三十年戦争 Ⅳ【左】デンマーク・ニーダーザクセン戦争 

 

スウェーデン戦争

ブライテンフェルトの戦いにおけるグスタフ2世アドルフ

スウェーデン参戦からレヒ川の戦いまで

デンマーク・ニーダーザクセン戦争を乗り切ったことでフェルディナント2世の権威は高まったが、1629年の復旧令: Restitutionsedikt)発令で諸侯の反感を買ってしまった。内容はプロテスタント諸侯が奪ったカトリック教会への領土返還、皇帝の許可の無い同盟の締結禁止であり、領土削減の危機に立たされたプロテスタントはおろか、武力制限とドイツの絶対主義[要曖昧さ回避]導入によるハプスブルク家の勢力拡大の恐れからカトリックも反対に回り、かねてより諸侯に非難されていたヴァレンシュタインを罷免しない限り協力しないとフェルディナント2世に迫った。1630年8月にヴァレンシュタインは罷免され皇帝軍の戦力は低下、諸侯の協力も取り付けられずフェルディナント2世の威信は失墜した。

1630年7月、グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンはフランスの資金援助を受け、プロテスタント教徒を解放すべくドイツに侵入した。ここからスウェーデン戦争が始まる。当初スウェーデン軍は諸侯の援助を受けられなかったが、食料難に苦しむ皇帝軍がマクデブルクで略奪、虐殺(マクデブルクの戦い)を行ったことから情勢が一変する。皇帝軍に失望したザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世とブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムと同盟を結んだスウェーデン軍は1631年9月17日ライプツィヒの北方、ブライテンフェルトで皇帝軍と対峙する。戦いは新式の軍制、装備、戦術を有するスウェーデン軍の圧倒的勝利に終わった(ブライテンフェルトの戦い)。戦後スウェーデン軍はバイエルンへ南下、翌1632年4月15日にはレヒ川を挟んでスウェーデン軍と皇帝派のバイエルン軍が相対し、砲兵の効果的な運用で再びスウェーデン軍が圧勝(レヒ川の戦い)。皇帝側はそれまで数々の勝利を収めた総司令官ティリー伯が戦死するなど、大きな損害を被った。

リュッツェンの戦い

ヴァレンシュタイン

スウェーデン軍は向かうところ敵なしの快進撃を果たし、このような事態を予想しなかったフェルディナント2世は大いにうろたえた。ティリー伯の戦死で有能な指揮官がいなくなったことも痛手であった。皇帝は1632年4月に「専横極まれり」と罷免していたヴァレンシュタインの「軍の全権、和平交渉権、条約締結権の全面委任とハプスブルク帝国領と選帝侯領の割譲」という条件を呑んで、彼を皇帝軍の指揮官に再召喚する。ヴァレンシュタインはこれを受諾し、26,000の軍勢を率いて出撃した。

一方、迎え討つグスタフ2世アドルフのスウェーデン軍は16,000。11月16日、両者はライプツィヒ郊外のリュッツェンで戦闘を開始した。会戦当初、戦局は皇帝軍に不利に動き、援軍の指揮官パッペンハイム英語版)も来着直後に戦死したが、グスタフ2世アドルフも戦死した。「スウェーデン王戦死」の報は皇帝軍の士気を上げたが、スウェーデン軍は傭兵隊長ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルが指揮を引き継ぎ、結局皇帝軍はこの戦闘に敗れた(リュッツェンの戦い)。

「国王戦死」の報を受けたスウェーデンの王都ストックホルムでは、王女クリスティーナが国王に即位する。幼い女王の下スウェーデンを主導する宰相アクセル・オクセンシェルナ1633年にドイツのプロテスタント諸侯との間にハイルブロン同盟を締結し、「防衛戦争」という形で戦争を続行させた。これを受けてフランスのリシュリューは、プロテスタント諸侯へのフランスの影響力を保持するためスウェーデンと取引をし、カトリック国であるにも拘わらずフランスもこの同盟に参加する。三十年戦争は新しい局面を迎えることになった。

ヴァレンシュタイン暗殺

フェルディナント大公
後に皇帝フェルディナント3世となる。

グスタフ2世アドルフの死はプロテスタント諸侯を動揺させ、スウェーデン軍とプロテスタント諸侯との分裂を引き起こした。また一方で皇帝軍の士気を高めることとなった。これに自信を持ったのか、皇帝はヴァレンシュタインを暗殺した。ヴァレンシュタインの排除は軍事的にはマイナスであったが、成り上がりの彼に反感を抱く帝国諸侯の意向を無視できなかったためであり、嫡男のフェルディナント大公ローマ王として世襲を継続させるため諸侯に譲歩する必要があった。[要出典]

プラハ条約締結

皇帝はフェルディナントを総司令官に任命し、第1次ネルトリンゲンの戦いでスウェーデン・プロテスタント諸侯軍(ハイルブロン同盟)を撃破し、主導権を奪い返した。スウェーデン軍は重大な被害を受け、三十年戦争の主導権を失った。この勝利によって南ドイツを取り戻し、プロテスタントから主導権を奪い返したフェルディナント2世は諸侯との和睦に動いた。

フェルディナント2世はマクシミリアン1世とヨハン・ゲオルク1世、ゲオルク・ヴィルヘルムら選帝侯達との和解、スペインの参戦に勇気付けられ、他方では戦闘が続いているにもかかわらず、三十年戦争終結へ向けて復旧令の撤回と引き換えに諸侯の和解を図り、1635年プラハ条約締結にこぎ着けた。フェルディナント2世はカトリック至上主義は放棄したが、諸侯の同盟禁止が明記されていたためカトリック連盟解散で優位に立ち、1636年の選帝侯会議でフェルディナントのローマ王選出にようやく成功した。

しかしこの条約は皇帝の威光を高めはしたが、結局は一時的なものでしかなかった。スウェーデン軍はかつての勢力を失い、ハイルブロン同盟が崩壊する危機がありながらも、宰相オクセンシェルナの手腕によってフランスを直接介入させることに成功したのである。三十年戦争は第4段階へと突入する。