ベトナム戦争 ⅩⅠ:20年・195511~:北爆経過人員予…
北ベトナム軍陣地
一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、「ホーチミン・ルート」を使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム解放戦線とともに、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。北ベトナム軍は10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフト製UH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開(ヘリボーン)を可能にしたことで、この戦争の事実上の主力兵器として大量生産されることになる。
イア・ドラン渓谷の戦い
1965年11月14日に、アメリカ軍はカンボジア国境から東11Kmの地点にあるイア・ドラン渓谷(英語版)を中心とした数カ所に、初めてベルエアクラフトUH-1を使って陸戦部隊を展開させた(イア・ドラン渓谷の戦い)。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが初めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。
サーチ・アンド・デストロイ(索敵殺害)作戦[編集]
「ウィリアム・ウェストモーランド」および「:en:William Westmoreland#Vietnam」も参照
アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入し、ヘリボーン作戦や森林戦を展開する。村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、殲滅するサーチ・アンド・デストロイ作戦(英語版)(索敵殺害作戦[112])は、ヘリコプターや航空機から放たれたナパーム弾などによる農村部への無差別攻撃や、アメリカ軍・韓国軍兵士による村民への暴行、殺戮、強姦、略奪を引き起こすこととなった。アメリカ軍はゲリラ戦術のエキスパートである蔡命新に率いられた韓国軍による対ゲリラ戦術に対して批判的であったが、後に韓国軍の戦術を採用するようになった[117]。
1966年、en:Operation Attleboro(ビンズオン省Dau Tieng、9月14日 - 11月24日)。
1967年、en:Operation Junction City(タイニン省、2月22日 - 5月14日)。
1967年、en:Operations Malheur I and Malheur II(クアンガイ省、5月11日 - 8月2日)。
韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺
1965年10月にベトナムに上陸した韓国軍は同年12月から翌1966年1月までにビンディン省プレアン村、キンタイ村などを掃討、九つの村には化学兵器を使用し、また同時期にプウエン省のタオ村で女性市民42人全員を殺害した。
1966年1月1日から4日にかけてブン・トアフラとヨビン・ホアフラ地方では市民の財産を略奪したり、カオダイ教寺院を焼き払い、仏教寺院から数トンの貨幣を横領した[112]。ナムフュン郡では老人と女性7人を防空壕のなかでナパームとガスで殺害し、アンヤン省の三つの村では110人、ポカン村では32人以上の市民を虐殺した[112]。
さらに韓国軍は1966年1月11日から19日にかけて、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省で400人以上のベトナム人市民[112]を、1月23日から2月26日にかけては同ビンディン省で韓国軍が市民1,200人を虐殺した(タイヴィン虐殺)
1966年2月にはベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍猛虎部隊が住民65人を虐殺(タイビン村虐殺事件)、さらに2月26日には同ビンディン省で住民380人を虐殺したゴダイの虐殺が発生する。韓国軍は女性137人、老人40人、子供76人を防空壕のなかへ押し込め、化学薬で殺害したり、目を潰したといわれる。
1966年3月26日から28日にかけて韓国軍はビンディン省の数千の農家と寺院を炎上させ、老若とわず女性を集団強姦した。同年8月までに韓国陸軍はビンディン省における焦土作戦を完了した。さらにブガツ省では3万5千人のベトナム人が「死の谷」で虐殺された。
1966年9月3日には韓国陸軍第9師団(通称:白馬部隊)[注釈 5]もベトナムに上陸する。
同1966年10月には共同作戦中の米軍と韓国軍(猛虎師団、青龍師団、白馬師団等)が、ベトナム市民の結婚の行列を襲撃し、花嫁を含め7人の女性を強姦し、宝石を奪い、3人の女性を川の中へ投げ込む暴行事件が発生。その後、メコン川流域で19人の少女の遺骸が発見される。
1966年10月9日、大韓民国国軍によるen:Dien Nien-Phuoc Binh Massacre。
12月6日、大韓民国国軍によるen:Binh Hoa massacre。
一連の韓国軍のベトナムにおける活動について韓国政府は1967年5月、アメリカが与えてくれた援助に対する「お返し」の意味と、またこのような韓国軍の活躍は、韓国民に対して韓国がアジア平定に寄与するという誇りの感情を与えるもので、またアメリカとの交渉においても韓国の立場を向上させるものである、と記者会見で答えている。また、アメリカ陸軍特殊部隊群の一員としてベトナム戦争に従軍した三島瑞穂は、韓国軍について軍規の徹底、軍上層部の統率力という点で、アメリカ軍とは比較に出来ないほど優秀だったと言い、韓国軍は大任を果たして、満足感を堪能しながら故国に凱旋しただろうと述べている。また、ソンミ事件などの不祥事については、目に見えないゲリラが相手なので少々のラフプレイは仕方ないことだったとも述べている。 2015年10月の朴大統領訪米に際して、韓国軍の被害にあったベトナム人女性らが韓国政府の謝罪と賠償を求めてウオールストリートジャーナルに広告を掲載した。
韓国海兵隊による「索敵殺害」