伯爵(はくしゃく、英: Count、Earl、独: Graf)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する[1]。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。
目次
1 欧州との対応
2 日本の伯爵
3 イギリスの伯爵
3.1 現存する伯爵家一覧
3.1.1 イングランド貴族
3.1.2 スコットランド貴族
3.1.3 グレートブリテン貴族
3.1.4 アイルランド貴族
3.1.5 連合王国貴族
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
6 関連項目
欧州との対応
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伯爵と訳されることがある欧州の爵位。
Count - 主にロマンス諸語圏における伯爵相当。⇒ 伯#ヨーロッパ大陸参照。
Earl - 英国およびデンマークにおける伯爵相当。⇒ 伯#イギリス参照
Graf - ドイツ(神聖ローマ帝国)およびゲルマン諸語圏における伯爵相当。⇒ 伯#ヨーロッパ大陸参照。
辺境伯 Markgraf
宮中伯 Pfalzgraf
方伯 Landgraf
城伯 Burggraf
など、ドイツではGrafと付く爵位は多数あるが、地位はそれぞれ異なる。
Conde - スペインにおける伯爵相当
日本の伯爵[編集]
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皇族
皇族の臣籍降下に伴って与えられた爵位は侯爵または伯爵である。時期によって叙爵方針に差異が存在する。
皇室典範制定前に様々な事象により離脱した皇族は、宮家から最初に離脱した者でも伯爵に叙された(家教王は、明治維新前に一度臣籍降下し、復籍後再度離脱している)。
上記の例に類似した例として、上野家と二荒家は北白川宮能久親王の落胤として臣籍から一度皇籍に入り、再度臣籍降下して伯爵に叙されている。
皇室典範制定前は明治維新以前の運用方針により四世襲親王家当主以外は臣籍降下し華族に列するとしたが、家教王以外に事例は無く、間もなく典範制定により永世皇族制が採用され原則として男子の臣籍降下は無くなった。上野・二荒の二例は皇族内規を準用した例外的な運用である。
皇室典範が増補された1899年(明治32年)以降臣籍降下制度が典範に正式に制定された。これ以降は原則として離脱した皇族は侯爵に叙されている。
しかし増補後も臣籍降下が進まず皇室財政の圧迫が懸念され「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された1920年(大正9年)以降、降下前の宮家から二人目以降の降下である場合、通常伯爵が与えられた。
伏見宮系 - 清棲家(清棲家教)、伏見家(伏見博英)
北白川宮系 - 上野家(上野正雄)、二荒家(二荒芳之)
山階宮系 - 鹿島家(鹿島萩麿)、葛城家(葛城茂麿)
久邇宮系(多嘉王家含む) - 東伏見家(東伏見邦英)、宇治家(宇治家彦)、龍田家(龍田徳彦)
公家
大納言マデ宣任ノ例多キ[注釈 1]旧堂上(中納言から直接大納言に上った先例がある家)
大臣家 - 嵯峨家(後侯爵)、三条西家、中院家
堂上家 - 飛鳥井家、姉小路家、油小路家、正親町家、勧修寺家、上冷泉家、烏丸家、甘露寺家、滋野井家(後失爵)、四条家(後侯爵)、清水谷家、清閑寺家、園家、中御門家(後侯爵)、庭田家、橋本家、葉室家、東久世家、日野家、広橋家、坊城家、松木家、万里小路家、室町家、柳原家、山科家、鷲尾家
陞爵 - 大原家(大原重朝)、沢家(沢宣量)、壬生家(壬生基修)
武家
徳川旧御三卿、旧中藩知事(現米五万石以上)
御三卿 - 清水徳川家(後爵位返上)、田安徳川家、一橋徳川家
大名家 - 備後福山藩阿部家、筑後久留米藩有馬家、近江彦根藩井伊家、出羽米沢藩上杉家、豊前小倉藩小笠原家、豊前中津藩奥平家、播磨姫路藩酒井家、出羽庄内藩酒井家、若狭小浜藩酒井家、筑後柳河藩立花家、伊予宇和島藩伊達家(後侯爵)、陸奥仙台藩伊達家、陸奥弘前藩津軽家、伊勢津藩藤堂家、美濃大垣藩戸田家、豊後岡藩中川家、陸奥盛岡藩南部家、伊予松山藩久松家、下総佐倉藩堀田家、越中富山藩前田家、越前福井藩松平家(後侯爵)、出雲松江藩松平家、上野前橋藩松平家、讃岐高松藩松平家、越後新発田藩溝口家、大和郡山藩柳沢家、対馬厳原藩宗家、肥前平戸藩松浦家
