薔薇戦争
Battle of Barnet retouched.jpg
バーネットの戦い(1471年)。同時代に近い時期のフランドル人による絵画。
戦争:薔薇戦争
年月日:1455 – 1485/1487
場所イングランドウェールズカレー
結果:ランカスター家とヨーク家の和解によるテューダー朝の成立
交戦勢力
Yorkshire rose.svg ヨーク家 Lancashire rose.svg ランカスター家
指導者・指揮官
Arms of Richard of York, 3rd Duke of York.svg ヨーク公 †
 ラットランド伯 †
 ソールズベリー伯 †
 エドワード4世
 ウォリック伯「キングメーカー」(離反) †
 クラレンス公 
 モンターギュ侯(離反) †
 フォーコンバーグ卿
 第2代リヴァーズ伯 
 ヘイステングス卿 
 エドワード5世 #
 ヨーク公リチャード #
 リチャード3世 †
 第2代バッキンガム公(離反) 
 ノーフォーク公 †
 リンカーン伯 †
 ラヴェル子爵

ランバート・シムネル
パーキン・ウォーベック 
 ヘンリー6世  #
 マーガレット王妃
 エドワード王太子 †
 第2代サマセット公 †
 初代バッキンガム公 †
 第2代ノーサンバランド伯 †
 第3代サマセット公 
 エクセター公 #
 オウエン・テューダー卿 
 ベッドフォード公
 クリフォード卿 †
 第3代ノーサンバランド伯 †
 ウィルトシャ―伯 
 シュルーズベリー伯 †
 アンドリュー・トラロップ卿 †
 第4代サマセット公 
 オックスフォード伯    
 ヘンリー7世
 ダービー伯
 ウィリアム・スタンリー卿(離反) 

 

薔薇戦争

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薔薇戦争(ばらせんそう、: Wars of the Roses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱である。共にプランタジネット家の男系傍流であるランカスター家ヨーク家の、30年に及ぶ権力闘争である。最終的にはランカスター家の女系の血筋を引くテューダー家ヘンリー7世が武力でヨーク家を倒し、ヨーク家の王女と結婚してテューダー朝を開いた。

 

目次

1概要
2名称とシンボル
3背景
3.1百年戦争とランカスター朝の成立
3.2ヘンリー6世の治世
3.3大貴族と軍隊
4第一次内乱
4.1第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日
4.2戦闘の再開と合意令
4.3ランカスター軍の反撃
4.4ヨーク派の勝利
4.5エドワード4世の即位とランカスター派掃討
4.6第一次内乱関係図表
5第二次内乱
5.1ウォリック伯の反乱
5.2ヘンリー6世の復位と死
5.3第二次内乱関係図表
6第三次内乱
6.1リチャード3世の簒奪
6.2バッキンガム公の反乱
6.3ボズワースの戦い
6.4ヘンリー7世の即位とヨーク派の反乱
7戦後
8題材とした作品
8.1シェイクスピアの史劇
8.2その他
9年表
10略系図
11脚注
11.1注釈
11.2出典
12参考文献
13関連書籍
14外部リンク
 

概要

1455年5月にヨーク公リチャードヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年テューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある[1])、プランタジネット家傍流のランカスター家ヨーク家の間で戦われた権力闘争である。ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く家柄であった。

ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇をバッジ英語版)(記章)[n 1]としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、この呼び名は後世のこととされる[2]

百年戦争中に、ランカスター家はプランタジネット朝を倒してランカスター朝を成立させていた。1422年、フランス王に対する勝利を重ね百年戦争における優位を確立したランカスター朝二代のヘンリー5世が死去し、生後9ヵ月のヘンリー6世がイングランド王に即位した。1430年代以降、大陸での戦況が不利になるとフランスから嫁いだ王妃マーガレット・オブ・アンジューサマセット公エドムンド・ボーフォートをはじめとする国王側近の和平派(ランカスター派)とプランタジネット家傍流のヨーク公リチャードを中心とした主戦派(ヨーク派)とが権力闘争を繰り広げるようになった[n 2]。イングランドは百年戦争に敗れ、ヘンリー6世は精神錯乱を起こして闘争を収拾できなかった。両派は対立を深め、1455年第1次セント・オールバーンズの戦いで両派間に火蓋が切られた。以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。

勝利したヨーク公は権力を掌握するが、マーガレット王妃率いるランカスター派の巻き返しを受けてヨーク派が窮地に陥ると1459年に戦いが再開した。1460年ノーサンプトンの戦いでヨーク派が勝利してヘンリー6世を捕らえ、ヨーク公は王位を目前にするものの、スコットランドの援助を受けたマーガレット王妃の反撃を受けてウェイクフィールドの戦いで戦死した。1461年、マーガレット王妃はウォリック伯リチャード・ネヴィルを破ってヘンリー6世を奪回するが、ロンドンの占領に失敗する。ヨーク公の嫡男エドワードがウォリック伯と合流してロンドンに入城し、新国王エドワード4世に推戴されてヨーク朝が成立した。タウトンの戦いでヨーク派が大勝し内戦の勝敗は決した。1465年にはヘンリー6世も捕らえられ、幽閉されている。(第一次内乱

王位に就いたエドワード4世であったが、成立した政権は不安定であった。エドワード4世は身分違いのエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を独断専行させ、ウッドヴィル一族を重用したこと、そして外交政策の意見の相違からウォリック伯の反逆を招いた。1469年にウォリック伯は王弟クラレンス公ジョージとともに反乱を起こしてエドワード4世を一時屈服させるが、翌1470年にエドワード4世が両人を反逆者と宣告すると国外逃亡を余儀なくされた。

ウォリック伯は宿敵であったマーガレット王妃と和解してランカスター派と手を結び、イングランドに上陸してエドワード4世を国外に追いやり、ヘンリー6世を復位させた。だが、エドワード4世はブルゴーニュ公の援助を受けて、翌1471年にイングランドへ攻め入り、バーネットの戦いでウォリック伯を敗死させ、さらにテュークスベリーの戦いでランカスター軍を打ち破ってマーガレット王妃を捕らえた。ヘンリー6世とエドワード王子は殺害され、ランカスター家の王位継承権者はほぼ根絶やしにされた。(第二次内乱

1483年に再び転機が訪れた。エドワード4世が急死すると、王弟グロスター公リチャードはエドワード4世の幼い遺児エドワード5世と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経てリチャード3世として即位する。リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱した。フランスに亡命していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年に兵を率いてイングランドに上陸すると、ボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破った。(第三次内乱

ヘンリー・テューダーはヘンリー7世として即位するとエドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨークと結婚してヨーク家と和解し、新たにテューダー朝が開かれた。