ケネディ大統領暗殺事件 Ⅳ【内】夫人の証言 沿道 

 

 

防弾カバー使用拒否

透明な防弾カバーをかぶせたリンカーン・コンチネンタルのオープントップ・リムジンに乗るケネディ(1963年6月27日、アイルランド訪問時)

事件後にオープンカーに防弾カバーをかぶせていなかったことが問題となった。

当初、所轄のダラス市警察本部とシークレット・サービス(大統領付き護衛隊)は、狙撃や投石などに対する治安上の見地から、無防備なオープントップでのパレードではなく、透明な防弾カバーをオープントップにかぶせた上でパレードを行うよう主張した(なおこの様な防弾カバーは、これまでに数回利用されていた)。実際に前月にダラス市を訪れたスティブンソン国連大使が暴漢に殴られたり、11月22日のダラス・モーニング・ニューズ紙上に、反ケネディ派による、ケネディ大統領を「お尋ね者」とする黒枠付きの全面広告が掲載されるなど、反ケネディ派による襲撃が懸念されたにもかかわらず、翌年に再選に向けた選挙を控え、国民に対して「親しみやすいイメージ」と「毅然としたイメージ」をアピールしたいと願っていたケネディ大統領とその側近は、ダラス市警察本部とシークレットサービスによる防弾カバー使用の主張を退けた。

国民に対する毅然としたイメージを重視して、安全を軽視することとなったケネディ大統領とその側近によるオープントップ・リムジンの防弾カバーの使用拒否が、結局ケネディ大統領の運命を決定することとなった[注釈 31]

ティピット巡査の死とオズワルドの逮捕

リー・ハーヴェイ・オズワルド

ダラス市警察とFBIは現場で、付近のビルを直ちに出入口を閉鎖して不審尋問を始めた。銃声がした方角からテキサス州立公立学校教科書倉庫ビルに第一の容疑がかかり、数人の警官がすぐにビル内に捜索に入った。ダラス市警察のマーチン・ベーカー警察官はオートバイで伴走中に狙撃されるとすぐにオートバイを止めてビル内に入り2階の従業員食堂でコーラをラッパ飲みしていた男を見つけて、横にいたビルの支配人[注釈 32]に聞くと「この男はうちの従業員でリー・ハーヴェイ・オズワルドです」と支配人は答えた[注釈 33]

警官はそのまま上の階に上がっていった。警官たちは、まさかテキサス教科書倉庫ビルの従業員が犯人であるとは思わなかった。当然外部から入り込んだ人間の犯行という考えがあった。この時狙撃からほぼ3分が経過していた。そして6階の部屋(段ボール箱が山積みされた倉庫)からライフル銃1丁と弾丸の薬莢3個を発見[注釈 34]して、また、窓の手前に段ボール箱を積んでその上にライフル銃を安定させた跡があった[16]

すぐに従業員の点検が行われて、1人だけ姿が消えていることが判明した。つい先ほど食堂にいたリー・ハーヴェイ・オズワルドが何故か居なくなっていた。オズワルドのその後の足どりは、12時33分に警官が居たビルの出入口をすり抜けて、歩いて近くのバス停に行き、12時40分にバスに乗ったが大統領暗殺事件の混乱でバスが進まず、12時44分にすぐに降りて12時48分にタクシーに乗り、下宿先の自宅に帰ったのが13時頃で、下宿の管理人ロバーツ夫人[注釈 35]はオズワルドが息を切らして帰ってきたことを見ている。ここからすぐに着替えて再び出て、13時30分頃にテキサス劇場という映画館に入っている[17]。この間の13時20分にダラス市警に男性の声でパトカーの警官が撃たれて死んでいるというパトカーの無線通信を使った緊急連絡が入り、出動した警察官がダラス市警察のJ・D・ティピット巡査(en:J. D. Tippit)の死体を確認している[注釈 36]。ほどなく映画館の切符売りの女性から切符も買わずに館内に入った不審な男がいるとの緊急連絡が入り、警官隊が映画館を包囲して中に入り、照明を明るくして座席に座っている客を1人1人調べ始めると、突然殴りかかってきた男がいて格闘の末取り押さえた。こうして13時40分にオズワルドは逮捕された[18][注釈 37]。ケネディ狙撃の70分後に現場近くの劇場での逮捕であった。J・D・ティピット巡査はオズワルドの逃走でダラス市警から緊急に各警察官にオズワルドの手配が行われた時、オズワルドによく似た男を見かけて、パトカーを下りて訊問しようとして撃たれ3発の銃弾を浴びて即死であった。これを直接目撃したのが、ヘレン・マーカス[注釈 38]という女性で、その日夜遅くにダラス警察本部でオズワルドと面通しして確認している。この他に6人の目撃者がオズワルドを確認している[19]

リー・ハーヴェイ・オズワルドの訊問はこの22日深更までほとんど休みなしで続けられ、この日の18時30頃にダラス市警のJ・D・ティピット巡査を殺害した容疑で告発され、その夜遅く23時30分頃に大統領暗殺容疑で告発された。しかしオズワルドはケネディ大統領殺害もティピット巡査殺害もどちらも頑強に否定した[20]

パークランド病院

ダラス市の北西部にあるパークランド病院は、隣りにテキサス大学医学部があって、病院はその付属病院であり、医師たちは全てテキサス大学の教授ないし助教授であった。また、当時この病院は、1日に300件[注釈 39]の急患を取り扱うことができる、全米でも屈指の設備を擁していた[21]。そこへ瀕死のケネディ大統領らを乗せたリムジンがパトカーや白バイの先導で慌ただしく病院に到着したのは、12時37分頃[注釈 40]で、この時に後ろの車から駆け付けたパワーズ補佐官は、ジャクリーン夫人が大統領の頭を胸の中に隠すようにうずくまる姿を見て「Oh My God」と呻き、ジャクリーンは「Dave,He is dead」と語って、大統領の顔を誰にも見せようとはしなかった。

