三田一族の意地を見よ 作   者:三田弾正

第貳章 小田原編  << 前の話 次の話 >>  6/115  第睦話 救荒作物と煙硝

 

救荒作物として有力なのはジャガイモだが、この時代未だヨーロッパにも入ってきたか来ないか状態でアジアまで届いてないから駄目、トウモロコシも同じだ、サツマイモも同じで、この時代はフィリピンから中国に伝来したのが1594年である事を考えるともしかしたら東南アジアになら有るかも知れない、確実なのは十世紀に南米から流入したらしいニュージーランドになら有るんだが、そこまで行けないので駄目だが、

そうなると、サツマイモには期待だが、それが駄目なら旧来からの救荒作物の粟、稗、黍、モロコシ、蕎麦を植えるしかないな、後は里芋の生産で芋茎を大量生産し保管しておくしかないか、塩も大量に製造しないとだから最初は入り浜式塩田の試験を行って、その後流下式塩田にして竹に海水ぶっかけて蒸発させる方式で行けばかなりの成果が出るはずだ。

あとは、四公六民の税制から四公五民一義に出来たら良いのだが、年貢の一割を義倉に蓄えそれを飢饉の時に放出すれば救荒は可能なはず、日本や中国でも昔は行っていたし江戸期に入ると七部積み金や社倉として復活しているから、この北条家の税制体系なら可能なことだと思うんだが、何せ悪徳代官とかは目安箱による訴えで処罰されているのだから、

武蔵野の開墾だって各地から流れてくる流民を屯田兵として開墾させれば実質そんなに費用も懸からずに最終的にペイできる、多摩川用水を作るとしたら完全コンクリート作りで船運や筏流しが出来る様な水深と幅を持たせて作れば、

用水の南側に村を作って、ズラッと砦状態にすれば、襲われる前に避難が可能になるしコンクリート製の壁も作ろうと思えば作れるし、鉄筋はないけど太平洋戦時中に作った國鉄戸井線のコンクリート陸橋は鉄筋ならぬ竹筋コンクリートで有りながら戦後六十年経ってもビクともしない状態

それにコンクリート自体は作ることが可能だ。青梅や奥多摩や日の出から石灰石を産出すれば、北條氏とても三田家を冷遇する事も無いだろうと思うんだが、如何せん自分の領土にした方が手っ取り早いと動く可能性もあるんだよな。公共の幸せを取るか家族の幸せを取るかって難しいよ。

硝石作りについては、箱根の地熱を利用して硝石穴を恒久的に温める方法を作成し囲炉裏端に穴掘って温める方式との検証実験中、此も爺さんとの話の中で聞き出された物だから、しっかし爺さん凄く聞き上手だ。それに日本最初の人工硝石作りの名誉を取りたいという研究者の好奇心が機密に勝ったと言うか何と言うか。

まあ、馬小屋とか古い民家の床下やトイレから硝石が取れると聞いた時の爺さんの驚き振りは傑作だったね。

「最低五年で翌年からは毎年生産が可能になります」

「それならば、馬小屋、民家の床下、厠の下から土を取り、加工することで煙硝が出来るそうです」

そんな訳で、まず下男や厩番などを動員して、厩屋や古い家の床下の表面の黒土を大量に集め、大桶に入れ、水を加え、含まれている硝酸カルシウムを水溶液として抽出。この水溶液を大鍋で加熱し、これを木灰を入れた桶に注ぐ事により、高濃度の硝酸カリ水溶液となり、これを濾過し煮詰めて乾燥すると粗製の硝酸カリウムが出来ると言う訳で、作業工程見せた氏康殿と爺さんも盛んに頷いていたな。

 

粟、稗、黍、モロコシ、蕎麦を植えるしかないな、後は里芋の生産で芋茎を大量生産し保管

 

水を効率よく揚水するアルキメディアン・スクリューと鞴によって行う自然乾燥方法の原理を説明して実際に番匠の手を借りて製作した所、海水を高所にある塩田へ効率よく揚水出来る上に、濃度の濃い塩水が製造できるようになり塩の生産が何倍にもなり品質も良くなった為、爺さんに賞められた上、分け前を大量にくれたので資金的にホクホクになりました。
 

 

例えば硝石から硝酸を作成するのは、二つの方法があるんだよな。明礬と硝石を混合し蒸留する方法と、硝石と硫黄を燃やしてそれに水蒸気を混入し、硫酸を作成し、その硫酸と硝石を混合して蒸留して、その蒸気を冷やすと硝酸ができるんだから、培養法である程度人工硝石が作成できたらやるしかないな。

硫黄自体は箱根から取れるし、幸いなことに明礬は伊豆半島西海岸の黄金崎の北の宇久須に明礬とガラスの原料である珪石の鉱山が露天掘り可能な状態であるから、其処から採掘すれば良いわけだ。意外と北條家領には鉱物資源が眠っている。

土肥金山もこの時代は未だ発見されていないし、石膏の取れる渋沢鉱山も手つかず。秩父鉱山も未だに未発見と来ている。