三十年戦争 Ⅵ【下】フランス・スウェーデン戦争・反ハプスブ…
ヴェストファーレン条約の締結
この一連の戦況によって和平会議は一気に進展した。国際会議にはイングランド、ポーランド、ロシア、オスマン帝国を除いた全てのヨーロッパ諸国が参加していた。しかし1646年に皇帝軍がバイエルンに合流することを恐れたスウェーデンが、バイエルンに再度侵攻する。フランスはこれを越権行為として、スウェーデン牽制のためにテュレンヌ将軍を派遣した。両者に挟まれたマクシミリアン1世は翌1647年に屈服・休戦したが、バイエルン軍の将軍ヨハン・フォン・ヴェルト(英語版)が反乱を起こして皇帝軍に合流し、ヤンカウの敗戦で打撃を受けた皇帝軍は驚異的な復活を成し遂げる。
劣勢を挽回した皇帝・バイエルン連合軍は、1648年にアウクスブルク近郊のツスマルシャウゼンでカール・グスタフ・ウランゲル(英語版)とテュレンヌの率いるスウェーデン・フランス連合軍との戦闘に臨んだが大敗する(ツスマルシャウゼンの戦い(フランス語版))。更に皇帝側の頼みの綱だったスペインも、ランスでコンデ公率いるフランス軍に敗れ(ランスの戦い)、大勢は決した。ツスマルシャウゼンで勝利したスウェーデン軍はプラハを包囲、占領した後に帝都ウィーンを攻める態勢を固めたため、ここに至って皇帝は、10月24日に和平条約への署名を決断する。
三十年戦争終結
しかし、スウェーデンはなおボヘミアの征服とプロテスタント化を諦めず、1648年7月26日以降もプラハでは戦闘が続いた。今やカトリックの最後の砦となったプラハは激しく抵抗し、降伏には応じなかった。後にスウェーデン王となるカール10世(スウェーデン軍総司令官・クリスティーナの従弟)も援軍に駆けつけ、包囲戦は3ヶ月にも及んだ。
11月2日、プラハにヴェストファーレン条約の締結の報が届き、この日ついに三十年戦争は終結した。しかしスウェーデンでは親政を開始したクリスティーナ女王の政策によって、和平交渉で新たな展開が起こることとなる。和平会議においてスウェーデンは、過度な要求を皇帝に突き付けたが、女王はキリスト教世界の平和と安寧のために皇帝に迫って新教徒の権益を拡げさせた。引き替えに女王は、スウェーデンの膨大な要求を引き下げ寛大な譲歩を行った。この譲歩によって和平交渉は進み、ミュンスターとオスナブリュックでそれぞれ条約が締結された。また、この講和条約は、ヨーロッパに新たな国際法のシステムの端緒が生み出されることとなった。皇帝が和平条約への署名を決断した10月24日、戦争終結を祝し、70門の大砲の一斉射撃が行われた。
結果・影響