日本の貨幣史 Ⅱ【序】
古代
弥生時代、古墳時代
弥生時代の遺跡からは、中国の硬貨である秦から前漢にかけての半両銭や五銖銭が発見されている。弥生時代と古墳時代の遺跡で出土した中国の硬貨は、青銅器の原料となっていたほかに祭祀にも用いられていた[13]。下関市武久町の海岸砂丘から出土した武久浜墳墓群の半両銭は副葬品であることが判明している[14]。『魏志倭人伝』に記述がある一支国の首都とされる原の辻遺跡では前漢時代の五銖銭が出土しているが、副葬品には含まれていない。原の辻遺跡は港をもつ交易地であることから、青銅器の原料のほかに交易で貨幣として流通していたとする説もある[15]。
律令時代
律令制においては、真綿、布、絁(あしぎぬ)、鍬、米、塩などが物品貨幣として用いられていた。当時は価値の尺度、支払い、交換などの機能別に貨幣があり、組み合わせて使用されていた。たとえば藤原京の市場でものを買うには、まず銀を尺度として品物の価値を計算してから、同じ価値を持つ糸や布で交換した[16]。奈良時代の官人への報酬や経典の筆写への報酬は、布や絁で支払われている[17]。8世紀の新羅との貿易では、真綿を交換に用いていた[18]。
律令政府は、首都の造営をはじめとする大規模な国家事業の支払い手段として、金属貨幣の普及をすすめた。支払いの内容は、雇用の賃金である功銭や、資材の購入費とされる。こうして和同開珎は平城京の造営、万年通宝は平城京の改築や保良宮の造営、神宮開宝は西大寺・西隆寺や由義宮の造営に対応して発行された。和同開珎の発行後は、中央の労賃は銭貨で、地方の労賃は刈り取った稲である穎稲で支払われるようになる[19]。
最古の国内鋳貨
富本銭(複製品)
日本の金属貨幣は、硬貨が作られる以前には秤量貨幣が用いられていた。飛鳥寺の物資調達についての木簡には、秤量銀貨を用いた記録や、銭の単位である「文」の表記がある[20]。『日本書紀』には、683年(天武天皇12年)に銅銭を推奨して、銀銭を禁じる記述がある。694年(持統天皇8年)には、貨幣を鋳造する機関である鋳銭司の長官が任命された。設けられた銭鋳司には、奈良時代の催鋳銭司、鋳銭寮、長門鋳銭司、岡田鋳銭司、登美鋳銭司、田原鋳銭司、平安時代の長門鋳銭使、周防鋳銭司、山城国葛野郡鋳銭所などがある[21]。
国内での鋳造貨幣として現存する最古のものは、7世紀の銀貨の無文銀銭があり、次に銅貨の富本銭がある。飛鳥池工房には富本銭を鋳造した工房があり、ほかに釘などの鉄製品や銅製品が作られていた。鉄工房や銅工房で働いていたのは、帰化系の氏族である東漢氏を中心とする工人だったとされる[22]。
無文銀銭や富本銭は、厭勝銭(まじない用の銭)であるか、それとも流通していたかについては論争が続いている[23]。古代においては全く価値体系の違う物とも交換を可能にする貨幣に対して、異界(あの世)との仲立ちなども可能であるとする宗教的な意味を持たせることがあった。富本銭は流通目的ではなく厭勝銭目的であったとする学説や、三途の川の渡し賃として六文銭を冥銭として棺に入れたという慣習など、貨幣と宗教のつながりを想起させる話が多く残されている。
和同開珎
和同開珎銀銭
飛鳥時代の708年(和銅元年)には、和同開珎が発行された。和銅という元号は、元明天皇の時代に武蔵国秩父郡で銅が発見されたことがきっかけとなった。新羅の帰化人である金上无が、和同(にきあかがね)と呼ばれる純度の高い自然銅を発見して朝廷に献上した。当時は、そのように銅が貴重な資源だった[27]。和同開珎は銀貨が5月、銅貨が8月に施行され、唐から流入していた開元通宝をモデルにしたといわれる。発行にあたっては、平城京で製造した種銭を見本として各地の工房に配り、大量生産を意図していた[28]。翌年の709年(和銅2年)には私鋳の禁止令が出され、和同開珎の銀貨は廃止されており、当初から銀貨の贋金が問題となっていた。『経国集』には、711年(和銅4年)より前に作られた役人用の試験答案も収録されており、そこにはすでに私鋳対策の問題があった[29]。
- 金属貨幣の奨励策
和同開珎を流通させるため、律令政府は数々の奨励政策を行った。価値の基準としての硬貨(銭貨)は、711年(和銅4年)に穀6升(現在の2升4合)=銭1文として、712年(和銅5年)に調庸の基準として布1常=銭5文とする。こうして物納であった調庸に硬貨を認め、貨幣による代納を調銭や遥銭と呼んだ。支払い用としては、平城京造営工事の労賃や、官人の給与に硬貨を部分的に導入して、官人には東西市などでの使用を強制した。交換用の貨幣を普及させるために硬貨で購入できるものを増やして、交通の要所では納税する物資を運ぶ者や旅行者が米を硬貨で購入できるようにした。硬貨を蓄蔵する利点としては、同年10月には蓄銭叙位令を出して、貯蓄した銅貨の量によって位階を昇進できるようにした。貯蓄した銅貨は叙位の際に献納銭として政府に回収されるため、実際には蓄蔵と流通の双方を促進するのが目的だった。しかし、昇進のために献納銭をする者は少なく、強化策として郡司の任命には6貫の献納銭が必要とした。叙位法の影響で昇進するための私鋳や、貨幣発行益を目的とする私鋳の増加が予想されたことから、私鋳銭の罰則が流刑から斬刑(死刑)へと重くなった[30][31]。
皇朝十二銭
皇朝十二銭と関連銭貨(開基勝宝は模造)
和同開珎の発行量が増えるにつれて物価も上昇して、711年(和同4年)は穀6升=銭1文が、751年(天平勝宝3年)には穀6升=銭30文に上がった。律令政府は、私鋳銭への対策という発表のもとで新貨幣の鋳造を行う。次に発行された万年通宝は、銅量は和同開珎と同じでありながら、和同開珎の10倍の価値を持つと定められた[32]。
708年(和銅元年)から平安時代中期の958年(天徳2年)にかけての250年間に12種類の銅貨が発行され、朝廷が発行したことから皇朝十二銭と呼ばれた[33]。発行年は次の通りである。和同開珎(708年・和銅元年)、万年通宝(760年・天平宝字4年)、神功開宝(765年・天平神護元年)、隆平永宝(796年・延暦15年)、富寿神宝(818年・弘仁9年)、承和昌宝(835年・承和2年)、長年大宝(848年・嘉祥元年)、饒益神宝(859年・貞観元年)、貞観永宝(870年・貞観12年)、寛平大宝(890年・寛平2年)、延喜通宝(907年・延喜7年)、乾元大宝(958年・天徳2年)。
- 銭離れ