11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。
目次
1 11世紀の歴史
1.1 イスラム圏
1.2 ヨーロッパ
1.3 東アジア・東南アジア
1.3.1 日本
2 できごと
2.1 1000年代
2.2 1010年代
2.3 1020年代
2.4 1030年代
2.5 1040年代
2.6 1050年代
2.7 1060年代
2.8 1070年代
2.9 1080年代
2.10 1090年代
2.11 1100年代
3 フィクションのできごと
4 人物
4.1 キリスト教世界
4.1.1 神聖ローマ帝国
4.1.2 イタリア
4.1.3 フランス
4.1.4 イングランド
4.1.5 スコットランド
4.1.6 北欧
4.1.7 東ローマ帝国
4.1.8 東欧
4.1.9 十字軍国家
4.1.10 イベリア半島
4.2 イスラム世界
4.3 南アジア・チベット
4.4 東南アジア
4.5 東アジア
4.5.1 北宋
4.5.2 遼
4.5.3 西夏
4.5.4 大越
4.6 日本
5 脚注
6 関連項目
11世紀の歴史
イスラム圏
11世紀は、西アジアでトルコ系のイスラム王朝のガズニ朝やセルジューク朝の台頭が著しく、前者は北インドに侵入しインドのイスラム化の契機をつくり、後者は東ローマ帝国を打ち破って、小アジアにまで勢力を伸ばした。北アフリカのモロッコ近辺ではムラービト朝などベルベル人のイスラム王朝の台頭が始まって、レコンキスタを停滞させる一方、サハラ交易で繁栄したガーナ王国を滅ぼした。
ヨーロッパ
東ヨーロッパでは東ローマ帝国が第一次ブルガリア帝国を征服してバルカン半島全土を回復して最盛期を迎えるが、11世紀後半に入ると衰退に転じ、国内の反乱やセルジューク朝、ノルマン人などの外敵に悩まされることになる。西ヨーロッパでは教皇権が伸長する一方、東西教会の分裂が起こっている。また、東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスがローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端で、十字軍の遠征が開始された。
東アジア・東南アジア
東南アジア、南インドでは、1025年を境にシュリーヴィジャヤ王国の衰退と、チョーラ朝、クディリ王国が全盛を極めた。東アジアでは、北宋の経済的繁栄は続くものの、遼や西夏への歳幣の負担と社会的格差の進行が重くのしかかり、王安石の改革が始まった。
日本
日本では平安時代中期から後期の初めにあたる。院政の開始以降を中世に区分する場合がある。11世紀の前半から中葉にかけては、藤原北家による摂関政治が全盛を極めたが、地方では国司苛政上訴が行なわれ、小領主の有力武士が台頭していた。名目的な寄進荘園に課税するなど税の公平さを保つために荘園整理令が行なわれたが、反面ここで公認された荘園はそれまでの公田の中に税の取得権が荘園領主にある農地が散在した形態から一円領域化してまとまった経営領域と化し、国衙に納税する公領と対等の権利主体としての地位を獲得する。ここで荘園と公領の領域などを巡る武力紛争が多発する事態となり、双方の現地管理人として武力紛争への対応能力のある武士が任命されることが多くなり、武士の在地領主化が進行した。11世紀の後半になると藤原氏の力が及ばない後三条天皇の親政が契機となり、院政がはじまった(院政時代)。院政は受領が紛争当事者となることで調停不能になった荘園公領間の紛争の調停者として権力を高め、また院自らも荘園領主として広大な荘園を集積した。こうして荘園と公領が併存して地方社会の統治単位となる荘園公領制はこの院政期を通じて発展していくことになる。
