謎だらけの日本の誕生 その3
謎だらけの日本の誕生 その3
266年に邪馬台国が晋(西晋)に使いを出したという記述を最後に、約150年間中国の歴史書から倭国が姿を消します。前回は、その空白時代以前の日本について書きました。
そして、この約150年の空白時代に以下のことがあったと推測します。
まず空白時代には、316年に晋(西晋)が匈奴などの北方民族に滅ぼされ、漢民族が南部に逃げて中国全体が大混乱になったため、倭国に関わっている余裕がなかったからです。
ところが、大混乱に陥ったのは中国だけでなく、楽浪郡などを通じて中国の影響下にあった朝鮮半島も大混乱になったはずです。
多分、混乱の中で朝鮮半島を捨てて日本に大挙して流れてきた一団があったのでしょう。それまでも朝鮮半島から日本(九州北部)に移り住んだ人々は多かったはずですが、今度は政権の中枢にいたかなり有力な人々が、勢力争いに負けたなどの理由で流れてきたのです。
そう思う一番の理由は、420年に中国南部を支配しただけの宋が建国(960年から1279年まで続いた宋とは別の国です)されたのですが、その翌年に「倭王讃」が待っていたかのように朝貢し、しかも倭王として認めてもらうよう働き掛け(と言うより懇願)しているのです
そして、「倭王讃」のあと「珍・済・興・武」の「倭の五王」が約一世紀にわたり朝貢し続け、それぞれの王が倭王として認めてもらうように懇願しているのです。つまり征服した日本を支配する「お墨付き」が必要だったのです。
讃は応神・仁徳・履中の各天皇のうちの誰か、珍は仁徳・反正天皇のどちらか、済は充恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇とされており、みんな天皇なのです。
これらの天皇で一番即位が早いのが15代・応神(おうじん)天皇なのですが、この応神天皇は実在しない可能性があり、多分、次の16代・仁徳(にんとく)天皇が征服王朝である「ヤマト朝廷」の祖なのです。
それまでの天皇は、実在する最初の天皇と言われる第10代・崇神(すじん)天皇から何代は、多分ヤマト地方の豪族だったのだと思います。三輪王朝とも言います。
注目すべきは14代・仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后ですが、どちらも実在の可能性がありません。しかし「日本書記」では夫の仲哀天皇が急死した後、お腹に子供(後の応神天皇)がいるまま朝鮮半島へ出兵し新羅を攻めて屈服させ、高句麗・百済も朝貢させた、という記述があります。 これは天皇の系図を無理に繋ぐためのフィクションです。
後年、藤原不比等が実質編纂した「日本書記」の記述だけでは、この征服王朝が朝鮮半島のどこから来たかは不明なのですが、私は新羅だと思っています。(藤原氏は百済の可能性が強い。5月17日付け「書き換えられた歴史・藤原氏の正体 その2」を御参照下さい。)
さらにご丁寧に武内宿禰(すくね)なる家来も出てきます。宿禰はヤマト朝廷を支える中央豪族の平群・紀・葛城・蘇我各氏すべての祖先だとされていますが、もちろんそんなバカなことはなく、宿禰も実在しません。
ここで、天皇家を中心に外来人の豪族が支える征服王朝の「ヤマト朝廷」が出来あがったのです。そして古墳時代が始まります。
邪馬台国は少なくとも266年までは九州北部で存続していました。
そして倭王讃が宋に朝貢するのが421年ですので、ヤマト朝廷の成立時期には100年以上の幅があることになります。逆い言えば、100年以上かけて比較的ゆっくりと征服王朝が成立して行ったのでしょう。
纏向(まきむく)遺跡や箸墓(はしはか)古墳は、この成立過程の中でヤマト地方につくられたもので、邪馬台国とは関係がありません。多分これらの時代測定が50年ほど古すぎるので、誤解が生じるのだと思います。
しかし、ヤマト朝廷の天皇家も一旦途切れたようで、26代・継体天皇が越前から即位します。応神天皇の血を引くと言われていますが、多分全くの他人でしょう。しかし天皇家を支えた豪族は変わらず、王朝の交代と言うほどではありません。
そして間もなく蘇我氏が実質天皇家を乗っ取り、「乙巳(いっし)の変」を経て藤原氏が実質天皇家を乗っ取り、現在に至っているのです。
以上が、教科書に決して載らないヤマト朝廷=征服王朝説です、もちろん私の個人的推測が中心なのですが、
