彡(゚)(゚)「世界各国の旧君主家の方々」【外半】CPP=…
64: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:51:36 ID:YpD
彡(^)(^)「そして1962年に陛下はスペイン貴族の娘のマルガリータ・ゴメス-アセボ・イ・セフエラと結婚なさったんや!」
(シメオン国王陛下とマルガリータ王妃陛下)
https://www.youtube.com/watch?v=N9JKWTL4ipg
(スイスでの挙式の様子)
彡(^)(^)「そして同年12月にタルノヴォ公爵カルダム殿下が、1964年に次男のプレスラフ公爵キリル殿下が
1965年に三男のパナギュリシテ公爵クブラト殿下が、1967年に四男のヴィーディン公爵コンスタンティン・アセン殿下が
1972年に長女のカリーナ王女殿下がお生まれになられたんや」
彡(゚)(゚)「両陛下はキリル殿下がお生まれになった1964年にレバノン、シリア、ヨルダン、クウェートの
国家首脳の下に訪問され、その後エルサレム総主教庁のベネディクト1世主教の主導で
ボリス3世の記念式典を行い」
彡(゚)(゚)「その後ベツレヘム、ナザレ、ヨルダン川などのキリスト教の聖地に足を運び
更にギリシャ、エチオピア、アメリカに訪問されたで」
彡(゚)(゚)「翌年の1965年は即位10周年。マドリードにて300人の欧州の君主家を構成なさる方々と
君主家の当主の方々を歓迎し、またカルダム殿下とキリル殿下への洗礼も行われたで」
彡(゚)(゚)「また国王陛下は自分の母であるイオアンナ太王妃の資産も管理されとったんや
1952年に太王妃の母であるイタリア太王妃エレナが崩御した際に、エレナは
自分の遺産を娘のイオアンナ太王妃を含めた3姉妹と息子のイタリア国王ウンベルト2世に
分配する意向だったんやが」
彡(●)(●)「イタリア政府がウンベルト2世の分の資産を横領したもんやから
シメオン陛下が姉妹の同意の下で遺産を分配し直したりと苦労もされたで」
彡(-)(-)「まぁそうでなくてもブルガリア人の移民コミュニティの管理をしとったもんやから
金銭面で苦労されとったみたいやけどな」
65: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:52:45 ID:YpD
(´・ω・`)「ブルガリアはあの後どうなったの?」
彡(゚)(゚)「ブルガリアはソ連16番目の共和国と呼ばれる程親ソ連的な国になったんやが
1989年のベルリンの壁崩壊による民主化がブルガリアにも波及してな。」
彡(゚)(゚)「35年間ブルガリアの最高指導者だったトドル・ジフコフは席を追われ、
1931年以降初となる自由選挙が行われてから
同年11月にブルガリア人民共和国はブルガリア共和国に名を改め民主化したンゴ」
彡(゚)(゚)「民主化した後でシメオン陛下はブルガリアとの接触を強めて、1990年にブルガリアのパスポートを取得
また民主化したころからシメオン陛下への国民の期待の声が大きくなっていったそうやで」
彡(゚)(゚)「1993年_ボリス3世が崩御して50年の節目_にイオアンナ太王妃がボリス3世の墓に訪れた際に
何千人の人々がかけつけ太王妃を迎えたで」
彡(゚)(゚)「1995年11月25日にブルガリアの知識人101人の協力でシメオン陛下はブルガリアへの招待状を受取られ・・・」
彡(^)(^)「そして1996年5月25日にシメオン陛下は50年ぶりにブルガリアに帰国なさったんや!」
https://www.youtube.com/watch?v=bP_jFf2kBZk
(帰国なさったブルガリア国王シメオン2世陛下)
彡(゚)(゚)「迎え入れた国民達は“我々は国王を求めている!”と声を挙げていたそうやで」
彡(゚)(゚)「シメオン・マルガリータ両陛下は修道院を巡る巡礼をなされ、6月16日に帰国」
