軍事史 Ⅱ【中半】古代・中世・近代
産業革命時代
イープルの戦い(1917年)におけるオーストラリア軍兵士
絶対主義国家までの軍隊は傭兵や封建諸侯の所領から徴発された私兵が主体であったが、近代国民国家の形成と共に、愛国心、すなわち国家を自らのものと考え、国家そのものに強い帰属意識を持った市民たちによって構成される国民軍が現れた。アメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)とナポレオン戦争(1803年 - 1815年)は国民軍が活躍した最初の戦争であった。こうした国民軍は自発的な国家への帰属意識に基づいて末端の一兵卒まで自発的軍事行動を取る能力が高いため、前章でも記したように柔軟な部隊運用が容易となった。また、傭兵や封建諸侯の私兵は傭兵隊や所領共同体への帰属意識は強いが国家への帰属意識は弱く、彼らの自発意思は隊や共同体の防衛に対しては強く発揮されるが国家そのものに対してはあまり期待はできない。またこれを指揮する指揮官にしても、傭兵隊や所領の経営が崩壊することを恐れてあまり兵の損耗が激しくなる戦闘は避ける傾向が強かった。これが国民軍主体の軍隊の場合、部隊単位の損得よりも国家の軍事行動全体を考慮した損得で軍事行動を設計することが可能となったのである。
こうして国民軍の軍事的優位が定着すると、ヨーロッパ諸国で市民革命を経験しなかった諸国も、立憲君主制などの体制改革を行い、君主制を維持しながらも愛国心を持つ国民軍を創設する努力が行われた。さらにこれに伴って徴兵制度が普及した。18世紀以前、各国の軍隊が20万人を超えることは多くなかったが、19世紀の軍隊は戦時には100万人単位に膨れ上がった。
こうした国民軍の軍事力と、蒸気船による大兵力の迅速な移動を背景として、火器の時代になっても制圧が困難であったアフロ-ユーラシア世界の諸王朝は次々にヨーロッパ諸国の軍事力に屈し、ヨーロッパ人による本格的な植民地建設の時代が到来した。一部のアジア・アフリカ国家はこれに対抗して国民軍を創設しうる国家改造を行い、中には植民地化、半植民地化を回避することに成功したものもある。日本における明治維新、タイ王国におけるラーマ5世の改革、ケマル・アタテュルクによる近代トルコ共和国の建国がその代表的なものである。
さらに、産業革命によって兵器の大量生産が進み、巨大化した軍隊の装備を可能とした。こうして19世紀以降、戦争は国民国家同士が巨大な軍隊をぶつけ合う総力戦となっていった。アメリカの南北戦争(1861年 - 1865年)は最初の総力戦であったといえる。当時、南北合わせて3,000万人の人口に対して、4年間の戦争に北部は220万人、南部は106万人を動員し、合わせて56万人の戦死者を出した。これは国民軍どうしの衝突が、それ以前の所領共同体や傭兵隊を単位とする軍隊に比べていかに兵士の生命を大量に消耗するものであるかを如実に示している。
兵器も急速な進歩を遂げた。後装式のライフル銃の出現によって防御火力が増大したため、歩兵が戦闘隊形を組むことは自殺行為となり、散兵戦術が主流となった。さらに機関銃の発明によって戦線の突破自体が困難となり、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)は塹壕に篭った両軍が多数の兵士を消耗しあう塹壕戦の様相を呈した。この戦争には戦車、飛行機、毒ガスといった新兵器も投入され、戦死者は900万人にのぼった。
飛行機や、通信機の発達により、制空権の優劣が、戦争全体に重大な影響を持ち始めた。 いくら兵を動員しても、制空権を奪われて一方的に軍備を露呈され、のみならず戦線から補給、生産施設に至るまで破壊されてしまえば、勝利は不可能となった。
このため、動員力に代わり、経済規模と科学技術の優劣が、戦争全体の帰趨に、最大の意味を持つことになる。 航空機や、通信など電子装備の優位な運用には、従来の生産規模、生産技術はもちろん、材料学から電子技術に至る全ての技術で、優位に立つことが求められる。 これらは、厖大な分野に広がるため、軍事予算程度の投資では、優勢を保つことは出来ない。 平時の厖大な再生産の中で経済規模を拡大し、さらにその中で技術と生産、開発の蓄積を行う側が、圧倒的に有利である。
