ベトナム戦争 ⅩⅦ:20年戦争:ラオス侵攻・北爆再開 

 

米中接近とパリ和平協定調印

パリ和平協定への調印を行うアメリカのロジャーズ国務長官

上記のように、就任以前から泥沼化していたベトナム戦争からの段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年1月の大統領就任直後よりヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との和平交渉を開始させたが、幾度も暗礁に乗り上げて、さらに1972年の北爆の再開などにより交渉は難航した。

1972年2月に、ニクソン大統領は北ベトナムの主な支援国の1つである中華人民共和国を訪問し、毛沢東主席および周恩来首相と会談する。この前年の7月にニクソン大統領はキッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官を中国に派遣して周恩来首相と極秘に会談を行わせていた。両国はこの時から関係強化を目指して幾度となく交渉を重ねていた。ニクソン大統領が中国を訪問したことは、当時ソ連と対立していた中国に近づくことで対ソ連外交での中国カードを持つのみならず、中国が国境を接する北ベトナムや、同じくポル・ポトを軍事的に支援し深い関係を持つカンボジアに影響力を持っていることで、米中接近がベトナム戦争でニクソン政権が望む名誉ある撤退と今後の東南アジアへの米国の影響力を確保することを目指していたと考えられる。中華人民共和国としても、ニクソン政権下でソ連と友好的な関係を保っていた米国と接近することは、文化大革命が最も激しい時期であった1969年に勃発したダマンスキー島事件以降、関係が極度に悪化していたソ連を牽制すると同時に文化大革命以後停滞していた中国外交の主導権を取り戻すという意味があった。ただ極秘裏で行われたキッシンジャーの訪問後に、中国国内で文革推進の旗頭であった林彪の失脚・亡命・墜落死という事態を生じ、毛沢東の高齢化、中国共産党内での周恩来の実権掌握が明らかになり、やがて鄧小平の復活と近代化路線が前面に現れてくることで、この米中接近は中国にとっても大きなターニングポイントとなった。

北ベトナム政府は、米中両国の接近を「自国に対する中華人民共和国の裏切り行為」と受け止めた。以後、北ベトナム政府は中華人民共和国と対立するソビエト連邦との関係を強化し、北ベトナムと中華人民共和国との関係悪化は決定的になった。なお戦争終結後、北ベトナム政府は国内の中国系住民(華僑)への抑圧政策を開始し、1979年に勃発した中越戦争の遠因となった。

パリ和平協定

アジア各国を取り巻く状況が目まぐるしく推移する中、1972年秋頃に秘密交渉が持たれて合意に向けた動きが加速し、和平交渉開始から4年8か月経った1973年1月23日に、フランスのパリに滞在する北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官の間で、和平協定案の仮調印にこぎつけた。そして4日後の1月27日に、南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官、北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間でパリ協定が交わされた。

なお、この「和平協定」調印へ向けて様々な調整を行った功績を称え、レ特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官にはノーベル平和賞が贈られたが、レ特別顧問は、「ベトナム戦争が終結していないこと」「ベトナム統一が実現していないこと」「ベトナムにまだ平和が訪れていないこと」を理由に、受賞を辞退した。