7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。
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1 できごと
1.1 600年代
1.2 610年代
1.3 620年代
1.4 630年代
1.5 640年代
1.6 650年代
1.7 660年代
1.8 670年代
1.9 680年代
1.10 690年代
2 時代の動向
2.1 東アジア
2.1.1 大陸
2.1.2 朝鮮半島
2.1.3 日本
2.2 西アジア
2.3 南アジア
2.4 東南アジア
2.5 ヨーロッパ
3 人物
3.1 イスラム世界
3.2 キリスト教世界
3.2.1 フランク王国
3.2.2 ローマ教皇
3.2.3 イングランド・アイルランド
3.2.4 西ゴート王国
3.2.5 ブルガリア
3.2.6 東ローマ帝国
3.3 イラン
3.4 インド・チベット
3.5 東アジア
3.5.1 隋
3.5.2 唐
3.5.3 渤海
3.5.4 朝鮮
3.6 日本
4 フィクションのできごと
5 脚注
6 関連項目
できごと
600年代
詳細は「600年代」を参照
601年
厩戸皇子(聖徳太子)が斑鳩宮を造る。任那回復のため、高句麗と百済に遣使する。
カンタベリーに大司教座が設置され、カンタベリーのアウグスティヌスが初代大司教に就任する。
602年
東ローマ皇帝マウリキオスがフォカスに帝位を簒奪され処刑される。
撃新羅将軍を任命し、国造・郡司らの軍2万5千を動員する。
603年 - 新羅攻撃を中止する。小墾田宮に遷る。冠位十二階を制定する。
604年
冠位十二階制を施行する。厩戸皇子が十七条憲法を作る。朝礼を改める。
隋で煬帝が即位する。
605年 - 隋の煬帝が大運河の建設を命じる。
606年
ハルシャ・ヴァルダナが北インドにヴァルダナ朝を建国。
アクイレイア総大司教がアクイレイアのランゴバルド派とグラードのラヴェンナ派(東ローマ派)に分裂する。
607年
第2回遣隋使として小野妹子が派遣される。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」。
ランゴバルド王アギルルフォが王妃テオドリンダの勧めでカトリックに改宗する。
王妃テオドリンダにより「ロンバルディアの鉄王冠」が整備され、モンツァ大聖堂が造営される。
国ごとに屯倉を置く。
法隆寺が創建される(『上宮聖徳法王帝説』ほか)。
608年
小野妹子が隋使裴世清らとともに帰国する。隋使が朝廷に参内し帰国する。
同年、小野妹子は再び隋に遣わされる。この時に高向玄理・旻・南淵請安ら8人留学する。
東ローマ皇帝フォカスがローマ教皇ボニファティウス4世にパンテオンを奉献。
この記念にフォロ・ロマーノにフォカスの記念柱が建てられる(ローマ皇帝によるローマ市の記念物としては最後のもの)。
カルタゴ総督ヘラクレイオス(父)が東ローマ皇帝フォカスに反乱を起こす。
609年
小野妹子ら帰国する。
教皇ボニファティウス4世がローマのパンテオンを聖母と諸聖人のために奉献する。
610年代[編集]
詳細は「610年代」を参照
610年
隋に使を派遣する。
カルタゴからヘラクレイオス(子)がコンスタンティノポリスに進軍。
フォカスが処刑され、ヘラクレイオスが東ローマ皇帝に即位(ヘラクレイオス朝の成立)。
ムハンマドがイスラム教を興す。
修道士コロンバヌスがフランク王国(ブルグンド)から追放される。
611年 - 隋が高句麗遠征を開始( - 614年)。失敗に終わる。
613年
サーサーン朝のホスロー2世が東ローマ帝国領シリアを占領。翌年にはエルサレムを占領する。
ネウストリア王クロタール2世がアウストラシア摂政ブルンヒルドを倒してフランク王国を統一し、首都をパリに定める。
隋で楊玄感の乱。
614年 - パリ勅令がクロタール2世によって出される。
アウストラシア・ブルグント各分王国では宮宰が国王の代理人となり、その特別な地位が認められるようになる。
617年 - サーサーン朝が東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲。
