大航海時代 Ⅱ【中半】15C中~17C中/十字軍国際交流発…
アメリカ大陸進出
クリストファー・コロンブスの4度に渡る中央アメリカへの航路
同じころ、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西周りインド航路を開拓しようと1484年、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。
ポルトガルに遅れをとっていたスペインは1486年、フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)と、その妻イサベルがコロンブスの計画を採用し1492年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がバルセロナ港から西に出港した。1492年10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。
スペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出すると豊富な金銀に目をつけた。インカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くした。アメリカ航路開拓に遅れをとっていたポルトガルも、1500年、カブラルがブラジル[9]に到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した。
世界周航
スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼラン(マガリャンイス)はスペイン王・カルロス1世の援助を得て1519年8月、セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。1520年10月、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521年にフィリピン諸島に到着した。マゼランはフィリピン中部のマクタン島で住民の争いに加担し、同年4月27日に酋長ラプ・ラプによって殺された。その後、部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が航海をつづけ、1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。帰ってきたのは18名であった。
スペインはこの後もメキシコ(ノビスパン)から太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは1571年メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は1542年、フィリピン諸島を探検したビリャロボスが、当時スペイン王子であったフェリペ(のちのフェリペ2世)にちなみ、これらの諸島を「フィリピナス諸島」と呼んだことに由来する。
ポルトガル・スペイン間の条約締結
トルデシリャス条約 (紫) 及びサラゴサ条約 (緑) の境界線
ポルトガル海上帝国の貿易ルート (青) 及び競合するマニラ・ガレオンの貿易ルート (白)
ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。
ヨーロッパ北部諸国による探検
ヨハネス・ケプラーによる、ルドルフ表に基づいて描かれた1627年当時の世界地図。
ポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させ、ようやく航海や探検の後押しをする用意が整ったイギリスやフランス、スペインからの独立を果たしたオランダといった後発諸国も盛んに海外進出し、次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していった。こうした後発海運国はトルデシリャス条約によって新領土獲得から排除されることを拒み、独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していった。後発海運国は、ポルトガルやスペインが広大な領土を獲得したにもかかわらず急速に没落していった経験から学んで、慎重かつ綿密な植民地経営を行った。
後発海運国の最初の探検は、イタリア人ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)を雇ったイギリスによる北米探検(1497年)であり、イギリス・フランス・オランダによる一連の北米探検のはじまりとなった。スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央アメリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注いだ努力は限られていた。1525年には、フランスによって派遣されたイタリア人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人ジャック・カルティエは1534年にカナダへの最初の航海を行った。
カボット、ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海は、北アメリカを迂回して豊かな中国やインドに至る最短の大圏航路(北西航路)を探すことが目的だった。この航路は19世紀まで見つかることはなかったが、北西航路探索の過程で北アメリカ大陸の海岸部が明らかとなってゆき、北アメリカ自体に可能性を見出したヨーロッパ人たちは17世紀に東海岸に植民地を築き始めた。イギリスやオランダは、スカンジナビアやロシア、シベリアの北を迂回して中国に至る北東航路の探検も行い、ロシア・ツァーリ国との北海交易を始めたり、捕鯨の拠点となる北極海の島を多く発見したりしたが、やはり氷の海に阻まれアジアへの航路を見つけることはできなかった。ロシアではセミョン・イワノヴィチ・デジニョフが1648年にシベリア東部への探検隊を率い、ユーラシア最東端となる岬(後にデジニョフ岬と命名された)を発見した。
イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋にも航海して独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かした。ポルトガルの最も利益の大きい拠点であるゴアやマカオを、新興諸国の拠点(香港やバタヴィアなど)が包囲し、オランダがインドネシアを勢力圏として香料諸島からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。
新興諸国は、残る未知の地域(北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた地域)もスペインより先に探検した。1606年にはウィレム・ヤンツ(Willem Jansz)が、1642年にはアベル・タスマン(Abel Tasman)などオランダの探検家がオーストラリアを探検している。
こうして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめヨーロッパ各国は、いち早く近代化を達成し世界に覇を唱えた。