百年戦争【英仏】116年?1337年 - 1453年【目次】

 

背景

詳細は「百年戦争の背景」を参照

百年戦争の原因は、14世紀ヨーロッパの人口、経済、そして政治の危機にある。遠因はイングランド王国(プランタジネット家)とフランス王国(ヴァロワ家)とのギュイエンヌ、フランドル、スコットランドにおける対立によってもたらされた。戦争の正式な理由はカペー家の直系男児の断絶である。

フランス王位継承問題

百年戦争前のフランス王家の家系図

987年ユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは1328年フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。

ギュイエンヌ問題

1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット朝の版図(赤)とフランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄)

プランタジネット・イングランド王朝の始祖ヘンリー2世は、アンジュー伯としてフランス王を凌駕する広大な地域を領地としていたが、ジョン(欠地王、ヘンリー2世の末子)の失策とフィリップ2世(尊厳王)の策略によって、13世紀はじめまでにその大部分を剥奪されていた。大陸に残ったプランタジネット家の封土はギュイエンヌ公領のみであったが、これは1259年にジョンの息子ヘンリー3世ルイ9世(聖王、フィリップ2世の孫)に臣下の礼をとることで安堵されたものである。

このため、フランス王は宗主権を行使してしばしばギュイエンヌ領の内政に干渉し、フィリップ4世(端麗王)とシャルル4世は一時的にこれを占拠することもあった。イングランドは当然、これらの措置に反発し続けた。

フランドル問題

フランドルは11世紀頃からイングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心として栄え、イングランドとの関係が深かった。フランス王フィリップ4世は、豊かなフランドル地方の支配を狙い、フランドル伯はイングランド王エドワード1世と同盟し対抗したが、1300年にフランドルは併合された。しかしフランドルの都市同盟は反乱を起こし、フランスは1302年金拍車の戦いに敗北し、フランドルの独立を認めざるを得なかった。しかし、1323年に親フランス政策を取ったフランドル伯ルイ1世(ルイ・ド・ヌヴェール)が都市同盟の反乱により追放されると、フィリップ6世は1328年にフランドルの反乱を鎮圧してルイ1世を戻したため、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態が続いていた。

スコットランド問題

13世紀末からイングランド王国はスコットランド王国の征服を試みていたが、スコットランドの抵抗は激しく、1314年にはバノックバーンの戦いでスコットランド王ロバート・ブルースに敗北した。しかし、1329年にロバートが死ぬと、エドワード3世はスコットランドに軍事侵攻を行い、傀儡エドワード・ベイリャルをスコットランド王として即位させることに成功した。このため、1334年にスコットランド王デイヴィッド2世は亡命を余儀なくされ、フィリップ6世の庇護下に入った。エドワード3世はデイヴィッド2世の引き渡しを求めたが、フランス側はこれを拒否した。エドワード3世は意趣返しとしてフランスから謀反人として追われていたロベール3世・ダルトワを歓迎し、かねてより険悪であった両者の緊張はこれによって一気に高まった。