618年 - 煬帝が宇文化及に殺害され隋が滅亡する。李淵が唐を建国。
618年頃 - コンスタンティノポリスでの都市民への穀物支給の廃止(「パンとサーカス」の終焉)。
620年代[編集]
詳細は「620年代」を参照
621年 - 唐で「開元通宝」の鋳造が始まる。
622年
厩戸皇子が斑鳩宮で死去。
ムハンマドがメディナへ遷る(ヒジュラ(聖遷)- イスラム暦元年)。
東ローマ皇帝ヘラクレイオスがサーサーン朝への反撃を開始。
623年 - アヴァールから独立した西スラブ人がサモ王国(英語版)を建てる( - 658年)。
624年
バドルの戦いでムハンマドのメディナ軍がメッカ軍に勝利。ラマダーン月の始まり。
唐で「武徳律令」が制定され、均田制や租庸調制が定められる。
625年
ウフドの戦いでメッカ軍がメディナ軍に勝利。
イングランド東部イースト・アングリアのサットン・フーの船葬墓からこの年の銘の金貨が出土している。
626年
唐で玄武門の変が起こり、勝利した李世民が第2代皇帝太宗として即位( - 649年)(貞観の治)。
蘇我馬子が死去。
627年 - ハンダクの戦い(塹壕の戦い)でメディナ軍がメッカ軍に勝利。クライザ族虐殺事件が起こる。
628年
推古天皇が死去。
真臘のイシャーナヴァルマン1世が扶南を滅ぼす。
フダイビーヤの和議。ハイバル征服。
サーサーン朝のホスロー2世が暗殺される。
息子カワード2世は東ローマ皇帝ヘラクレイオスと和睦、サーサーン朝の占領地は奪回される。
唐の僧侶玄奘(三蔵法師)がインドへ向けて出発( - 645年)。
629年 - 第34代舒明天皇が即位する。
630年代[編集]
詳細は「630年代」を参照
630年
ムハンマドがメッカを征服。周辺各国にイスラム教への入信を呼びかける(遣使の年)。
東ローマ皇帝ヘラクレイオスがエルサレムに入城。
サーサーン朝から返還された「真の十字架」を奉献する聖墳墓教会を再建。
唐軍により頡利可汗が捕えられ東突厥が滅亡。
唐の太宗は西域諸国から「天可汗」に推戴される。
第1回遣唐使として犬上御田鍬が派遣される。
632年 - ムハンマドが死去。
アブー・バクルが後継のイスラム指導者である初代カリフに選ばれる。リッダ(背教)の戦いが起こる( - 633年)。
634年 - アブー・バクル死去により第2代カリフにウマルが選ばれる。
634年頃 - チャールキヤ朝のプラシーケン2世がナルマダー川の戦いでハルシャ・ヴァルダナの軍を破り南インドの独立を維持する。
635年以前 - クブラト・ハンにより黒海北岸のタマン半島のファナゴリアを中心とする大ブルガリアが成立する。
635年 - ティカルの王子バラフ・チャン・カウィールがドス・ピラスの支配者になる。
636年
ヤルムーク河畔の戦いで、皇帝ヘラクレイオス率いる東ローマ帝国軍がイスラム帝国軍に惨敗。
東ローマ帝国はサーサーン朝から奪回したシリアの領土を再び失う。
フランク王ダゴベルト1世により王家の墓所となるサン・ドニ教会がパリ近郊に設置される。
637年
カディシーヤの戦いで、サーサーン朝がイスラム軍に敗れ、都のクテシフォンを占領される。
「貞観律令」が施行される。
638年
東ローマ皇帝ヘラクレイオスが「エクテシス」を発布。
カリフのウマルにより派遣されたウトバ・イブン・ガズワーンがイスラム最初のミスル(軍営都市)のバスラを建設する。
639年
舒明天皇の命で百済大寺(吉備池廃寺)が建立される(天皇の命による日本初の官寺)。
サアド・イブン・アビー・ワッカースによりミスルのクーファが建設される。
640年代[編集]
詳細は「640年代」を参照
640年
イスラム帝国のシリア地方征服が完了。
唐が麴氏高昌国を滅ぼし、最初の都護府である西州都護府(後の安西都護府)を設置。
640年頃 - 中部ジャワにシャイレーンドラ朝が成立。
641年
舒明天皇が死去。
吐蕃のソンツェン・ガンポ王が唐の文成公主を妃として迎える。
アレクサンドリア包囲戦でイスラム軍が勝利。東ローマ帝国はエジプトを喪失。
東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世死去、後継の皇帝ヘラクロナスとその母マルティナが追放され、コンスタンス2世が即位。