できごと
東ローマ帝国の全盛期。
セルジューク朝トルコの成立と拡張、東ローマ帝国の衰退始まる。
東西教会の分裂と西方でのローマ教皇権の全盛。
十字軍遠征の開始。
ノルマン人の勢力拡大続く。
北インドにガズニ朝侵攻、以後北インドイスラム化へ。南インドのチョーラ朝の全盛。
北アフリカのムラービト朝台頭。
日本では院政の開始。荘園の新立を制止。
英語圏最古の大学であるオックスフォード大学創立。
1000年代[編集]
詳細は「1000年代」を参照
1002年
この頃、紫式部の『源氏物語』が成立。
イングランド王エゼルレッド2世無思慮王が国内のデーン人を虐殺。
1003年 - 寂照が北宋に渡り皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜与される。
1004年
澶淵の盟。
江西省昌南鎮が皇帝真宗の命により景徳鎮と改名する。
1005年 - ファーティマ朝カリフのハーキムがカイロに「知恵の家(ダール・アル・イルム)」を設置。
1006年
おおかみ座に超新星(SN 1006)出現。
明るさは太陽と月を除いて史上最高の-9等級と推定される。後世で藤原定家が『明月記』に記録した他に各国で記録あり。
カラハン朝のユースフ・カディル・ハンが仏教王国ホータン(于闐)を占領する。
ズィヤール朝君主カーブース・ブン・ワシュムギールの命によりゴンバデ・カーブースが建設される。
1007年 - 藤原道長が大和金峯山に埋経をする(金峰山経塚)。
1008年 - 北宋皇帝真宗が泰山で封禅の儀を行う。
1009年 - ファーティマ朝カリフのハーキムの命令でエルサレムの聖墳墓教会が破壊される。
1010年代[編集]
詳細は「1010年代」を参照
1011年 - 一条天皇が譲位し三条天皇が即位する。
1012年 - 宋の皇帝真宗の命で福建省で栽培されていた占城稲(占城米)を江南各地に移植する。
1013年 - デンマーク王スヴェン1世双叉髭王がエゼルレッド2世に勝利してイングランド王になる。
1014年 - クロンターフの戦いで、アイルランド上王ブライアン・ボルがヴァイキングを破り、これ以降アイルランドへの侵入が収束する。
1015年 - キエフ大公ウラジーミル1世死去。その息子スヴャトポルク1世が兄弟のボリスとグレブを殺害して大公となる。
1016年
ジャワのクディリ王ダルマヴァンシャが殺害される。
ノヴゴロド公ヤロスラフ1世が兄弟のスヴャトポルクを倒しキエフ大公となる。
この時期にスラブ民族最古の法典である『ルースカヤ・プラウダ』の「ヤロスラフ法典」が編纂される。
三条天皇が譲位し後一条天皇が即位。外祖父の藤原道長が摂政となる。
1017年
チョーラ朝のラージェンドラ1世がシュリーヴィジャヤ征討の艦隊を派遣。
その途中でチョーラ朝はスリランカ島に上陸して都のアヌラーダプラほか島の大部分を征服。
シンハラ人は首都をアヌラーダプラからポロンナルワに遷都し、以後ここに多くの仏教建築がなされる。
藤原道長が摂政と氏長者を嫡男の頼通に譲る。敦明親王が自ら東宮辞退を申し出る(小一条院)。
1018年
ダンカン1世がストラスクライド王国の王位を継承し、スコットランドのほぼ全域を支配。
バシレイオス2世が第1次ブルガリア帝国を滅ぼし、東ローマ帝国がバルカン半島のほぼ全域を奪回。
ガズニ朝のマフムードがインド遠征でカナウジを占領しプラティハーラ朝を滅ぼす。
藤原道長の娘威子が後一条天皇の后となり、祝宴にて「望月の歌」が詠まれる。
1019年 - 刀伊の入寇。
1020年代[編集]
詳細は「1020年代」を参照
1020年 - 遼と高麗が和平を結び、高麗は遼の服属国となる。
1021年 - ファーティマ朝カリフのハーキムが消息不明となる。
