焼き鳥 Ⅰ【冒頭】目次・概要
歴史
平安時代の『類聚雑要抄』には、餐宴の料理として「鳥焼物」が記載されている。
中世の『包丁聞書』には、「鶉のやき鳥には、両羽を切り広げ、其上に檜葉を置盛也、是を葉改敷といふ也」と記述されている。
江戸時代初期には大名の正式な本膳料理にも焼き鳥が使われるようになる。一例として、小諸城主がこれを食している[3]。
1643年の料理本『料理物語』に鳥料理があり、その中に焼き鳥の文字が見える。山鳥(やまどり)・鸞(ばん)・鴫(しぎ)などであり、鶏(にわとり)は「煎り鳥」に調理されたが、鳥類の多くは串焼きとされていた[4]。
1674年の『江戸料理集』には「焼鳥には鴫類、うずら、ひばり、小鳥類、雉子、山鳥、ひよ鳥、つぐみ、雀、鷺類、鳩、けり、鷭(ばん)」と、「各種の焼き鳥」について言及されている。
1682年頃の『合類日用料理抄』では焼き鳥の「調理方法」が記載されており、
と記述されている。
神社の参道では江戸時代から続く雀の焼き鳥屋が名物であった。若月紫蘭の「東京年中行事 - 雑司ヶ谷鬼子母神会式」1911年には次のように記述されている。
- 尚、序にこのお祭の名物と言うのは、平生からも名物である小鳥の雀焼...境内に至るまでの長い道の両側で盛んに客を呼んでいる
祭の名物であり、盛んに売られているものとして焼き鳥が挙げられている。
明治時代の貧民街ルポルタージュである『最暗黒の東京』では屋台についての記述があり、新橋から万世橋まで多数の店が出ていたと記述されている。
- 居酒屋の前には焼鳥、焼鯣(やきするめ)、炙(やき)唐もろこしと匂をもって道を塞ぎ
- 焼鳥等の屋台店はもっぱらにこの彼ら夜業の車夫によって立つもの
- この類の露店午後十時の通行において新橋より万世橋までの総計かつて八十六個を算えき
- 焼鳥―煮込みと同じく滋養品として力役者の嗜み喰う物。シャモ屋の庖厨より買出したる鳥の臓物を按排して蒲焼にしたる物なり。一串三厘より五厘、香ばしき匂い忘れがたしとて先生たちは蟻のごとくに麕って賞翫す
第二次大戦後は、闇市だけではなく、焼き鳥店の店舗数が爆発的に増えていった[5]。今日では、日本各地で食べられるようになり、「日常の安価な軽食」また中には立派な店で提供するメニューの一部へも取り入れられるなど幅も広がっている。
東京の新橋周辺では、21世紀の今日でもガード下などにそれら多くの店が残っているだけでなく、新しい店舗も増えている事から、「焼き鳥横丁」や「焼き鳥ロード」なども呼ばれ、サラリーマンが帰宅時に寄り道する所としてメディアに取り上げられる事も多い。
販売形態