玄奘がハルシャ・ヴァルダナ王臨席のもとカナウジ城での論戦に勝利し、プラヤーガナの「無遮大会」に参加する。
642年
ニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝がイスラム帝国に大敗する。
第35代皇極天皇即位。
高句麗の淵蓋蘇文が栄留王を弑害し、宝蔵王を擁立。
643年
蘇我入鹿が山背大兄王一家(上宮王家)を滅ぼす。
ランゴバルド王国で最初の法典である『エディクトゥム・ロタリ(英語版)』が制定される。
644年 - ウマルが暗殺され、第3代カリフにウスマーンが選ばれる。
645年
玄奘が帰国し長安に到着。
6月12日 - 中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中で暗殺する。蘇我蝦夷は自殺する(乙巳の変)。
皇極天皇が譲位し第36代孝徳天皇が即位。難波宮へ遷都( - 655年)。古人大兄皇子が謀反の疑いで処刑される。
646年
改新の詔を宣する(大化の改新)。大化の薄葬令が出される。
僧道登が宇治橋を架けたと記す日本最古の石碑が建てられる(宇治橋断碑)。
647年 - ハルシャ・ヴァルダナ王の死によりヴァルダナ朝の支配が崩壊し、北インドは混乱状態になる。
648年 - 東ローマ皇帝コンスタンス2世が「テュポス」を発布。
649年 - 蘇我倉山田石川麻呂が讒言により山田寺にて自害する。
650年代[編集]
詳細は「650年代」を参照
650年頃 - スマトラ島にシュリービジャヤ王国が成立。
651年
オクサス川の戦いでサーサーン朝ペルシアが滅亡。皇子ペーローズ3世は唐に亡命する。
イスラム帝国カリフのウスマーンの命令で『クルアーン(コーラン)』正典が編纂される(ウスマーン版)。
「永徽律令」が施行される。
652年
「唐律疏義(永徽律疏)」が編纂され、漢代からの「春秋決獄」が廃止される。
玄奘三蔵がインドから招来した経典や仏像を保存するため長安近郊の大慈恩寺に大雁塔が建てられる。
653年
孝徳天皇と中大兄皇子とが不和になり、中大兄皇子以下は飛鳥に還る。
東ローマ皇帝コンスタンス2世が教皇マルティヌス1世を捕縛しクリミア半島のケルソンに追放する。
654年 - 西ゴート王レケスウィントが属人法を廃止し「西ゴート法典(リベル法典・裁判法典)」を公布する。
655年
皇帝コンスタンス2世率いる東ローマ帝国軍が小アジアのリュキアの海戦(帆柱の戦い)でイスラム帝国軍に惨敗。
唐の高宗の皇后王氏が廃され、武照が皇后に冊立される。
皇極天皇が重祚し、第37代斉明天皇となる。
656年 - ウスマーンが暗殺され、アリーが第4代カリフに選出される。
この選出をめぐりイスラム帝国で第一次内乱が勃発( - 661年)。ラクダの戦いでアーイシャがアリーに敗北。
657年
唐軍により沙鉢羅可汗が捕えられ西突厥が滅亡。高宗のこの時期に唐の領土は最大となる。
スィッフィーンの戦い、アリーとムアーウィアの間で勝敗はつかず。
ドゥーマト・アッ・ジャンダルの和議が結ばれるが、アリーからハワーリジュ派が離反。
658年
有間皇子が謀反の疑いで処刑される。
阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、粛慎を平定する( - 660年)。
東ローマ皇帝コンスタンス2世がバルカン半島南部のスラブ人を制圧。
この時のスラブ人は小アジアに入植させられ、帝国防衛のためのテマ制(軍管区制)の原型が形成される。
660年代[編集]
詳細は「660年代」を参照
660年
新羅と唐の連合軍(唐・新羅の同盟)が百済を滅ぼす。
唐で「皇帝」と「皇后」をそれぞれ「天皇」と「天后」に改名。
661年
カリフのアリーがハワーリジュ派に暗殺される。
シリア総督のムアーウィヤがカリフとなり、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立。
斉明天皇が死去。中大兄皇子は皇太子のまま称制を継続。
モン族のハリプンチャイ王国が成立する。
663年
白村江の戦いで、日本が唐・新羅連合軍に大敗する。
吐蕃の宰相ガル・トンツェンが吐谷渾を征服する。