66: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:54:15 ID:YpD
彡(^)(^)「また同年8月に国の最高裁判所はプレスラフ公爵キリルを始めとした
1944年以降に人民裁判所によって有罪判決を下された数十人の首相、議員、公人、軍人の罪状を免除したで」
彡(。)(;)「シメオン陛下の次男のプレスラフ公爵キリル殿下の名はシメオン陛下の叔父のキリルから取ったんやが
シメオン陛下も少しは浮かばれたやろうか・・・」
彡(゚)(゚)「1997年4月16日、タルノヴォ憲法記念日にシメオン陛下は
第二次ブルガリア帝国の首都だったヴェリコ・タルノヴォに訪れ議事堂の前で演説」
彡(-)(-)「翌日の17日にブルガリア大統領ペタル・ストヤノフと会談をされ、
大統領は1946年9月の国民投票は非合法であり、
またソ連の影響下・施政下で行われたものであると明言したで」
彡(゚)(゚)「この際やし1947年に通った二つの法案も説明しないとかんな。一つは土地の大規模な国有化
そしてもう一つが・・・」
彡(●)(●)「ブルガリアの国土に存在する不動産はそこに住みついている人間が所持し、
不動産は子孫が継承・取得するというものや」
(´・ω・`)「? 別に普通に思えるけど?」
彡(-)(-)「そう思うやろ、だがそれが重要なんや。というのも」
彡(-)(-)「旧ブルガリア王国には王室私有の不動産が多数あったんや。挙げていくと・・」
彡(゚)(゚)「ヴラナ宮殿、ツァールスカ・ビストリッツァ(リラ山の麓にある狩猟小屋)
バーニャ村の邸宅、カルロヴォ町、ソフィア宮殿の事務所、ソゾポル町近郊の未開発地
フェルディナント1世の妻のマリヤ・ルイザと長女エヴドキヤが所有していた
サモコフ町の未開発地、首都ソフィアのスラティナ地区
これらの不動産と地方自治体の所有権が国に収用されたんや」
(´・ω・`)「多ッ」
67: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:54:38 ID:YpD
彡(゚)(゚)「1997年初頭に検察は王室の私有財産が収用された件についての正当性を裁判所に申し立て、
1998年6月4日、裁判所は1947年の王室の私有財産没収を棄却する事を全会一致で決定」
(´・ω・)「でも町とかが全部シメオン2世の物になる訳じゃないんでしょ?」
彡(゚)(゚)「せやな。実際にその判決が下された後に陛下は裁判後に返却された92ヘクタールの大きさの公園を
ソフィア市に寄贈したりと全部自分の物にしたわけでは無い」
彡(-)(-)「まぁ没収が棄却されたのは事実やからこの後色々揉める事態になる訳やが・・・それはもう少し後の話や」
彡(。)(;)「2000年2月26日、ポルトガルにて旧ブルガリア王国太王妃イオアンナが御年92歳で崩御」
彡(。)(;)「辛く苦しい時をブルガリアで過ごし、ただ国民の為にキリスト教徒として慈悲を尽くした太王妃の
死にシメオン陛下はひどく悲しまれたで。遺体はイタリアのアッシジの聖フランチェスコ大聖堂に
葬られたンゴ。幼少期の太王妃ゆかりの場所だったそうやで」
(シメオン国王陛下とイオアンナ太王妃)
彡(゚)(゚)「2000年は王室にとって革新の年やった。陛下の長女カリーナ王女殿下は両陛下と共に暮らされる事となり
次男プレスラフ公爵キリル殿下はブルガリア大統領の経済顧問に任命され、
他の子息らも式典が有る度にブルガリアに足を運ばれたんや」
彡(-)(-)「翌年の2001年。スペインで社長や数々の顧問をなさった実績のある陛下に国民の期待は高まっていた
というのもその頃のブルガリアは不況でな 連立政権に対する不満が募っていたんや。
国民の声を受け止められたシメオン陛下はある重大な決断をなさった。それは・・・」
彡(゚)(゚)「6月のブルガリア総選挙に備えて4月に政党を立ち上げられたんや。その名も“シメオン2世国民運動”