ハーキムの子ザーヒルがカリフとなり、姉シットゥ・アル・ムルクが摂政となる。
1022年 - フランス王ロベール2世の命によりオルレアンで異端者に対する最初の火刑が行われる。
1023年 - 北宋で交子が紙幣として発行される(世界最古の紙幣)。
1025年
チョーラ朝のラージェンドラ1世が再びシュリーヴィジャヤ征討の艦隊を派遣。
ピャスト家のボレスワフ1世が初代のポーランド王に選ばれる。
1027年 - エルヌ教会会議(トゥールージュ会議)で「神の休戦(トレグア・デイ)」が布告される。
1028年
藤原道長が死去。
イングランド王でデンマーク王でもあるクヌートがノルウェーの王位も兼任する(北海帝国の成立)。
平忠常の乱( - 1031年)。
1030年代[編集]
詳細は「1030年代」を参照
1030年 - 神聖ローマ皇帝コンラート2世がシュパイアー大聖堂の建設を命じる。
1031年 - コルドバのカリフであるヒシャーム3世が廃位により追放され、後ウマイヤ朝滅亡。
サラゴサ王国・トレド王国・セビーリャ王国などのムスリム系群小国家(タイファ)が乱立する。
1032年
チベット系タングート族の西平王李徳明の死により李元昊が後を継ぐ。
ブルグンド王家が断絶し、神聖ローマ皇帝コンラート2世がブルグンドを併合。
神聖ローマ皇帝はイタリア王・ドイツ王・ブルグンド王を兼任することになる。
1032年頃
シーア派系民兵組織がシリアのハッラーンを襲いこの地のサービア教徒共同体が壊滅し離散する。
1033年
北宋で皇帝仁宗の郭皇后が廃され、これをめぐり論争が起こる(慶暦の党議)。
1035年
ナバラ王サンチョ3世大王死去。遺領配分からナバラ・カスティーリャ・アラゴン各王国が分裂する。
北海帝国のクヌート大王死去。マグヌス1世がノルウェー王として独立し北海帝国が崩壊する。
1036年
後一条天皇が崩御し、後朱雀天皇が即位。
西平王李元昊が北宋から粛州・瓜州・沙州を奪う。同年に西夏文字を制定させる。
1037年 - クディリのアイルランガ王が東部ジャワ再統一を完成し、カマラギャンに遷都。
1038年
ベーメン公ブレチスラフ1世によりポーランドの都グニェズノとポズナニが略奪される。
ポーランド公カジミェシュ1世が都をグニェズノからクラクフに移動する。
トルコ人トゥグリル・ベクがニーシャープールの戦いでガズナ朝に大勝し、セルジューク朝を興す。
カイラワーンのイブン・ヤーシーンに共鳴した信徒がセネガル川流域で宗教団体ムラービトゥーンを結成。
西平王李元昊が帝号(景宗)を名乗り、西夏が建国される。
1040年代[編集]
詳細は「1040年代」を参照
1040年
マクベスがスコットランド王ダンカン1世を殺害し王位を奪う。
ダンダンカーンの戦いで、セルジューク朝がガズナ朝に勝利しイランに進出する。
1041年 - カラハン朝が東西に分裂。
1042年 - 東ローマ皇帝ミカエル5世が政変で廃位され、ゾエとテオドラの姉妹の皇女が共同女帝に立てられる。
1043年 - 慶暦の改革により范仲淹・欧陽脩らが抜擢される。欧陽脩が『朋友論』を執筆。
1044年 - 慶暦の和約。
1045年
後朱雀天皇が崩御し、後冷泉天皇が即位。
東ローマ帝国がバグラト朝アルメニア王国を滅ぼし都アニを占領。アルメニア人のディアスポラが生じる。
エドワード懺悔王(証聖王)がテムズ川上流にウェストミンスター聖堂を建立( - 1050年)。
1046年 - スートリ教会会議で神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が三教皇の鼎立を終わらせる。
1047年 - 遼の章聖皇太后により内モンゴル自治区慶州の白塔(遼釈迦仏舎利塔)が建立される。