平成23年6月17日
266年に邪馬台国が晋(西晋)に使いを出したという記述を最後に、約150年間中国の歴史書から倭国が姿を消します。前回は、その空白時代以前の日本について書きました。
そして、この約150年の空白時代に以下のことがあったと推測します。
まず空白時代には、316年に晋(西晋)が匈奴などの北方民族に滅ぼされ、漢民族が南部に逃げて中国全体が大混乱になったため、倭国に関わっている余裕がなかったからです。
ところが、大混乱に陥ったのは中国だけでなく、楽浪郡などを通じて中国の影響下にあった朝鮮半島も大混乱になったはずです。
多分、混乱の中で朝鮮半島を捨てて日本に大挙して流れてきた一団があったのでしょう。それまでも朝鮮半島から日本(九州北部)に移り住んだ人々は多かったはずですが、今度は政権の中枢にいたかなり有力な人々が、勢力争いに負けたなどの理由で流れてきたのです。
そう思う一番の理由は、420年に中国南部を支配しただけの宋が建国(960年から1279年まで続いた宋とは別の国です)されたのですが、その翌年に「倭王讃」が待っていたかのように朝貢し、しかも倭王として認めてもらうよう働き掛け(と言うより懇願)しているのです
そして、「倭王讃」のあと「珍・済・興・武」の「倭の五王」が約一世紀にわたり朝貢し続け、それぞれの王が倭王として認めてもらうように懇願しているのです。つまり征服した日本を支配する「お墨付き」が必要だったのです。
讃は応神・仁徳・履中の各天皇のうちの誰か、珍は仁徳・反正天皇のどちらか、済は充恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇とされており、みんな天皇なのです。
これらの天皇で一番即位が早いのが15代・応神(おうじん)天皇なのですが、この応神天皇は実在しない可能性があり、多分、次の16代・仁徳(にんとく)天皇が征服王朝である「ヤマト朝廷」の祖なのです。
それまでの天皇は、実在する最初の天皇と言われる第10代・崇神(すじん)天皇から何代は、多分ヤマト地方の豪族だったのだと思います。三輪王朝とも言います。
注目すべきは14代・仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后ですが、どちらも実在の可能性がありません。しかし「日本書記」では夫の仲哀天皇が急死した後、お腹に子供(後の応神天皇)がいるまま朝鮮半島へ出兵し新羅を攻めて屈服させ、高句麗・百済も朝貢させた、という記述があります。 これは天皇の系図を無理に繋ぐためのフィクションです。
後年、藤原不比等が実質編纂した「日本書記」の記述だけでは、この征服王朝が朝鮮半島のどこから来たかは不明なのですが、私は新羅だと思っています。(藤原氏は百済の可能性が強い。5月17日付け「書き換えられた歴史・藤原氏の正体 その2」を御参照下さい。)
さらにご丁寧に武内宿禰(すくね)なる家来も出てきます。宿禰はヤマト朝廷を支える中央豪族の平群・紀・葛城・蘇我各氏すべての祖先だとされていますが、もちろんそんなバカなことはなく、宿禰も実在しません。
ここで、天皇家を中心に外来人の豪族が支える征服王朝の「ヤマト朝廷」が出来あがったのです。そして古墳時代が始まります。
邪馬台国は少なくとも266年までは九州北部で存続していました。
そして倭王讃が宋に朝貢するのが421年ですので、ヤマト朝廷の成立時期には100年以上の幅があることになります。逆い言えば、100年以上かけて比較的ゆっくりと征服王朝が成立して行ったのでしょう。
纏向(まきむく)遺跡や箸墓(はしはか)古墳は、この成立過程の中でヤマト地方につくられたもので、邪馬台国とは関係がありません。多分これらの時代測定が50年ほど古すぎるので、誤解が生じるのだと思います。
しかし、ヤマト朝廷の天皇家も一旦途切れたようで、26代・継体天皇が越前から即位します。応神天皇の血を引くと言われていますが、多分全くの他人でしょう。しかし天皇家を支えた豪族は変わらず、王朝の交代と言うほどではありません。
そして間もなく蘇我氏が実質天皇家を乗っ取り、「乙巳(いっし)の変」を経て藤原氏が実質天皇家を乗っ取り、現在に至っているのです。
以上が、教科書に決して載らないヤマト朝廷=征服王朝説です、もちろん私の個人的推測が中心なのですが、
平成23年6月17日