彡(゚)(゚)「世界各国の旧君主家の方々」【中半】CPP=…
https://www.youtube.com/watch?v=_NYvZHl-Ez4
(結婚式の一部始終)
彡(^)(^)「日本からお幸せをお祈り申し上げます」
39: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:01:25 ID:YpD
彡(゚)(゚)「それじゃあ最後にアルバニア王位継承順位を記すで」
彡(゚)(゚)「最初に書いた通りにアルバニアの王位継承法は男系男子限定や。
これは1928年に発布された憲法に明記されとる」
彡(゚)(゚)「それを忠実に当て嵌めるとまず当主がレカ王太子殿下で王位継承第1位、つまり次の当主となられるのは
ゾグ1世の兄ゼラル・ベイ・ゾグの長男スカンデル殿下、第2位が弟のミルギン殿下
第3位がミルギン殿下の長男アレクサンドル殿下、第4位が次男のミシェル殿下
王位継承権保持者は以上や」
(・ω・`)「えっ随分少なくない?」
彡()()「少ない以前の大問題がお歳や。スカンデル殿下が83歳、一番お若いミシェル殿下が50歳
つまりレカ王太子殿下より全員年上なんやわ」
(´・ω・`)「つまりレカ王太子が頑張らないと断絶するって事だね」
彡(-)(-)「今の状態のままだと近い将来そうなるんやが疑問に感じる点があるんや」
彡(゚)(゚)「それは上に記したコソヴォ公爵タティの事や。実はコソヴォ公爵はレカ王太子(レカ1世陛下)が
生誕する前はどうもゾグ1世の王位継承者として扱われてたらしいんやわ」
(´・ω・)「あれ?でもコソヴォ公爵の母親はゾグ1世の妹だけど父親は王族じゃないよね
女系男子であって男系男子ではないじゃん」
40: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:01:58 ID:YpD
彡(゚)(゚)「その通りや。やが王位継承者として扱われていたのは事実やし、将来その事実を挙げて王位継承法を
改正するかもしれへん。その場合_誰を王族扱いするのかはあるけども_20~30人以上
王位継承権保持者は増えるはずや」
彡(゚)(゚)「まぁとにかく今の状態だと王位継承権保持者の人数が限られているのは事実やし、
何等かの処置をレカ王太子殿下らがなされる可能性はあるわな」
彡(゚)(゚)「アルバニア王室関連の公式サイトを提示するで」
Albanian Royal Fmamily - Official Website
(アルバニア王室公式サイト)
http://www.albanianroyalcourt.al/pages/welcome
(アルバニア語、英語)
Princ Leka Facebook
(レカ王太子殿下のFacebook)
https://www.facebook.com/PrincLekaOfficial
(アルバニア語、英語)
彡(゚)(゚)「アルバニア王室の説明は以上とするンゴ」
41: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:05:28 ID:YpD
質問あったら受け付ける
42: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:26:47 ID:YpD
次やるわ 本当はハプスブルク家の事を書きたいんだが
まだ四分の一程度しか出来てないのでブルガリア王室を投下する
旧ブルガリア王国 ザクセン=コーブルク=ゴータ家 国王 継承法:男子限定長幼制
シメオン2世
彡(゚)(゚)「先に説明したレカ王太子殿下はあくまで旧君主家の当主であり、国からは一般庶民として扱われるんやが」
彡(゚)(゚)「シメオン2世陛下は正真正銘君主国の君主、
それも第二次世界大戦が終結する前に即位し、存命の君主はシメオン陛下を含めて御三方のみ」
彡(゚)(゚)「そして人類最後のツァー(ツァーリ)でもあらせられるで」
(´・ω・`)「このザクセンってドイツのザクセンの事?分家?」
彡(゚)(゚)「まぁそれは今から説明するわ」
43: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:27:33 ID:YpD
彡(゚)(゚)「まずザクセン=コーブルク=ゴータ家の本家であるザクセン地方等を
統治していたヴェッティン家は遡ると9世紀ごろに始まったと考えられているで
現存するヨーロッパの王侯貴族では2番目に古い家系で、歴史ある名門と言えるな」