陞爵 - 肥前大村藩大村家、石見津和野藩亀井家、信濃松代藩真田家、日向佐土原藩島津家、信濃龍岡藩大給家
その他
僧侶(世襲門跡家) - 大谷家(東本願寺)、大谷家(西本願寺)
新華族
国家ニ勲功アル者
勲功者 - 伊藤家(後公爵)、井上家(後侯爵)、大木家、大山家(後公爵)、川村家、黒田家、西郷家(後侯爵)、××家(後侯爵)、副島家、寺島家、広沢家、松方家(後公爵)、山県家(後公爵)、山田家、吉井家
追加 - 板垣退助、大隈家(後侯爵)、勝家、後藤家、伊地知家、小松家、東郷家(後侯爵)
陞爵 - 樺山家、野津家(後侯爵)、陸奥家、土方家、佐野家、桂家(後公爵)、林家、伊東家、奥家、黒木家、小村家(後侯爵)、佐久間家、乃木家、山本家、芳川家、香川家、児玉家、寺内家、渡辺家、長谷川家、内田家、珍田家、伊東家、平田家、牧野家、加藤家、清浦家、後藤家、金子家
朝鮮貴族
韓国併合後に授爵
併合時 - 李址鎔、閔泳璘(後に爵位褫奪)、李完用(後侯爵)
陞爵 - 高羲敬、宋秉畯(野田秉畯)
上記のうち、公家の1及び2、武家の1及び2、新華族の1が1884年(明治17年)の華族制度発足とともに伯爵を授爵された家である。
武家2のうちで太字となっているものは、内規(現米5万石以上)を満たしていないにもかかわらず特別な事情により伯爵を授爵した家である。朝鮮との外交を担ってきた宗家は国主・十万石格の家格をもっていたことが、松浦家は9代藩主松浦清の11女・中山愛子が明治天皇の生母中山慶子の母にあたり外戚であることが、それぞれ配慮されたと言われている。
公家3、武家3、新華族3は勲功によって子爵から陞爵された家である。ただし新華族3において斜字となっている家は男爵から直接伯爵に陞爵された。また新華族2のカテゴリーは、華族制度発足の際には授爵されなかったが、1884年(明治17年)以降に伯爵を陞爵ではなく直接与えられた家を意味している。
貴族院へは伯爵同士の互選により伯爵議員を選出した(華族議員)。
イギリスの伯爵[編集]
伯爵の紋章上の冠
エドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の代にはすでに貴族の爵位の原型があったようである。エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族にデーン人が使っていた称号"Eorl"を与えたという。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった[2]。
確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた[3]。
ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は伯爵(Earl)であり、1072年にウィリアム1世の甥にあたるヒュー(英語版)に与えられたチェスター伯爵(Earl of Chester)がその最初の物である[注釈 2]。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている[2][6]。
14世紀初頭まで貴族身分はごく少数のEarl(伯爵)と大多数のBaron(男爵)だけだった[7]。初期のBaronとは貴族称号ではなく直属受封者を意味する言葉だった[7][8]。Earlのみが、強力な支配権を有する大Baronの持つ称号であった[9]。ヨーロッパ大陸から輸入された公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、子爵(Viscount)が国王勅許状で貴族称号として与えられるようになったことでBaronも貴族称号(「男爵」と訳される物)へと変化していった[9]。
侯爵から男爵までの貴族への敬称は家名(姓)ではなく爵位名にLordをつけて「○○卿(Lord)」とされる(公爵のみは「○○公 Duke of ○○」)。例えばカーナーヴォン伯爵の「カーナーヴォン」は爵位名であって家名はハーバートだが、カーナーヴォン卿と呼び、ハーバート卿にはならない。また日本の華族は一つしか爵位を持たないが、イギリスでは一人で複数の爵位を持つことが多い。中でも公爵・侯爵・伯爵の嫡男は当主の持つ従属爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する[10]。
現存する伯爵家一覧