ベトナム戦争 ⅡⅤ:20年戦争:戦争の影響(ベトナム・アメ… 

 

アメリカ

アメリカはこの戦争で、延べ250万人以上の兵士を動員して5万8,718人の戦死者と約2,000人の行方不明者にこれに負傷者を加えるとおよそ30万人を超える人的損失を出した。またアメリカは、旧南ベトナム政府や軍の首脳陣、そして南ベトナムから流出した華人、および政治的亡命者などのボートピープル難民を受け入れた。

テレビ放送が普及したのちでは最初に勃発した大規模戦争だったため、それ以前の戦争と異なり、戦争の被害がその日のうちにテレビ番組で報道され、戦場の悲惨な実態を全世界に伝えた。アメリカ国内では、史上例を見ないほど草の根反戦運動が盛り上がり、「遠いインドシナ半島の地で、何のためにアメリカ軍兵士が戦っているのか」という批判がアメリカ合衆国連邦政府に集中した。青年層を中心に『ベトナム反戦運動』が広がり、ヒッピーやフラワーピープルなど、カウンターカルチャーが興隆した。

ベトナム戦争は1964年にリンドン・ジョンソン政権下で制定された公民権法の施行を受けて、アメリカ史上初めて「黒人部隊」が組織されず、黒人と白人が同じ戦場で、同等の立場で戦う戦争であった。これにより、戦場で共に戦った黒人と白人の若者が、アメリカにおいてそれまで完全に分け隔てられていた人種間の融和の促進剤になっているとも指摘されている。この点について、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、生前「皮肉な結果である」と述べていた。

作家・評論家などの文化人俳優・女優・歌手などの芸能人による『ベトナム反戦運動』も盛んに行われた。ボクサーの モハメド・アリは、1967年にベトナム戦争に反対して、徴兵制度拒否(良心的兵役拒否)を行った。イギリス人歌手のジョン・レノンも、ビートルズの解散後に活動拠点を置いていたアメリカを中心に反戦活動を行った。この際に行われた「ベッド・イン」などのパフォーマンスは、マスコミも大きく取り上げ、若者への影響力が強かった[注釈 17]

女優のジェーン・フォンダは、1972年に反戦活動家のトム・ヘイドンと共に「アメリカ兵のための反戦運動」と称して、ベトナム民主共和国を訪れた際に、アメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットを被り、照準器を覗き込む写真を撮影した。これは内外のマスコミを通じて世界中に配信され、ベトナム帰還兵やその家族を中心に「裏切り者」「売国奴」「ハノイ・ジェーン」などと批判された。フォンダは1978年に、ベトナム帰還兵の問題をテーマにした主演映画「帰郷」(Coming Home)で、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞している。

第二次世界大戦朝鮮戦争の戦争中や終結後の時期と異なり、ベトナム帰還兵の心理的障害が広く認識されて社会問題となり、精神医学軍事心理学において心的外傷後ストレス障害(post traumatic stress disorder, PTSD)の研究が展開した。

アメリカ合衆国連邦政府が、ベトナム社会主義共和国国家の承認と国交樹立を果たしたのは、ベトナム戦争終結後から20年後の1995年になってからであった。

フランス

アメリカのニクソン大統領と歓談するフランスのド・ゴール大統領(1969年)

かつて「フランス領インドシナ」として、ベトナムを侵略・植民地支配していたフランスでも、シャルル・ド・ゴールフランス共和国大統領は「ベトナム戦争は、民族自決の大義と尊厳を、世界に問うたものである」と述べている。

ただしド・ゴールは『ディエンビエンフーの戦い』に敗戦し、1954年にフランスがインドシナ半島から撤退したことについては「不本意だった」と述べている。

中東

中東戦争でアメリカ合衆国が支援しているイスラエルと戦っているさなかの中東アラブ諸国にも影響を与えた。北ベトナムがアメリカ合衆国に相手に有利に戦争を進め最終的に勝利したのは「社会主義を標榜していたから」と解釈され、アラブ世界も北ベトナムのように社会主義化すれば親米国家イスラエルを打倒できるのではないかと考えられるようになった。このような考えはアラブ世界が団結して戦った第3次中東戦争以降支持されるようになり、アラブ世界では、イラクシリアのようなバアス党による社会主義化が行われた国も現れたし、リビアのような独自の社会主義路線をとる国も現れた。

日本への影響

ベトナム戦争は、高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えた。ベトナム戦争の期間中、7年6か月間に亘って、日本の内閣総理大臣を務めた佐藤栄作1964年秋 - 1972年春)は、日米安保条約の下、開戦当時はアメリカ合衆国による沖縄統治下だった沖縄県横須賀横田などの在日米軍基地の提供や、兵站補給基地としてアメリカ合衆国連邦政府を一貫して支え続け、1970年には安保条約を自動延長させた。

当時新左翼を含めて、ベトナム戦争反対派は「70年安保闘争」と並ぶ運動の中核とみなし、一般市民によるベトナム反戦運動やアメリカ軍脱走兵への支援をおこなったほか、自らの「反戦」運動や、新東京国際空港などインフラストラクチャー破壊活動を伴う、過激な学生運動成田空港問題)も盛り上がりを見せた。

ただし、南ベトナム解放民族戦線を支持する第四インターナショナルベトナムに平和を!市民連合等と、反スターリン主義の立場から北ベトナム政権不支持を主張し、ベトナム戦争反対を掲げた日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派革命的共産主義者同盟全国委員会等とでは温度差があり、同床異夢の感があった。なおソ連崩壊後に公表されたソ連の史料により、ベトナムに平和を!市民連合はKGBから支援を受けていたことが発覚している。

また、ベトナム戦争終結後、1989年冷戦終結までの間に、共産主義政権を嫌い、漁船などを用いて国外逃亡を図った難民ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。また、同時期にベトナム国内の華僑[要出典]の計画的な追放も発生し、後の中越戦争のきっかけの一つなった。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民が居なくなった2016年現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。なお「ボート・ピープル」は、大部分が華僑[要出典]であったことが、使用言語などから分かっている。