世界恐慌の原因 Ⅰ【冒頭】目次 一般論による説明
異説
オーストリア学派
世界恐慌は1920年代の連邦準備制度の金融政策の避けられない結果だったとオーストリア経済学派は主張している。彼らの意見では、この中央銀行の政策は持続不可能な信用によるにわか景気をもたらす「安直な信用政策」であった。オーストリア学派の考えでは、この時期のマネーサプライのインフレが資産価値(有価証券)と資本財の両者において持続不可能なバブルを引き起こしたという。連邦準備制度が1928年に遅れて金融引き締めを行うまでには、深刻な経済後退を避けるには手遅れになっていた[12]。1929年の大暴落の後の政府の介入によって市場の調節が遅れ、完全な回復がより困難になる道が開かれたとオーストリア学派は主張している[13]。
世界恐慌の主原因に関するオーストリア学派の説明を受け入れることはマネタリストの説明の否定を受け入れることと両立する。『アメリカの世界恐慌』(1963年)の著者でオーストリア経済学派のマリー・ロスバードはマネタリストの説明を否定している。中央銀行はマネーサプライを十分に増やすのに失敗したのだというミルトン・フリードマンの主張をロスバードは批判し、代わりに、1932年に連邦準備制度が11億ドルの米国債を買い入れて所有国債量を18億ドルとした際、連邦準備制度はインフレ政策を追求していたのだと主張する。中央銀行の政策に反してデフレが深刻化したのは「マネーサプライ総量が30億ドルに達したのに(民間)銀行の準備金の総量は2億1200万ドルに留まった」ためであり、これはアメリカの大衆が銀行組織に不信感を抱いてさらに多くの預金を銀行から引き出し退蔵したという、中央銀行の制御を大きく超える理由によるものだと彼は主張する。ロスバードの主張によると、銀行に対する取付のおそれの為に地銀は準備金の貸し出しにさらに消極的になり、このために連邦準備制度がインフレを起こせなかったという[14]ことになる。
ロスバードがマネタリストの説明を批判したことに対して、もう一人の卓越したオーストリア経済学派のメンバーフリードリヒ・ハイエクは反対した。ハイエクは、自身が1930年に中央銀行のデフレ政策に反対しなかったことが誤っていたと1975年に認め、曖昧な態度をとったことに関して釈明した: 「当時私は、幾分短い期間におけるデフレの過程は、(経済が機能することと両立不可能だと私が考えていたところの)賃金の硬直性を破壊するものだと考えていた[15]。」 1978年には彼は「一たび急落が起こると連邦準備制度は愚かなデフレ政策を追求するようになるということに関してミルトン・フリードマンに賛成する」と述べてマネタリストの見解に賛成し、デフレに反対してインフレに賛成することを明らかにした[16]。この流れを汲んで、マネーサプライの強い引き締めを許すような金融政策とハイエクの景気循環理論は矛盾すると経済学者のローレンス・H・ホワイトが主張している。
マルクス主義
「資本主義#マルクス学派」も参照
マルクス主義者は概して、資本主義モデルに固有の不安定性が世界恐慌を引き起こしたのだと主張する[17]。
原因に関する個々の理論
負債デフレ
世界恐慌初期の取り付け騒ぎ時にニューヨークのアメリカ連合銀行に集まった群衆
詳細は「負債デフレ」を参照
アメリカ合衆国のGDPに対する負債の割合は世界恐慌の時までには300%に達した。この割合は20世紀終わりまで越えられることはなかった[18]。
ジェローム(1934年)は戦間期の産業の大発展を可能にした財政状態に関する原典不明の引用をしている:
恐らく未だかつてこの国でこれほどの量の国債がこれほど低い利率、これほど長い期間にわたって出されたことはなかった[19]。
さらに、スタンダード・スタティスティックス社による60度の国債の指数が1923年の4.98%から4.47%になった際には新たな資本発行の量が1922年から1929年の年平均から7.7%増加したとジェロームは述べている。
1920年代には特にフロリダ州で不動産・住宅のバブルが起こったが1925年に破裂した。1920年代の住宅建設は人口増加の勢いを25%上回っていたとアルヴィン・ハンセンが述べている[20]。参照:1920年代フロリダの土地バブル(英語版)
アーヴィング・フィッシャーは、世界恐慌を引き起こした主原因は負債過多とデフレだと主張した。フィッシャーは信用の低下を負債過多と結びつけ、負債過多が投機熱と資産バブルを刺激したのだとしている[21]。負債・デフレという状況下で相互作用し、バブルが起こり崩壊する仕組みを作りだした九つの要因を彼は概説している。それら先行する出来事の連鎖は以下:
- 負債の流動化と占有権の売却
- 銀行ローンとしてのマネーサプライの緊縮が清算される
- 資産価格水準の低下
- 全体としての商業価値の深刻な低下、突然の破産
- 利益の低下
- 商業・雇用における生産量の低下
- 信用の減少とペシミズム
- お金の死蔵
- 名目金利の低下と利率にあわせたデフレの拡大[21]
世界恐慌に先行する1929年の急落の際、証拠金規定額は10%にすぎなかった[22]。つまり、株式仲売業者は投資社が1ドル預けるごとに9ドル貸し付けた。市場が急落した際、業者はこうしたローンを回収しようとしたが、それは返ってくることはなかった。債務者が債務不履行を起こし、預金者が一斉に預金を回収しようとすることで取り付け騒ぎが起こり、銀行が倒産し始めた。こうした騒ぎを食い止めるための政府の保証や連邦準備制度による銀行の規制は効果がないか使われなかった。銀行の破産により数十億ドルの資産が失われた[23]。
物価と収入が20-50%減少しているのに負債は同価格であるため、未払いの負債が重くのしかかった。1929年の混乱の後、1930年最初の10か月間に744のアメリカ合衆国の銀行が破産した(1930年代には全部で9000ほどの銀行が破産した)。1933年4月までに、3月の銀行の法定休日の後に無資格の預金や破産した銀行の70億ドルの預金が凍結された[24]。
絶望した銀行家が、借り手が返すお金・時間を持てないほどの勢いで貸付金の回収を行うとともに銀行の倒産が連鎖的に起こった。予測利益が低いものであったため、資本投資や建築が停滞した。不良債権や将来の見通しの悪化に直面し、生きのこった銀行は貸付により消極的になった[23]。銀行は基本準備金を増加させるとともに貸し付けを減らし、これによってデフレ圧を強めた。悪しき循環が進み、下降スパイラルが増加した。
負債の流動化は自身が引き起こした物価の下降を食い止められなかった。自身の資産を流動させようという大衆の衝動的行動の大局的効果によってデフレが加速し、資産量減衰の価値に影響した。自身の負債を減らそうとする個々人の努力こそが事実上それを増大させていた。逆説的だが、負債者が払えば払うほど、彼らは負債を多く抱えることになった[21]。この自己悪化の過程が1930年の不景気を1933年の世界恐慌へ変えた。
連邦準備銀行の総裁ベン・バーナンキのようなマクロ経済学者がフィッシャーに由来する世界恐慌の負債デフレ説を復活させた。
負債以外の原因によるデフレ
負債デフレに加えて、19世紀最後の四半世紀の大デフレ以降に起こった生産性デフレの構成要素が存在した[27] 。第一次世界大戦によって起こったインフレを強める補正もおそらく継続していた。
48州で見つかった中でも最大の油田、東テキサス油田が操業して、1930年代には原油価格が歴代最安値に達していた。原油市場における過剰供給のため価格は10セント/バレルにまで低下していた[28]。参照: 世界恐慌の原因#生産に対する衝撃