車のドアに近かったコナリー知事を運び出した後に、大統領を担ぎ出そうとしたが動転したジャクリーンが動かなかったので、クリント・ヒルが自分のスーツを大統領の頭に掛けて他の誰にも見せないようにして、やっと車から大統領の身体を降ろした。そしてケネディ大統領は救急室の第1手術室に運び込まれて、神経外科ウイリアム・クラーク部長[注釈 41]、麻酔科M・T・ジェンキンス主任らが見守る中で外科手術担当のジム・カリコ医師[注釈 42]が最初に大統領を診察した。この時12時43分であった[22]

大統領はすでに昏睡状態で呼吸は非常に微弱、心臓の鼓動は聴診器で当てなければ聞こえない。後頭部は砕かれて、血がどくどくと流れ、手押し車の上を流れて床を濡らしていた。銃弾がどんな損傷を引き起こしたかは想像出来なかった。すぐに2つの外傷を認めた。1つ目は頸部の基底、2つ目は大きくて脳の繊維質の細片が飛び出している状態で頭蓋の前壁に孔を開けたと考えられた[注釈 43]。カリコ医師はまず以前に大統領が副腎機能低下症にかかっていると新聞記事で読んだことを思い出してハイドロコーチゾンを注射した。

そしてジョーンズ医師がカテーテルを挿入するために大統領の左腕に入り口を開けて、カーチス医師が左足[注釈 44]にも同じ処置をして、血液銀行から大統領と同じ血液型のRhマイナス型の血液が届き、すぐに輸血が開始された。その時、カリコ医師が大統領の首の傷のところから泡が出ていることを見つけた。これは肺の中に穴が空いていることを意味して、急ぎマルコム・ペリー医師[注釈 45]が気道を確保するために気管切開を行った[注釈 46][注釈 47]。その時にのどの内部を喉頭鏡で調べながら彼は喉頭の下の気管に恐るべき傷を見たが、この破損部にもすぐにチューブが差し込まれた。気管の傷はひどいもので、肺の中に血と空気が圧縮していた。そしてピータース医師とチャールズ・バクスター医師が胸の右上部にチューブを挿入した。これは肺から血液と空気を取り除く処置である。人工呼吸はすぐに行われ、大統領の肺に電気ポンプで空気が注入された。もっと早めるため手でポンプを持った。神経外科のクラーク部長が大統領の両眼を見て「目が膨張して凝固している」と述べた。アキレス腱はほんの少しの反応も示さなかった。この時に心電図は取り付けられていたが微動だにしない状態であった。ペリー医師が心臓マッサージを行ったが、心電図の画面は空しく波がなく横にただ移動するだけであった。クラーク部長は「もう手遅れだ。手の施しようがない。」とペリー医師に語り、大統領の死亡を告げた[注釈 48]。この時12時50分であった[23][注釈 49]

パークランド病院第一外傷室の係員は、後に病院に担ぎ込まれた時にすでにケネディが「瀕死」状態だったと語った。ある医師は「我々には彼の命を救う希望が持てなかった」と語った。これは病院に到着したときすでに生存の可能性がなかったことを意味する[24]。大統領が瀕死状態で到着して、死亡宣告、そして司祭が終油の秘蹟を与え終わるまで、わずか23分間の短い時間であった。そして大統領の治療に当たった医師たち[注釈 50]が、銃撃による入口と出口の傷の判定や死因の法医学的な評価を十分くだせるような診断も、検査測定も、写真撮影も、病院では行われなかった[25]

死亡が確認されてジャクリーン夫人の希望で地元ダラスのカトリック教会のヒューバー司祭とトンプソン神父が病院に呼ばれ、枕元でケネディに病者の塗油(終油の秘蹟)を与えた後、医師団の判断で儀式を終えた13時00分を大統領の死亡時刻とすることが決まり、大統領の死亡診断書にはクラーク神経外科部長が署名した。ケネディに終油の秘蹟を行ったヒューバー司祭は、大統領は病院到着時既に死亡していたと後にニューヨーク・タイムズに語った。ところで、治療に当たったペリー医師は、直後の記者会見で「大統領は前方から撃たれたようだ」と語り、後に「銃弾がどこからきたか判断に必要な傷を調べていない」として取り消している[26]

一方大統領のリムジンに同乗していたコナリー知事[注釈 51]は救急室の第2手術室に運び込まれ、その日の内に二度の手術が行われて、一命を取り止めた[注釈 52]。コナリーの負傷はケネディの最初の負傷直後に発生した(同一の弾丸によるものと考えられたが、これには疑問が提示され議論の対象となっている。「魔法の銃弾」参照)。その後医師は、コナリー夫人が彼女の膝の上に知事を引き上げたことで、胸の傷(傷口から直接肺へ空気が流入していた)が閉じられ、結果として知事の生命を救うこととなったと語った。

パークランド病院に大統領が担ぎ込まれた時に、シークレットサービスの2人が急ぎ軽機関銃を持って病院内に入り、手術室まで入って関係者以外の出入りを禁止したが、1人の平服の男が入ってきたので、あわてて胸ぐらを掴んで殴り倒す一幕があった。この殴り倒された男は直後に身分証明書を見せて「FBIだ」と名乗り、病院から急ぎFBIのフーバー長官に電話で報告した。誰もが興奮して殺気だっていた[27]

ケネディ狙撃の速報と死去報道