彡(゚)(゚)「その後ヴェッティン家は王侯貴族と婚姻を重ねて地位を高めて領土を広めて行き
選帝侯 神聖ローマ帝国皇帝に対する選挙権を有する諸侯の一つとなったんや」
彡(゚)(゚)「15世紀にザクセン選帝侯フリードニヒ2世が薨去した際に長男のエルンストと次男のアルブレヒトで
領土を分け合い、両者の子孫はそれぞれエルネスティン系、アルベルティン系と分岐したんや」
彡(゚)(゚)「アルベルティン系はポーランド王やザクセン王となり、エルネスティン系は
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国、ザクセン=マイニンゲン公国、ザクセン=アルテンブルク公国
そしてザクセン=コーブルク=ゴータ公国といったそれぞれの君主国を統治する分家を作りだしたんや」
彡()()「ザクセン王家については後に説明はするけど、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ家、ザクセン=マイニンゲン家
ザクセン=アルテンブルク家の説明は割愛したいと思います 申し訳ないですはい」
彡;(゚)(゚)「それでこのザクセン=コーブルク=ゴータ家・・・歴史好きor君主好きは絶対に覚えねばならないと
過言しても良いとわいは思っている」
(´・ω・`)「なんでよ」
彡(゚)(゚)「それはこの君主家が構成員の男子を婿として他国の君主家に波及しその婿の子孫が
その君主家の重要なポジションとなったり、他国の君主として新たな君主家を作り出す事があるからや」
44: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:29:15 ID:YpD
彡(゚)(゚)「イギリス女王ヴィクトリアの王配アルバート(アルブレヒト公子)は
生涯に渡ってヴィクトリア女王を支え続けたし
ブラジル帝室のレオポルディナ皇女はルートヴィヒ・アウグスト公子と結婚し、
長男と次男はブラジル帝位継承者としてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から支援された」
彡(゚)(゚)「ベルギー王国国王レオポルド1世はザクセン=コーブルク=ゴータ家の祖エルンスト1世の弟。
その子孫はベルギー王族として存続している
フェルディナント公子はポルトガル女王マリア2世と結婚し、
フェルナンド2世としてポルトガルの共同統治国王となった」
彡(゚)(゚)「それで話を移すとブルガリアの歴史上最初の君主はアッティラとされとってな
それから色んな君主家が出来ては消え、帝国になったりと混沌としその後オスマン帝国に500年支配されたんや」
彡(゚)(゚)「やが1877年に勃発した露土戦争(ロシア帝国とオスマン帝国の戦争)に
オスマン帝国は敗北し、講和条約によってブルガリアは大ブルガリア公国として独立する事になったんや」
彡(゚)(゚)「その際にドイツのバッテンベルク家(ドイツのヘッセン大公家の貴賤結婚の分家)の
アレクサンダー侯子が選出されブルガリア公爵アレクサンダルとして即位したで」
彡(゚)(゚)「オスマン帝国領の東ルメリ州はブルガリア国民がブルガリアとの統合を要望しており
1885年2月にブルガリア人が民兵を組んで武装蜂起を決行 州都プロブデフを含む州の主要地域を制圧」
彡(゚)(゚)「これを受けてアレクサンダルは東ルメリア州をブルガリア公国に併合した事を宣言
セルビアはこれに反発しブルガリアに宣戦布告したんやがブルガリア軍は
首都のソフィアまで攻めてきたセルビア軍を追い返して逆にセルビアまで攻め込んだんや」
彡(゚)(゚)「オーストリア=ハンガリー二重帝国がこれに仲介して和平条約を締結
戦争はブルガリアの勝利と見なされたんやが肝心の東ルメリア州の扱いは
“ブルガリア公爵アレクサンダルの総督権を認める”程度に留められ、併合は認められなかった」
45: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:30:26 ID:YpD
彡(゚)(゚)「この状況に不満を持った親ロシア派がクーデターを起こした事で
アレクサンダルは七年の統治で退位を余儀なくされ、その後36歳で薨去する」
彡(゚)(゚)「その後ブルガリア公爵位は10か月程空位だったんやが、ブルガリアがロシアに
併合されないようブルガリア首相スタンボロフを始めとしたブルガリア議会が必死に選考した結果、
ザクセン=コーブルク=ゴータ・コハーリ家のフェルディナント公子が
ブルガリア公爵フェルディナント1世として1887年に即位したんや」