陛下は党首になられたで」
(´・ω・)「こりゃまた重大な決断をしたね」
68: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:55:50 ID:YpD
彡(゚)(゚)「シメオン2世国民運動は“800日以内に経済を抜本的に改革し、国民生活を改善する”との公約を掲げて
選挙戦に挑んだ訳やがブルガリア総選挙は6月17日やったから選挙準備期間は二か月ちょっとしか無かった。
やが国民のシメオン陛下に対する期待は準備期間を凌駕していたようや。そして総選挙の結果は・・・」
彡(^)(^)「大勝利!240議席中120議席、全体の42.74%の票を獲得したで!」
(´・ω・`)「おらおでれぇたぞ。シメオン2世ほんとつええなぁ」
彡(^)(^)「与党となったシメオン2世国民運動はシメオン陛下の首相就任を全会一致で決定。
シメオン陛下は人類の歴史上初めての“国民によって首相に選出された君主”となられて
トルコ人政党の“権利と自由運動”と連立政権を組む事になったで」
彡(゚)(゚)「陛下は党を立ち上げる際に“この政党は王政復古を目的としていない”
“王党派政党ではない”と繰り返しおっしゃっておられたんやが
それでも欧米諸国はブルガリアが王政復古するではないかと懸念を抱いてたんや」
彡(-)(-)「例えばアメリカのメディアのThe Timesは2001年4月7日号で
“シメオン元国王が選挙に勝ったら王政復古してヴラナ宮殿から顔を覗かせるだろう”と
抜かしとったしワシントンポストも似たような主張を書いて
日本の新聞がその文を訳して転載した事もあったから、
世界中でシメオン陛下が王政復古されるのか注目してたンゴ」
彡(゚)(゚)「首相となる人物は共和制を掲げるブルガリア憲法に宣誓せねばならんと規定されているんやが
それはつまり宣誓したら王政復古は諦めねばならない。という事でもあるんや
やが陛下は同年7月24日に普通に宣誓なさったで」
彡(-)(-)「後にアメリカのメディアのインタビューで王政復古について問われた際に陛下は
“ブルガリア憲法は同国の君主制の存在を許していないのに
首相権限で再興させるのは無茶というものでしょう。”とおっしゃったで」
彡(-)(-)「シメオン陛下はご自身を“古き時代の国王”と例える程王政復古については
現在でも冷めた対応をなさっているで。」
69: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:56:53 ID:YpD
彡(-)(-)「・・・共和国憲法に宣誓した元首相かつ今でも政治に携わる議員やから
君主制について下手に踏み込んだ発言が出来ないという事情がある事を原ちゃんも分かってくれると嬉しいわ」
(´・ω・`)「うん。その点は理解出来るよ やっぱり王政復古は簡単じゃないんだね」
(首相時代のシメオン陛下)
彡(゚)(゚)「陛下は就任演説で失業率を下げる事、市場経済における財政的安定といった経済の立て直しと
欧州連合と北大西洋条約機構(NATO)への加盟を明言なさったンゴ」
彡(゚)(゚)「そして首相に就任なさったシメオン陛下はEU加盟に必要な29の法案のうち17を2001年11月時点で通され、
同年10月22日にNATO本部に訪問なさり」
(NATO事務総長ジョージ・ロバートソンと握手されるシメオン陛下)
彡(゚)(゚)「2002年に4月に訪米しブッシュ大統領とNATOの件について会談し
第二次世界大戦の時にブルガリアがユダヤ人を救援した事をブッシュ大統領から感謝されたで」
彡(゚)(゚)「2002年5月にイギリスのエリザベス女王陛下の母君にしてイギリス太王妃・旧インド帝国皇后エリザベスが
崩御した際にはシメオン陛下がブルガリア王室の当主として葬儀に招かれたで
もっとも陛下は国王ではなくあくまでブルガリア首相であるとの立場を崩さなかったけどな」