東ローマ皇帝コンスタンス2世がローマに赴き教皇ウィタリアヌスと会見。
664年 - ウィットビー教会会議が開かれローマ式典礼がケルト式典礼の優位に立つ。
665年頃 - クブラト・ハンが死去し大ブルガリアの部族連合が崩壊する。
北方のヴォルガ川中流域にはヴォルガ・ブルガール人、西方のバルカン半島にはドナウ・ブルガール人が拡大する。
667年 - 中大兄皇子が近江国近江宮(大津宮)へ遷都( - 672年)。
668年
東ローマ皇帝コンスタンス2世が滞在中のシチリア島で暗殺される。
高句麗が唐・新羅連合軍に滅ぼされる(唐の高句麗出兵)。
中大兄皇子が即位し、第38代天智天皇となる。
670年代[編集]
詳細は「670年代」を参照
670年
全国的に戸籍をつくる(庚午年籍)。
聖徳太子時代に創建された法隆寺(若草伽藍)が炎上する。7世紀末までに再建がなされる。
ウマイヤ朝軍がチュニジアに進軍し、ケルアン(カイラワーン)市の建設に着手( - 675年)。
671年
唐僧義浄が渡印のため広州を出航し室利仏逝(シュリービジャヤ王国か)に到着。
新羅と唐が対立する(唐・新羅戦争)。
大友皇子が太政大臣となる。
672年 - 天智天皇死去。大友皇子が近江宮の首班となる(第39代弘文天皇)。
壬申の乱で大友皇子を大海人皇子が倒し第40代天武天皇として即位。近江京から飛鳥浄御原宮に遷る。
673年 - ウマイヤ朝海軍がキュジコス半島を前線基地として確保。
ここから東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを678年まで継続して包囲。東ローマ軍はギリシア火でこれを撃退
676年 - 新羅が朝鮮半島を統一。
680年代[編集]
詳細は「680年代」を参照
680年
カルバラーの戦い(カルバラーの悲劇)。
第3コンスタンティノポリス公会議で単意論が排撃される。
唐で皇太子李賢(章懐太子)が廃される。
681年
飛鳥浄御原令の編纂を開始する。
アスパルフが第一ブルガリア帝国を建国し、プリスカを都に定める。
682年 - 東突厥の阿史那骨咄禄が唐の羈縻政策を脱して可汗を名乗り、第二可汗国が成立する。
683年
メッカにてイブン・アッズバイルがカリフを名乗る。
ウマイヤ朝が反乱軍と激突しメッカのカーバ神殿が炎上(アルハッラーの戦い)、第二次内乱( - 692年)が勃発。
マヤのパレンケ「碑文の神殿」の地下室にパカル王が埋葬される。
唐の皇帝高宗が没し、息子の中宗が継ぐ。
684年 - 唐の中宗が退位させられ、睿宗が即位。李敬業の反乱。
686年 - 天武天皇が死去し、第41代持統天皇が即位。大津皇子が謀反の疑いで処刑される。
689年 - 飛鳥浄御原令を発令。
687年 - テルトリーの戦いで、アウストラシア宮宰ピピン2世(中ピピン)がネウストリア宮宰ワラットを倒し、フランク王国の実権を握る。
690年代[編集]
詳細は「690年代」を参照
690年
戸令により庚寅年籍をつくる。第1回伊勢神宮内宮式年遷宮。
唐で高宗の皇后(則天武后)が自らを聖神皇帝と称し「天授」と改元する。
国号を「周」とし唐王朝は一時断絶( - 705年)。洛陽を神都と改称して遷都し、中国各地に大雲経寺を設置。
691年 - 則天武后が「仏先道後」の国是を定め、仏教保護政策を進める。
692年 - ウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクによりエルサレムの岩のドームが完成する(688年 - )。
693年 - ウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクがダマスカスでイスラーム王朝初の金貨(ディナール)を打刻させる。
694年 - 藤原京に都を移す。
695年 - レオンティオスの政変で東ローマ皇帝ユスティニアノス2世が捕縛され、鼻を削がれてクリミア半島ケルソンへ追放される。
697年 - 持統天皇が譲位し、第42代文武天皇が即位する。
698年
ウマイヤ朝のハサン・イブン・アル・ヌゥマーンがカルタゴの戦いで東ローマ帝国に勝利。北アフリカのほぼ全域を制圧。
靺鞨人大祚栄が震国(後の渤海)を建国。