである。

「ここに誰かいる」 

心が真っ白になっていくようだった。素裸の心で、私は聞いた。

「ここにいるのは、わたし ?」 

「ここにいるのは、わたし。そこにいるのは、あなた ?」

「自閉症だったわたしへ」ドナ・ウィリアムズ

・・

自分の半身をどこかに残してきたという、現実以上に現実的な想像上の空虚を感じたことがあるなら

誰にとっても、三部作は、ある亡命作家の語る物語などではなく、自分自身の物語となる。

<いつかいた場所> への帰還が現実にある土地への帰還などではなく、

「第三の嘘」そのままに、想像と現実の合わせ鏡でできた迷路を辿って、

本当はいるとも思っていない、もう一人の似もつかない自分に会いに行く、

悪夢のような経験であることも、そうした読者にはわかるにちがいない。

「<いつかいた場所> への帰還をめぐって」

アゴタ・クリストフの文学は常に、社会の中心からはずれてしまった阻害された人間を描く。

胸を張って「ディアスポラ」ということはない。身をすくめるようにして異国の片隅で生きている。

いわば彼らは、本当の自分を隠すほかない、影のような人間たちである。

それ以上に、影のような人間には、殺人や逃亡のような普通の人間には大事件も、

手ごたえのない、虚の出来事のように思えてしまうからである。

母語を奪われてしまった人間には、戦争も亡命も、あるいは殺人でさえも、影絵のように見えてしまう。

幻影のように見えてしまう。

「私」は、将来に希望を持つことも無いが、といって現在に絶望するだけの強い挫折感もない。

影のような人間にとっては、絶望さえも遠くにある。

「昨日」アゴタ・クリストフ

・・

アイデンティティカードを取得するためには、まずひとつのアイデンティティ

(自己同一性)を所有する必要がある。

しかし、われわれはどうしたら、ひとつのアイデンティティを、すなわち自己(ipse) であり、

かつ同一(idem) であることを証明できるのだろうか。

そんな実在の「証拠」はどこにあるのだろうか。

「ふたりの証拠」アゴタ・クリストフ

・・・
・・

私たちは今日、素晴らしい友情を見聞しえない。私達の精神が粉々に解体してしまったからである。

人間が、その生活のやむをえない圧力のために、さまざまな断片に、

或いは、さまざまなペルソナをつける怪物に分裂してしまったときに、

どうして人間と人間の全一的な交わりを結ぶことができるか。

我々は、だから孤独であり、寂しいのである。

分裂した自我の所有者である私達が、私達と同じように分裂し崩壊の危機に瀕している友人の中に、

他ならぬ自分自身を発見するとしたら、

私達は恐らく友を軽蔑し、併せて自己自身を軽蔑するようになるだろう。

それとも、そういう私達を私達自身が憎むように、友をも憎みたい気持ちになるのであろうか。

個人は正に機械の部品のように解体され、この解体されたバラバラの部品を

一個の自己自身にまとめあげることができないのである。

彼は完全に魂を失ったのであり、個性を喪失したのである。

友情を結ぶためには自己を修復しなければならぬのである。

自己のない友情というものを我々はどうして持ちえようか。

解体された部品のごとき自己の断片が、そのような断片に相応ずるもうひとつの部品に遭遇したとき、近

代人は正に最も卑小な友情を発揮するのである。

それは孤高の魂と魂の友情ではない。それは精神の断片と断片の友情である。

精神が自己の断片性を意識する限り、それは確かに孤高の代わりに文字通り孤独なのである。

自己自身に対して孤独なのであり、友に対して孤独なのである。

友を第二の自己だというのは正しい。

しかしこれが正しいのは「第一の自己」について完全な認識があった上でのことである。

第一の自己について知らず、第二の自己を知り且つ愛するなどということは、

そもそも矛盾の極みではないのか。

透明な自己認識を持ちながら、なお私達が孤独を忘れるほどに、私達自身について歓喜しえるほどに、

私達は誇るに足る価値を私達の内に蔵しているであろうか。

透明な自己認識は、自己の限界をまず教える。自己が、やがて死に行くものであることを、

刻々、死に接近しつつものであることを教える、

自己が魂を喪失した哀れな断片の寄せ集まりであることを教える。

そしてこれらのことを教えられることは、孤独と寂寞を知ることに他ならぬ。

透明な自己認識によって友を選び、友情を交えることだ。


一刻一刻と狭い庭を夕暗がかぶさってきます。す

るとどうなるでしょうか。

何もかも、その形の鮮明さを段々失って暮色一色に塗りつぶされていきます。

夕方で、もはや樹の形も一枚一枚の葉の形もはっきり見えない。

しかし黒々とした夕方の一本の樹が、私なら私の感受性を全部圧倒してしまうのです。

私はもはやその樹の与える印象や感覚から逃れる術を知らないのです。

いや、逃れる術どころか、私自身、その樹と一緒に、夕方の乳色の中へ埋没してしまうのです。

私は樹の形をはっきり理性で見極めることもできないのに、樹そのものが私を圧倒し去ってしまうのです。

私は樹の与える感覚の中に包み込まれてしまい、私と樹は、夕暗の一色の中に全くくるまれてしまうのです。

私は、夕方が一切のものを「色」で塗りつぶすということをいいたかったのです。

昼間は私達は形を見ます。物の形をはっきりと見るということは理性の働きなのです。

「判るね。―」「うん。判る。」

たったこれだけの幼稚な言葉しか口に出せないで、あとは膝小僧を抱えたまま、

夕方の空をふたりで黙って見つめて、何分間もじっとしていたあの友情の世界、

私は遠く過ぎ去ったその頃を思い出さずにはいられないのです。

友情とは昼間の世界でもなく、かといって、一色に塗り潰された「夜」の色でもない。

形と色とふたつのものが、溶け合って一だから、ある時は形の点から、別の時は、

色彩の点から、相手を眺め、相手を愛さずにはいられない世界とでもいいましょうか。

友情とは、そこで、昼間の明るい眼差しと、夕暗の中の感覚的な色彩の世界と、

このふたつのものが、独特のスタイルで融合した世界のことなのです。

静かに留まって――― なぜなら、そうやって黙りこくったまま夕空を眺めている、

私と彼のうちにあるものは、知性や理性の活動ではないからです。

「友情論」