世界恐慌 Ⅱ【初序】投資信託による大衆化 1929年10月…
証券パニックから世界恐慌へ
1930年9月、国際連盟の金委員会による報告書が公表された。
1930年10月、ブラジルでカフェ・コン・レイテに対する暴動とクーデターが起こり、ヴァルガス時代が到来した。
1930年12月、フランス植民地金融社Société financière française et coloniale (SFFC) が倒産の危機に瀕した。政府、インドシナ銀行、ラザール・フレール、それにベルギー総合会社が育てたユニオン・パリジェンヌ(フランス語版、英語版)[14]、そしてオリエンタル・バンクをセイロンで苦しめた200家族のウォルムズ銀行(フランス語版、ドイツ語版)が救済融資に動いた[15][16]。 フランス植民地金融社は1920年にオクタヴ・オンベルグ(1876-1941)[17]とラザール・フレールがつくった[18]。 これの子会社には太平洋戦争勃発2週間ほど前、デュポン、BPERE で2016年を騒がせているエドモン・ロチルド、そしてヴァレリー・ジスカール・デスタンの父親エドモンが参加した。1949年末にフランス植民地金融社はSociété financière pour la France et les pays d'Outre-Mer (SOFFO) と名を変えて、アフリカのフラン基軸通貨圏におけるインドシナ銀行系列の基金として活動した[15][19]。
1931年1月、ボリビアがデフォルトした。そして他の南米諸国も次々と債務不履行に陥った。
同年5月11日、オーストリアの大銀行クレジットアンシュタルト[20]が破綻した。この銀行は1855年にロスチャイルド男爵により設立された。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖したという。東欧諸国の輸出が激減し経常収支が赤字となり、旧オーストリア帝国領への融資が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。3月の独墺関税同盟の暴露に対するフランスの経済制裁により、オーストリア経済は弱体化していた。
クレジットアンシュタルトの破綻を契機として、5月にドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行(「ダルムシュテッター・ウント・ナティオナール」)が倒産し、7月13日にダナート銀行が閉鎖すると、大統領令でドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖された。ドイツでは金融危機が起こり、結果多くの企業が倒産し、影響はドイツ国内にとどまらず東欧諸国、世界に及んだ。金本位制の元で、経済危機はそのまま経済の根幹を受け持つ正貨(金)の流出につながる。7月のドイツからの流出は10億マルク、イギリスからの流出は3000万ポンドだった。さらに数千万ポンドを失ったイングランド銀行は1931年9月11日金本位制を停止し、第一次世界大戦後の復興でやっと金本位制に復帰したばかりの各国に衝撃を与えた。イギリスは自国産業保護のため輸入関税を引き上げ、チープマネー政策を採用した。ポンド相場は$4.86から$3.49に引き下げられた。ブロック経済政策は世界中に波及し、第二次世界大戦の素地を作った。
一般的には米国の株価暴落がそのまま世界恐慌につながったとされている。しかし、ベン・バーナンキをはじめとする経済学者は異なる見解を示している[21]。以下枠内が内容であり、その事実認識は国際連盟からの報告に依拠している。
1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。(中略)暴落の後、米国には金が流入していたが、FRBはこれを不胎化させ、国内のマネーサプライの増大とは結び付けようとしなかった。これにより米国では金が流入しているにも関わらずマネーサプライが減少し続けた。その為金本位制をとる各国は金の流出を抑えるために金利を引き上げざるを得なかった。こうした国々はマネーサプライを増やすことができずに次々と不況に陥った。特に金本位制を取っていたドイツやオーストリアや東欧諸国は十分な金準備を持たず、また第一次世界大戦とその後のインフレにより金融システムが極めて脆弱な状態であった。その為、米国やフランスへの金流出により金準備が底をついてしまい、金融危機が発生した。
当時の米国大統領、ハーバート・フーヴァーの「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は、一定程度真実であったが時遅く救いにはならなかった[22]。
各国の状況
世界恐慌時の各国の一人あたり国民所得[23]
未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程・速度については各国なりの事情が影響した。植民地を持っている国(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ソビエト連邦や日本、ドイツといった全体主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が宗主国諸国との軋轢を生んだ。
恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局外為相場の国際的調整は第二次世界大戦後のIMF設立を巡る議論の中に送り込まれることとなった[24]。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた軍縮と国際平和協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。この中で経済政策で対応し、かつ満州を経済圏として持った日本のGDPは1934年に恐慌前の水準に戻り、ニューディール政策を採ったアメリカは1936年には恐慌前の水準に回復したものの37年不況により再び34年の水準まで逆戻りし、1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった[25]。