(´・ω・`)「コハーリ家?」
彡(゚)(゚)「コハーリ家はハンガリーの名門貴族でな。コハーリ家の法廷推定相続人のマリア・アントニアと
フェルディナント公子の祖父フェルディナントが結婚し、コハーリ家の爵位と領地をフェルディナントが
継承してザクセン=コーブルク=ゴータ・コハーリ家というカトリックの分家が出来たんや」
彡(゚)(゚)「その関係でザクセン=コーブルク=ゴータ・コハーリ家の構成員はオーストリア=ハンガリー帝国で暮らし、
帝国の中でも有名な君主家となったんや。上に書いたポルトガル王室、ブラジル帝室に関係を持ったのが
この分家だというのが著名ぶりを示すエピソードやな」
彡(゚)(゚)「フェルディナント公子は1861年にウィーンで生まれ ポルトガル国王フェルナンド2世の甥
ザクセン=コーブルク=ゴータ公爵エルンスト1世とその弟のベルギー王レオポルド1世の甥孫
親族にイギリスのヴィクトリア女王とその夫君アルバートとまぁそうそうたる人物と血縁があるで」
彡(゚)(゚)「趣味は鳥類観察で23歳の時に鳥類に関する書物を出版し、またドイツ鳥類学会のメンバーでもあったそうや」
彡(゚)(゚)「フェルディナントはオーストリア=ハンガリー帝国陸軍の将校として働いとってな。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と面識がありかつ、
上に書いた通りにヨーロッパ君主家と関係が深かったし申し分のない人間と言えるわな」
彡()()「まぁ実際にはフェルディナント以外のヨーロッパの君主家の人間に断られたというのも理由の一つなんやけどな」
46: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:31:27 ID:YpD
彡(゚)(゚)「それで即位したフェルディナント1世はイギリスのヴィクトリア女王から
“あの子は繊細で変人で女々しいから即位は辞めた方がいい”と言われる存在やったけど」
(´・ω・)「ヴィクトリア女王辛辣にも程があるでしょ・・・」
彡(゚)(゚)「能ある鷹は爪を隠すというか、実際はかなり出来る人物でな
自分を推した大国同士のいざこざを利用してブルガリアの地位を上げようとしたんや」
彡(-)(-)「当時の国の憲法のタルノヴォ憲法は国権の最高機関としての元首、内閣、国会の関係性、
力の強弱が具体的に記述されていなくてな。フェルディナンド1世はその穴を突いて
ある程度の越権・専制が出来たんや」
彡(゚)(゚)「フェルディナント1世は国軍の総司令官に就任し、自身は軍事を国民統合の主要手段と考えていてな
その熱意の甲斐があってか、当時のバルカン諸国で最も発展した軍隊と言われたんや」
彡(゚)(゚)「またブルガリアの国立大学、芸術大学、神学校、技術学校を設立し
更に博物館、動物園、植物園、自然科学研究所を設立」
彡(゚)(゚)「全国に郵便局や電信局も開設し、鉄道網等のインフラも飛躍的に発達したんや」
(´・ω・`)「内政面ではものすごく優秀だったんだねフェルディナント1世」
彡(゚)(゚)「フェルディナント1世は1893年にイタリアのパルマ公国公女のマリア・ルイザと結婚
1894年に長男のタルノヴォ公爵ボリスが、翌年に次男のプレスラフ公爵キリルが生まれたで」
(タルノヴォ公爵ボリス)
47: 名無しさん@おーぷん 2017/04/07(金)00:32:25 ID:YpD
彡(゚)(゚)「1886年以降ブルガリアとロシアは外交関係を断ち、関係が冷え切っていたんやが
フェルディナント1世自身は再びロシアと和解・外交をしたかったんや。
ブルガリアに強硬的なロシア皇帝アレクサンドル3世が1894年に崩御し
ブルガリアに融和的なニコライ2世が即位したんや」
彡(゚)(゚)「ニコライ2世はフェルディナント1世に
タルノヴォ公爵ボリスが東方正教会に改宗するのならば和解交渉をすると約束し
スタンボロフ首相等がロシアとの交渉をした結果
1896年にボリスはカトリックからブルガリア正教会に改宗 洗礼の代父をニコライ2世が受け持ったんや」
彡(゚)(゚)「1908年のボスニア危機の際にフェルディナント1世はオスマン帝国の隙を突いて
ブルガリアの完全独立を宣言。ブルガリア公国を王国とし、
フェルディナント1世はツァール、国王となったんや」
彡(゚)(゚)「フェルディナント1世には野望があってな。それはヨーロッパのオスマン帝国領を
バルカン諸国が占領・分割し、ブルガリアは今よりも多くの領土を勝ち取る計画
“新ビザンティウム”を行おうとしたんや」