ゲーム理論 Ⅵ【右】ゲーム理論による経済学の静かな革命 

 

完全合理性からの脱却

進化ゲーム理論については「ゲーム理論#生物学」を参照

ゲーム理論は誕生当初は「社会における合理的行動の数学理論」として研究されていており、新古典派経済理論と同様に合理性の仮定を採用していた[170]。これに対して、ハーバート・サイモン1950年代限定合理性bounded rationality)の概念を提示し「効用最大化」に代わる「満足化」の原理を採用すべきと主張している[171]。サイモンの提唱した限定合理性アプローチは多くの研究者にその重要性を認めらたものの、サイモンの主張の多くは単なる研究方針に過ぎず具体的な枠組みを示したものではなかったため当時の経済学者やゲーム理論家からは「定理なき理論」(a theory without theorems[172])と見なされ、研究の主流になることはなかった[173]。しかし、1980年代後半から1990年代にかけて、経済学やゲーム理論は伝統的な合理性の仮定を緩和し現実の人間が持つ人間的な合理性human rationality)の研究を本格的に開始することとなる[173]

新古典派経済学が「合理的で利己的な経済人(ホモエコノミカス)」としての人間行動を前提としていたのに対して、1990年以降、仮定をより現実的な人間像に近づけることによって理論の説明や予測の精度を高めようとする試みである、実験経済学行動経済学が台頭した[174]。こうした学説史上の現象の一因として、経済学におけるゲーム理論の定着が挙げられる[175]。伝統的な経済学は大規模な市場に関する分析しかしていなかったため実験の利用可能性が大きく制限されていたのに対して、ゲーム理論は少数のプレイヤーが戦略的に行動する問題を分析していたため理論予測を実験で直接検証することが可能であった[† 37]。ゲーム理論の実験は1950年代にメリル・フラッドとメルヴィン・フィッシャー[176]の「囚人のジレンマ」の実験によって創始され、その後も「最後通牒ゲーム」の実験や「独裁者ゲーム」の実験などさまざまな研究が行われてきたが、フラッドらによる黎明期の実験から近年の実験まで一貫して自己利得最大化と整合的理論形成を基礎とする個人の合理性だけでは説明できない実験結果が観察されている[177][† 38]。こうして行われた教室実験によって蓄積された現実の人間行動と理論的予測の乖離を示すデータによって行動経済学behavioral economics)と呼ばれる分野が登場した[175]行動経済学では、新古典派に代表される伝統的経済学の前提から現実の人間の行動がどのように乖離しているのかを明らかにし、数学的な理論によって定式化される[179]。この行動経済学の観点から限定合理性の理論、学習理論、公平性や互恵性の理論などを研究するゲーム理論の分野は特に行動ゲーム理論behavioral game theory)と呼ばれる[180]

 

ジョン・メイナード・スミス1973年、雑誌『ネイチャー』上に発表されたジョージ・プライスとの共著論文"The logic of animal conflict"によって進化ゲーム理論の嚆矢が放たれた[67]

このように現実の人間はしばしば論理的整合性を欠いた行動をとるが、合理性の仮定に基づく理論モデルが現実の人間社会を説明する上で全く役に立たない訳ではない。合理性の仮定に基づく理論モデルをベンチマークとして構築・活用するアプローチは一般に方法論的合理主義methodological rationalism)と呼ばれるが[181]、伝統的な合理性の概念はサイモンによって提唱された限定合理性とも整合的である[182][† 39]。例えばRust 1987の研究によれば、米国ウィスコンシン州のベテラン技師Harold Zurcherがあたかも複雑な確率的動学的最適化問題を解いて行動しているかのように合理的なタイミングでエンジンを交換していたことが確認されている[184]。さらに、人間の行動だけでなく動物や植物の行動や進化も合理性を前提としたモデルによって予測・説明され得る。数理生物学者ジョン・メイナード・スミスらによって創始された進化ゲーム理論evolutionary game theory)は、理性的思考を持たない生物社会をゲーム理論の枠組みによって分析するが、思考を持つはずのない植物ですらあたかも合理的計算をしているかのように進化や行動をしていることが確認されており[† 40]、限定合理性アプローチを志向する経済学者にも大きなインパクトを与えた。進化ゲームは生物学から社会科学へと逆輸入され、プレイヤーの学習、模倣や世代間教育、文化継承などを表現するモデルとして経済学や社会学などの社会科学諸分野にも応用されている[185]