貨幣史・世界史 Ⅱ【初】貨幣の使い分け 貨幣と地 

 

貨幣の発行

貨幣発行益は、古くから政府や造幣者に注目されてきた。発行した貨幣を用いて財や労働を調達できるほか、貨幣の普及により税の徴収が楽になるという利点がある。また、地金の値段よりも額面が高い貨幣を作れば、差額によってさらに利益は大きい。多くの国家で大量の貨幣が発行され、たとえばペルシアのアケメネス朝ローマ帝国では兵士への支払いに硬貨が多用された[15]。貨幣発行益を得るための造幣は、時として貨幣や政府への信用に影響する。たとえば日本の朝廷が発行した皇朝十二銭は、改鋳のたびに目方と質が低下した新貨が出たため、信用の低下につながった[16]

貨幣を発行する造幣権は基本的に政府や領主に管理され、無断で作る私鋳は厳しく取り締まられた。しかし漢の劉邦は、との戦争時に民間の造幣を許可し、半両銭が普及する後押しとなった。許可の理由として、小額貨幣の推進、算賦という銭を納める人頭税の推進、民間造幣業者の大地主や任侠を味方に引き入れるためなどの説がある[17]。緊急時においては短期間で地域通貨が発行され、たとえば泉州での飢饉の際の私鋳銭、銅不足によって作られたアーマダバードの鉄貨、世界恐慌が起きたあとのワシントン州の木片などがある[18]1685年フランス領カナダでは、銀貨不足のためにトランプを切って作ったカルタ貨幣英語版)が通用し、これをアメリカ大陸初の紙幣とする説もある[19]

金属貨幣の発行には大量の金属を必要とし、鉱山での過酷な採掘も伝えられている。アテナイのラウレイオン銀山は奴隷の労働としてもっとも過酷と言われ、ペルー副王領ポトシ銀山では、インカ時代の賦役をもとにしたミタ制によって先住民が酷使され、多数が命を落とした[20]

両替商

含有率や重量がさまざまな貨幣が流通する地域では、両替商の存在が重要とされた。古代ギリシアのポリスにおけるトラペジーテース、中国の宋代の兌房、中世イスラーム世界のサッラーフ、日本の江戸時代の本両替と銭両替などがある。都市には両替市場が設けられたり、大規模な定期市である年市には両替商が滞在した。ヨーロッパの両替商の中には、現在の銀行にあたる業績を行う者も現れた。中世ヨーロッパの両替商が仕事に用いたバンコという台は、銀行を表すバンクの語源ともなった。

貨幣史と学説

グレシャムの法則や、貨幣数量説などの貨幣に関する説は限定的であるか、史実に当てはまらない場合がある。グレシャムの法則は金貨については有効だが、良貨にあたる官銭が悪貨を抑制した中国の銅貨には当てはまらない。また、複数の貨幣が流通して多元的に評価されていると、貨幣の総量を測る意味がなく、貨幣数量説の前提が成立しない[21]

貨幣の形態・デザイン

アレクサンダー3世の肖像、テトラドラクマ銀貨

開元通宝

硬貨の歴史において、ヨーロッパと中国ではデザインが大きく異なる。ヨーロッパの硬貨は権力者の肖像などの図像を入れているが、中国や日本では中心に穴の空いた硬貨を作った。中国の硬貨は円形方孔といって穴が四角く、これは古代の宇宙観である天円地方の思想にもとづいている。この穴は紐を通して大量の枚数をまとめるのにも活用され、小額面の貨幣を運ぶには便利だった[22]。一方、硬貨に穴がないヨーロッパでは運ぶための財布が発達したとも言われ、アテナイでは一般市民は財布を持たず、小額の硬貨は口に入れて運んだという記録もある[23]。イスラーム世界の硬貨は、ヨーロッパから形態を受け継ぎつつ、偶像崇拝を否定するために文字だけを刻印した。

紙幣は、最初の紙幣とされる宋の交子をはじめとして中国や日本では縦長であった。これは文字が縦書きであったことに由来する。ヨーロッパの初期の紙幣は北欧を中心に縦長であり、オーストリア・ハンガリーロシアポーランドブルガリアなどでは19世紀や20世紀まで縦長の紙幣が時折発行されていた。正方形の紙幣としては、スウェーデンフィンランドノルウェーなどがある。現在では横長の紙幣が一般的となっている[24]

貨幣のデザインは発行された時代の芸術とも関連がある。19世紀末から20世紀前半にかけてはアール・ヌーヴォーアール・デコ様式の紙幣がオーストリア・ハンガリー、ドイツフランス、ポーランドなどで発行された。オーストリア・ハンガリーでは、1881年発行の5グルデン札のデザインをグスタフ・クリムトが指導している[25]1945年に日本の新紙幣のデザインを公募した際には、審査員として藤田嗣治杉浦非水が参加した[26]

物々交換と貨幣

物々交換において、交換比率を決める尺度として貨幣を用いる場合があった。バーターが効率よく行われるために尺度としての貨幣が役立った[27]

バビロニアの物々交換で土地と物財を交換する場合、まず土地を銀の価値で計り、次にその銀の価値と同じだけの物財をそろえて交換した[28]。また、アムール川流域の山丹交易では物々交換が行われていたが、ウリチニヴフなどの山丹人が清と取引をする際、現地で使われていない中国の銅貨を尺度としていた。さらに山丹人と日本の取引では、クロテンの毛皮を尺度にして商品の価値を計った[29]

物品貨幣

古代中国の貝貨

素材そのものに価値のある貨幣を物品貨幣実物貨幣と呼び、特に初期の貨幣に多い。物品貨幣は、貝殻や石などを用いる自然貨幣と、家畜や穀物などの商品貨幣とに分類される。代表的な物品貨幣にタカラガイなどを用いた貝貨(古代中国、オセアニア、インド)、石貨(オセアニア)、大麦(バビロニア)、布帛(日本、中国、朝鮮)、鼈甲(古代中国)、鯨歯(フィジー)、牛や山羊(東アフリカ)、羽毛などが存在する。古代ギリシアの叙事詩である『イリアス』や『オデュッセイア』では、牡牛が価値の尺度として用いられている。8世紀の中央アジアは絹が帛練と呼ばれる物品貨幣にもなり、絹の品質に応じていくつかの価格帯が定められた[30]。こうした物品貨幣のさまざまな種類は、パウル・アインチッヒ英語版)の著作『原始貨幣』に集められている[31]

中世