ベトナム戦争 ⅩⅤ:20年戦争:ニクソン政権・中ソ対立の激… 

 

カンボジア侵攻

詳細は「カンボジア作戦」を参照

カンボジア戦線に展開するアメリカ軍の戦車

カンボジア戦線の説明を行うニクソン大統領

南北ベトナムの隣国のカンボジアでは、1970年3月に、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にあり「容共的元首」であるとしてアメリカが嫌っていたノロドム・シハヌーク国王の外遊中に、シハヌークの従兄弟のシソワット・シリク・マタク殿下(副首相)とロン・ノル国防大臣の率いる反乱軍がクーデターを決行し成功させた。反乱軍はその後ただちにシハヌーク国王一派を国外追放し、シハヌークの国家元首からの解任と王制廃止、共和制施行を議決し、ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立と「クメール共和国」への改名を宣言したが、反乱にはアメリカの援助を受けたという説がある。

このような状況の中、1970年3月29日、北ベトナムはカンボジアに対する攻撃を開始した。この侵攻の理由であるが、公開されたソ連邦時代の記録文書から明らかになったところによると、この攻撃はクメール・ルージュヌオン・チアからの明確な要求によって行われたとされている[124]。北ベトナム軍はカンボジア東部を瞬く間に蹂躙し、プノンペンの24km以内に迫った。カンボジア軍を破った後、北ベトナム軍は獲得した地域を地元の武装勢力へと引き渡していった。一方、クメール・ルージュは北ベトナム軍からは独立して活動し、カンボジア南部および南西部に「解放区」を打ち立てた。この後、ロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者であるポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦1970年 - 1975年)が始まった。

なお、ロン・ノル政権は、北ベトナムへの対応措置として、カンボジア在住のベトナム人への収容・虐殺を行い、多くのベトナム人が殺されたり南ベトナムに避難し、ロン・ノル政権は、南北ベトナムから強く批判された。

さて、北ベトナムのカンボジア侵攻に対して、4月26日には、南ベトナム軍とアメリカ軍が、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シハヌーク・ルート」の遮断を目的として、ロン・ノルの黙認の元、カンボジア東部領内に侵攻した。この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することで、泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くことが目的とされている。

カンボジアに侵攻した南ベトナムとアメリカの連合軍は、圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々とカンボジア領内から撤退した。しかし同年末には両ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早々と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。

なお、クーデターによってカンボジアを追放されたシハヌークは中華人民共和国の首都である北京に留まり、そこで中国共産党政府の庇護の下、亡命政権の「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、親米政権であるロン・ノル政権の打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国の毛沢東周恩来、かねてより懇意だった北朝鮮金日成らの説得によりクメール・ルージュらと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。

ラオス侵攻