近世から近代にかけての世界の一体化 Ⅲ(生活革命から転送)… 

 

13植民地の成立

詳細は「13植民地」を参照

13植民地(赤色)

イギリスでは、1607年のヴァージニアに始まり、1732年ジョージアにいたる東海岸に13植民地が形成された。フランス植民地にくらべると、自営農民として家族単位での植民と定住が一般的であり、人口も多かった。特に18世紀に入ると人口は急増し、農地の確保をめざしたため先住民であるインディアンとの摩擦も多かった。イギリス国王特許状による自主的な運営が行われ、政治的自由が認められており、その緩い支配は「有益なる怠慢」と称されていた。13植民地の経済的な特色は、北部と南部では著しく異なり、中部はその中間的な特色を有していた。

プリマスマサチューセッツなどを中心とするニューイングランド植民地(北部植民地)はピューリタンが多く、自主独立の気風が強かった。この地域では庶民の立法機関であるタウンミーティング制度が発達していた。豊富な水力や木材を利用した工業も発達し、産業資本家や労働者の形成もみられた。しかし、農業の大規模経営は発展しなかった。

ヴァージニアやサウスカロライナなどの南部植民地では、プランテーションとよばれる大規模農業経営が広まった。そこでは当初白人の年季奉公農民を使用していたが、労働力不足からしだいにアフリカ大陸から黒人を奴隷として輸入するようになった。プランターの多くは保守的で、またカトリックの勢力が多かった。そこでは、本国の議会制度を模したカウンティ(郡)の制度が採用されることが多かった。

ニューヨークペンシルベニアなどの中部は小麦を中心とする農産物輸出が盛んだったが、奴隷制プランテーションは発達せず、農業と商業を中心に発達した。

英仏抗争とその帰趨

詳細は「第2次百年戦争」を参照

18世紀に入ると、フランスとイギリスの対立は典型的には海外植民地の奪い合いというかたちで現れてくる(経過については第2次百年戦争#経過を参照)。その帰趨は18世紀半ばの欧州の七年戦争および北米のフレンチ・インディアン戦争におけるイギリスの勝利によってほぼ決した。大英帝国の成立である(アメリカ独立以前を「第一次帝国」または「旧帝国」、独立以後を「第二次帝国」または「新帝国」と呼ぶことがある)。一方のフランスは北米植民地とインドでの拠点をともに失い、国内では絶対王政のゆきづまりが明らかとなって、フランス革命以後パリ・コミューンの終結に至るまで長い政治的激動の時代を迎えることとなった。

イギリス勝利の理由

イギリスが勝利した理由としては、戦費調達能力がフランスのそれを大きく上回っていたことが掲げられる。議会の承認により税収のほとんどを軍事費に投入でき(フランスは国王の浪費も財政に影響した)、議会が保証するイギリス国債の信用が高く、臨時の資金調達能力も優れていた(アンシャン・レジーム下のフランスでは徴税権をもつ貴族が多く、国庫収入が少なかった)。加えて、フランスがユトレヒト条約などにみられるように王位・王権に対する執着が強く、冷静に国益を見据えた外交政策を持たなかった点もしばしば指摘される(ただし、これには異論もある)。しかし、イギリスもまた周囲にくらべてきわめて負担の重い国として知られていた[1]。いずれにせよ、この抗争の勝利によってイギリスの覇権国としての地位はゆるぎないものとなり、後世パックス・ブリタニカと呼ばれる繁栄の時代の基礎がつくられた。

イギリスの貿易構造

17世紀から18世紀にかけてのイギリスの貿易構造は以下のとおりである。

貿易相手 輸入品目(相手国→英国) 輸出品目(英国→相手国) 備考
北ヨーロッパ リンネル木材亜麻帆布 毛織物 -
ドイツ・オランダ リンネル・・東インド商品 毛織物 -
フランス ワイン絹織物・リンネル・紙 ・銀・毛織物 -
スペイン 羊毛オリーブ油石鹸・ワイン・銀 毛織物 -
ポルトガル ワイン・オリーブ油・ブラジル銀 毛織物 -
インド キャラコ・絹織物・香辛料インディゴ 金・銀 -
北米(北部) 木材・毛皮ラム酒 毛織物・絹織物・リンネル・綿織物・金属製品 アフリカより黒人奴隷、西インドより砂糖
北米(南部) タバコ・インディゴ・綿花 毛織物・絹織物・リンネル・綿織物・金属製品 アフリカより黒人奴隷
西インド諸島 砂糖・綿花・インディゴ・コーヒー - アフリカより黒人奴隷
アフリカ 金・象牙・黒人奴隷 毛織物・日用品・火器 アメリカ大陸・西インドへ奴隷を輸出