・アジアへの新航路をつくる先駆けとなったのが、ポルトガルスペインといった新興国であった。ポルトガルのエンリケ航海王子は、アゾレス諸島ヴェルデ岬を発見し、その後ジョアン2世が航海者バルトロメウ=ディアスを派遣し、この王の治世に、喜望峰の発見や、トルデシリャス条約の締結が行われた。 

1497年、マヌエル1世の命でヴァスコ=ダ=ガマが新航路をもとめてリスボンを出港し、喜望峰をまわってアフリカ東岸のマリンディでイスラーム教徒の水先案内人の協力の下、1498年にカリカットに到着した。これにより、インド航路が開拓され、オスマン帝国を経由しない交易路が成立した。インドと直接交易することにより、リスボンの香辛料の値段はヴェネツィアの半額となり、アジア交易は地中海交易路からインド航路に移っていった。 

・第2次インド航路開拓はカブラルによって行われた。1509年にディヴ沖海戦アルメイダ率いるポルトガル艦隊がマムルーク朝エジプトとヴェネツィアを撃破し、その後ポルトガルのインド総督アルブケルケが、1510年ゴア、1511年マラッカ、1515年ホルムズなど、交易の重要拠点を占領した。また、1517年にコロンボ、1557年にマカオを支配し、1543年には日本の種子島に漂着している。 
 

アメリカ大陸・太平洋航路への到達


・フィレンツェの地理学者トスカネリが唱えた地球球体説は、航海者コロンブスに大きな影響を与えた。コロンブスはスペイン女王イサベル(イザベラ)の援助を受け、サンタ=マリア号を旗艦とした船団を組織し、スペイン西南のパロスを出港、1492年に西インド諸島サンサルバドルに上陸し、新大陸に到達した。 

・新大陸への到達により、スペインはローマ教皇アレクサンデル6世に要請し、ヴェルデ岬西方560kmの子午線より西側をスペイン領とする教書を得たが、ポルトガルが反対したため、教皇子午線を150km西方へ移動させ、1494トルデシリャス条約をむすんだ。また、1529年にはスペインがモルッカ諸島をポルトガルに売却し、サラゴサ条約が結ばれ、太平洋の領土が確定した。 

・コロンブスの航海と同時期、イギリス王ヘンリ7世の援助を受けた

カボット父子の北米沿岸探検や、ポルトガル提督カブラルによるブラジル発見、フィレンツェ出身のアメリゴ=ヴェスプッチによる新大陸調査、スペインのバルボアによるパナマ地峡横断など、さまざまな探検がおこなわれた。なお、新大陸はその確認者アメリゴ=ヴェスプッチにちなみ、1507年ドイツの地理学者ヴァルトゼーミュラーによりアメリカと名付けられた。 

・ポルトガル人の航海者マゼランは、ポルトガルからスペインに移り、カルロス1世の援助を受け、世界周航の旅に出た。南アメリカ南端のマゼラン海峡を越え、太平洋、その後1521年東南アジアに到達し、皇太子フェリペにちなんでフィリピンと命名した。1565年に総督レガスピが領有を宣言し、1898年までスペイン領となった。マゼランはその後マクタン島の王ラプラプに殺害されたが、その部下が1522年にパロスに帰着し、地球球体説が実証された。 
 

アメリカ大陸の文明と征服活動


・南北アメリカ大陸には、古代以来独自の文明が発達していた。メキシコ高原から中央アメリカ一帯の文明をメソアメリカ文明といい、テオティワカン文明(紀元前2〜6世紀)、マヤ文明(6〜14世紀)、アステカ文明(12世紀頃〜16世紀)などが栄えていた。また、南北アンデスにはアンデス文明が栄え、キープという十進法が用いられていたインカ帝国という巨大帝国が存在していた。 

・コロンブスをはじめとするコンキスタドールと呼ばれる征服者たちは、キリスト教布教の名のもとに侵略を行った。

コンキスタドールのコルテスは、1519年にユカタン半島に上陸し、1521年に都テノチティトラン占領後アステカ王国を滅ぼし、メキシコを征服した。

また、ピサロはカルロス1世の援助を受け1533年にインカ帝国を滅ぼし、ペルーを征服した。