チョコレート Ⅲ【内上】チョコレートの風味 カカオ分・乳…

 

性質

板チョコと溶けたチョコレート

固形チョコレートは油分に粉乳や砂糖などの粉末が分散している状態であり、水に不溶である。固形チョコレートを水分と乳化させた物は、ガナッシュ、生チョコレートと呼ばれる。

固形チョコレートは一般的に、熱に弱く溶けやすい。過度に冷却したもの、融解再結晶化したもの、長期間保存したものなどには白い色がつくことがある。この白い部分をブルームといい、このような現象をブルーミング現象という。ブルームが生じたものを食べても問題はないが、風味や味は落ちる。ファットブルーム(fat bloom)は、チョコレートの油脂成分のうち融点の低い部分が融解して表面に浮出し、再結晶化したものである。シュガーブルーム(sugar bloom)は、冷却時などにチョコレートの表面に水分が付着した際チョコレートの砂糖が水分に溶解し、その水分が蒸発した時に砂糖が析出したものである。

保存は、15℃ - 17℃、湿度50%以下が好ましく、香りを吸収するのを防ぐために他の食べ物から遠ざけたりラップに包むなどする。

質量あたりの熱量が大きく携行が容易であることから、固形チョコレートは軍隊レーションに同封されたり(アメリカ軍用チョコレートなど)、登山などの際の非常食として携帯されたりする。カロリーの面だけでなく、非常の際に甘味やテオブロミンが心身の安らぎをもたらすという意味合いも大きい。テオブロミンの含有量はカカオ分99%のチョコレート100gあたり1100mg[9]

チョコレートを食べるとニキビができるという迷信があり、経験的にニキビができやすいとする者も多いが、科学的根拠は現在のところない。脂肪分を40%と多く含むこと[10]カフェインチラミン血管性浮腫誘因物質でアミンの一種)などを含む刺激物であるからということに由来する安易な発想である可能性がある。一方で、チラミンにより血管の収縮が起こり、効果が切れると急激に血管が拡張するため、食べ過ぎると粘膜が腫れて鼻血が出るという話が存在する[11]。同様のメカニズムで収縮のあとの急激な脳血管の拡張により片頭痛が起こることがある[12]。また、テオブロミンと位置異性体の関係にあるテオフィリンを主成分とした医療用医薬品キサンチン気管支拡張薬等)の添付文書には、副作用として「鼻出血」と記載されている[13]。ただし、チョコレートアレルギーによる鼻血はあり得る。カフェインの含有量はカカオ分99%のチョコレート100gあたり120mg[9]。 チョコレートに加えられることが多い食品には食物アレルギーの表示義務があるミルクやピーナッツがあり、これらが原因になっている可能性が考えられる(カカオにはアレルギー表示の義務も推奨も無い)。

イヌネコ鳥類などヒト以外のほとんどの動物はチョコレートを食べると中毒を起こす。これは、チョコレートやココアなどに含まれるテオブロミンを代謝できないことが原因で、死に至ることもある。

歴史

チョコレートを飲むミシュテカの王たち

チョコレートは18世紀には貴族の間のおしゃれな飲み物となっていた。「朝のチョコレート」ヴェネツィアの画家ピエトロ・ロンギの絵画。.1775年–1780年

チョコレートの歴史」も参照

紀元前2000年ごろから主に中央アメリカにおいてカカオの栽培が始められ、アメリカ先住民族の間で嗜好品や薬用として珍重され[14]、貨幣として使用する地方もあった。飲み方は、コーンミールトウガラシを入れることが普通であった。

カカオは1492年クリストファー・コロンブスによってヨーロッパへと紹介され、やがてアステカ帝国などの中央アメリカ諸王国を滅ぼしてこの地方を支配したスペイン人にも好まれるようになった。そして彼らを通じ、徐々にヨーロッパ大陸にも浸透していった。この過程で、スペイン人はチョコレートの苦味を打ち消すためにトウガラシの代わりに砂糖を入れるようになり、このやり方が他のヨーロッパの国々に伝わる際も引き継がれた。当初、チョコレートはとして扱われたが、砂糖を入れることによって徐々に嗜好品へと姿を変えていった。17世紀中ごろにはイギリスに到達し、そのころ隆盛したコーヒー・ハウスにおいてもさかんに供された[15]。この時期には、チョコレートはヨーロッパの王侯貴族や富裕層にとって贅沢な飲み物として受け入れられていた。

19世紀にはいるまではチョコレートは飲み物であったが、19世紀に技術革新が次々と起こって現在のチョコレートの形が成立した。まず、1828年にはオランダのコンラッド・ヨハネス・バン・ホーテンがココアパウダーとココアバターを分離する製法を確立し、さらにカカオにアルカリ処理を行うことで苦味を和らげる方法も考案した。1847年にイギリスのジョセフ・フライが固形チョコレートを発明し、1875年にはスイス薬剤師であるアンリ・ネスレショコラティエダニエル・ペーターミルクチョコレートを開発した[16]。さらに1879年にはスイスのロドルフ・リンツによりコンチェが発明され、ざらざらしていた固形チョコレートが滑らかな口当たりのものへと変化した。上記の発明は「チョコレートの4大技術革命」とも呼ばれ[17][18]、これらの発明によって固形チョコレートはココアに代わってカカオの利用法のメインとなっていった。

こうした発明によって19世紀後半にはチョコレートは家族的な小企業や職人による生産から大企業による工場での大量生産へと移行していった。スイスのネスレ社、リンツ社、カイエ社やイギリスのキャドバリー社、ロウントリー社、アメリカのハーシー社などの大チョコレート企業が誕生し、安定して大量生産された規格品チョコレートの供給によりチョコレートの価格は下がり、一般市民が気軽に楽しめる菓子となっていった。一方でベルギーやフランスなどを中心にショコラティエによる高級チョコレート店も多数存在している。大チョコレート企業は1960年代以降買収を繰り返しながら巨大化していく一方、高級チョコレート店の職人によるチョコレートにも大きな需要があり、この二つが日常一般市民の食しているチョコレート生産のほとんどを占めている[19]

日本が、チョコレートという食べ物を知ったのは、幕末の頃である。1858年にヨーロッパへ派遣された文久遣欧使節がチョコレートの工場を見学している。また、記録は残っていないが、1613年慶長遣欧使節がヨーロッパに赴いた時期は、チョコレートを飲む習慣がヨーロッパの上流階層に広がっていた時期と重なるため、これに参加していた支倉常長たちが、初めてチョコレートを口にした日本人ではないかという説もある[20][21]

日本で初めてチョコレートを加工して販売したのは凮月堂の米津松造だといわれている。 彼は1878(明治11)年12月24日の「かなよみ新聞」にチョコレートの広告を掲載した。この頃、チョコレートは猪口令糖、貯古齢糖、知古辣、千代古令糖などと書き、カカオは甘豆餅と表記された。

生産と消費