すなわち、これ以降、大兵力を動員し得たとしても、平時に優れた製品を発案、開発し、大量に流通、消費させる事に劣る国が、独力で敵国を打倒する事は、不可能になっていく。 (限定的地域を防衛することは不可能ではないが、守ることしか出来ず、一方的損害を受け、国土、国民に重大な被害が生じる。)
第一次世界大戦に敗れたドイツ軍は、アドルフ・ヒトラーの後押しのもとで機甲師団を中心とする編制に転換した。第二次世界大戦(1939年 - 1945年)では、ドイツ軍は25年前に数年かけて突破できなかったフランス戦線を電撃戦によってわずか数週間で崩壊させた。 しかし、連合国と枢軸国の経済規模の差は隔絶しており、制空権を失い、敗北していくことになった。
この戦争では、爆撃機の発達によって戦略爆撃が実施され、前線の兵士だけでなく後方の一般市民までもが戦禍にさらされた。市民の犠牲の最たる例は14万人の広島市民と7万人の長崎市民が犠牲となった原子爆弾の投下であろう。第二次世界大戦における戦死者および市民の犠牲者は2,000万人を上回ると推定される。
現代
アメリカ軍のM1A1戦車
第二次世界大戦の結果、アメリカとソビエト連邦が超大国として君臨し、冷戦(1945年 - 1991年)が開始された。キューバ危機(1962年)のように戦争の一歩手前まで状況が悪化した例もあったが、両国が保有する核兵器を使用すれば互いの犠牲があまりにも大きくなると考えられたため、核戦争へのエスカレートは避けられた。この状況は恐怖の均衡と呼ばれた。また、大国同士の総力戦は行われなくなった一方で、途上国での民族紛争は頻発し、米ソ両国がそれぞれの当事者を支援して代理戦争の様相を呈することもあった。
冷戦終結後は、電子戦や精密誘導兵器の進歩によって、軍事面での効果の小さい無差別爆撃は行われなくなり、結果として市民の犠牲は減少しているように見える。とはいえ市民の犠牲が無くなったわけではなく、人為的ミスに起因する誤爆や、ルワンダ内戦(1990年 - 1994年)のような虐殺事件も発生している。さらに、世界中に存在する化学兵器は、防護装備を持つ軍隊に対しては効果を与えられないが、市民に対して無差別に使用されれば大きな犠牲を生む。
21世紀には、アメリカ同時多発テロ事件(2001年)や、それに続く アフガニスタン侵攻(2001年)、イラク戦争(2003年)が発生し、軍事史は新たな展開を見せている。
海戦史
詳細は「海戦」を参照
レパントの海戦(1571年)
古代から中世に至るまで、海戦の舞台は主に地中海であった。これは、地中海で早くから海上交易が始まり、周辺の国家にとっては制海権を確保することが重要だったためである。風向きの安定しない地中海では近代に至るまでガレー船が用いられた。戦闘の方法は衝角戦と斬り込みであった。レパントの海戦(1571年)はガレー船同士の最後の海戦となったが、軍艦に大砲が積み込まれ、砲撃戦が海戦を制する契機となった。
大航海時代になると帆船による外洋航海技術が発展し、軍艦も漕ぎ手の必要がなく大砲を多数積み込めるガレオン船が主流となった。当時の大砲は有効射程距離も短く、砲弾も炸裂弾ではなかったために船体破壊能力は低く、トラファルガーの海戦(1805年)までは数百メートルまで接近して撃ち合う戦法が用いられた。それでも砲弾の威力は船体よりもマストや帆綱の破壊、切断に効果を発揮することが期待され、衝角を用いた戦法も船体そのものへの破壊の効果を期待され、すでに艦載砲が炸裂弾を発射するようになっていた19世紀まで使用され続けた。
19世紀に入ると、蒸気船が登場して速力や機動性が向上し、艦載砲の射程距離や砲弾の破壊力が増大した。軍艦には鋼鉄の装甲が施され、日露戦争における日本海海戦(1905年)などの影響もあり大艦巨砲主義が進んだ。第一次世界大戦では、ユトランド沖海戦(1916年)で超弩級戦艦同士の砲撃戦が行われ、潜水艦による通商破壊戦が総力戦の遂行に影響を与え戦局全体を左右した。
20世紀前半には航空機が発達した。第二次世界大戦の真珠湾攻撃(1941年)やマレー沖海戦(1941年)で戦艦に対する航空機の優位が明らかとなり、その後は航空母艦を中心とした機動部隊が海戦の中心となった。第二次世界大戦後は主力艦隊同士の艦隊決戦は発生していないが、フォークランド戦争(1982年)では対艦ミサイルが戦果を挙げている。