ケネディ大統領暗殺事件 Ⅸ【左】時系列 6/6~ 

 

暗殺事件の反応

ホワイトハウスの東の間に安置されたケネディ大統領の棺(1963年11月23日)

ケネディ暗殺のニュースは全米に衝撃を与えた。まずラジオから、そしてテレビから。ニューヨークを始めとして多くの都市で男女が公然と泣き、多くの人々が最初はカーラジオでの速報に耳を傾け、テレビ報道を見るためにデパートに群れをなし、祈りを捧げる者達もいた。ニュースを聞いた者は衝動に駆られたように家族や知人に電話をかけた。この日午後にはニューヨークで数十万台の電話がいっせいに使用中止となった。いくつかの地区での交通は、ケネディの死に関するニュースが車から車へと伝えられ、停止することとなった。

ウオール街では株価が好景気を反映して午前中は堅調であったが、第一報が入った東部標準時午後1時40分はまだ疑心暗鬼だったが刻々と情報が入るにつれて売りが殺到し、ニューヨーク証券取引所は午後2時10分に急遽市場閉鎖となった。大統領の死去が伝えられた2時30分過ぎより20分早く、かつて1933年8月にガス漏れ事故で閉鎖されたことはあったが、全く外部からの要因で証券所が閉鎖された初めてのケースとなった[47]

アメリカ合衆国やカナダの学校では、学生を下校させた。ニューヨークのコンサートホールではジョージ・セルがニューヨーク・フィルを指揮していたが途中で演奏中止となった。ブロードウェイでは全ての劇場が公演中止となり、夜の社交行事は中止となった。

「地球が止まった気がした」と表現した人もあった。茫然自失の人、絶叫する人、蒼白となって走り回る人、マンハッタンにもさまざまな人間模様があった。その後には絶望感にも近い深い悲しみが一様にアメリカ国民を襲った[48][注釈 82]

新聞各社は号外「KENNEDY EXTRA」を発行し「PRESIDET DEAD」の大きな見出しの号外を通勤帰りの殆どのビジネスマンが電車の中でむさぼって読む姿があった[49]。そして「KENNEDY ASSSSINATED」の見出しが新聞スタンドに踊っていた。

NBC・CBS・ABCの三大ネットワーク[注釈 83]は国葬が終わる25日まで全ての定時番組とCMの放送を取りやめて特番だけになった。ワシントンポスト紙のジェームズ・レストン記者は翌日の朝刊記事で詩を掲載してその最初の一行が「今宵アメリカは泣く」[注釈 84]であった。

また、「テキサス州およびテキサス人」に対する怒りの声も聞かれた。アメリカのみならず世界中がショックを受けた。またフランスのド・ゴール大統領は「彼は兵士のように祖国への忠誠のために銃弾に倒れた」との談話を発表した。映画『オデッサ・ファイル』の一シーンで西ドイツの青年が市街を雨の中を車を走らせている時に、カーラジオからケネディ大統領の死を伝えるニュースを聞く場面があった。

日本でも、折しも当日実施されていた通信衛星による初の日米間の衛星中継(当時は宇宙中継と呼ばれた)テレビ伝送実験において即座に事件の詳細が伝えられ、視聴者に大きな衝撃を与えた[注釈 85]。伝えたのは毎日放送北米支局の前田治郎記者。第一声は以下の通りであった。「日米宇宙中継という輝かしい試みの電波に乗せて、悲しいニュースをお伝えしなければならない事を残念に思います。アメリカ合衆国第35代ジョン・F・ケネディ大統領は11月22日、日本時間11月23日午前4時、テキサス州ダラス市において銃弾に撃たれ死亡しました。」

「勤労感謝の日」のこの日は2日前の衆議院議員総選挙で前日に当落の大勢が決まり(翌日開票もあった)、各選挙区の開票結果と当選した議員の様子や池田勇人首相の内閣改造が大きな紙面を占めていた朝刊に衝撃的なニュースに入り、各社とも朝刊の遅版の編集に大わらわとなり、「ケネディ大統領暗殺さる」の号外も出した。この日は祝日であったが、休日でもまだ夕刊を出していた時代で、その日の夕刊も「全世界に大きな衝撃と深い悲しみ」などの見出しが出された。そして朝日新聞夕刊の「素粒子」欄では、98年前にリンカーン大統領が暗殺された時にウオルト・ホイットマンが詠んだ詩「O Captain! My Captain! our fearful trip is done ああ船長、わが船長 我らが恐ろしき旅路 終わりぬ」を紹介していた。

オズワルド殺害とジャック・ルビー

オズワルドがジャック・ルビーに狙撃される瞬間を撮った写真

ジャック・ルビー

ケネディ大統領暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日11時21分にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)によって射殺された。なお、この現場はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万のアメリカ人が映像でこの瞬間をリアルタイムに見た[注釈 86]

ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーンが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由であったが、ウォーレン委員会どころかマスコミさえもが、その不可解さを取り上げることはなかった。また、事件後にルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を常に追いかけていたことが複数の人物から証言があったし、この事件と何の関係もなく、かつ警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入りこめたのか、についてウォーレン委員会は、ダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判するだけで、その理由については最終的に満足な説明はしていない。ただルビーの犯行が計画されたものでないことは明らかになっている。もともと24日10時にオズワルドを移送する予定(前日に報道陣に説明はしていた)であったのが取り調べが長引き11時20分に延びたのだが、この日ルビーは10時に起き、すぐに自宅にダンサーからギャラの支払いを請求する電話が来て急ぎ郵便局で25ドルの送金をするために11時過ぎに車で郵便局に着き、11時17分に送金を終えて外へ出るとすぐ近くの警察署でオズワルド移送の動きがあるのを見て、車に愛犬を置いたまま警察署の地下通路を通って入って行った。郵便局を出てわずか4分後の犯行であった。もしオズワルドの移送が予定通り10時であったら、或いはもう少し2~3分早く移送していたら11時21分の犯行は無かったことになり、彼の衝動的な行動であったことは疑う余地はない[50]

なお、ルビーは死刑判決を受け再審を待っている間に精神的に不安定になり「何者かに癌細胞を注射された」「ワシントンの刑務所に移送してくれたら本当のことをすべて話す」など不可解な言動が見受けられたという。4年後の1967年、肺癌による肺塞栓症により獄中で死亡した。

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