1048年 - ノルマン人が北アフリカのチュニスを占領( - 1058年)。
1050年代[編集]
詳細は「1050年代」を参照
1050年頃 -ソランキー朝の王妃ウダヤマティによりグジャラート州パタンのラーニキ・ヴァヴ(王妃の階段井戸)が造られる。
1051年 - 前九年の役( - 1062年)。
1052年 - 日本ではこの年(永承7年)が末法元年とされた。
1053年 - 藤原頼通により宇治の平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)が建立される。
1054年
コンスタンティノポリスで東西教会の相互破門事件(大シスマ)。
教皇使節フンベルトゥスとコンスタンティノポリス総主教ミカエル1世ケルラリオスの両者によって発生。
7月4日おうし座に超新星(SN 1054)出現。後の「かに星雲(M1)」。
1055年 - セルジューク朝軍がバグダードに入城し、ブワイフ朝の勢力を追い払う。
1056年
ムラービトゥーンのアブー・バクル・イブン・ウマルが指導者となりムラービト朝が成立。
遼の章聖皇太后の弟蕭孝穆により山西省応県の仏宮寺釈迦塔(応県木塔)が建立される。
東ローマ女帝テオドラが死去し、マケドニア朝の血統は断絶。元老院議員ミカエル6世ストラティオティコスが後継の皇帝となる。
1057年 - ランファナンの戦いで、スコットランド王ダンカン1世の子マルカムがマクベスを倒す。
1058年 - セルジューク朝のトゥグリル・ベクがスルタンを称す。
1059年 - 教皇ニコラウス2世により教皇選挙(コンクラーベ)は枢機卿団によってのみ行われることが定められる。
1060年代[編集]
詳細は「1060年代」を参照
1061年 - 東ローマ皇帝ミカエル6世ストラティオティコスが政変で廃位され、イサキオス1世コムネノスが皇帝となる。
1062年 - ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーンにより都マラケシュが造営される。
1063年
北宋で仁宗が死去し、従兄弟の子が即位し英宗となり、濮議が起こる。
吐蕃の禹蔵花麻が西夏に帰属する。
1064年 - セルジューク朝が東ローマ領となっていたアルメニアを占領。
1066年
イングランドでエドワード懺悔王(証聖王)が死去、ハロルド2世が即位。
スタンフォードブリッジの戦い。
ノルウェー王ハーラル3世がイングランド王位を請求して、この戦いでハロルド2世に敗北。
ヘースティングスの戦い。
ノルマンディー公ギヨームがハロルド2世を倒しイングランド制圧、ウィリアム1世として即位(ノルマン・コンクエスト)。
ノルマン・コンクエストを描いた「バイユーのタペストリー」にはこの年に接近したハレー彗星も描かれている。
1067年 - チューリンゲン方伯がヴァルトブルク城を築く。
1068年 - 後冷泉天皇が崩御し、後三条天皇が即位。
1069年 - 北宋で王安石の改革が始まり、制置三司條例司が設置される。
この改革で「熙寧新法」と呼ばれる青苗法(1069年)・市易法(1072年)・募役法(1070年)・その他が施行される。
1070年代[編集]
詳細は「1070年代」を参照
1070年
東チャールキヤ王クロトゥンガがクロトゥンガ・チョーラ1世として即位、東チャールキヤ朝がチョーラ朝を継ぐ形で合併される。
スリランカで国王ウィジャヤバーフ1世がチョーラ朝勢力を追放する。
ノルウェー国王オーラヴ3世ヒッレが交易都市ベルゲンを建設する。
1071年
マンツィケルトの戦い。
東ローマ皇帝ロマノス4世がセルジューク朝スルタンのアルプ・アルスラーンに大敗し捕虜となる。
ロマノス4世の廃位により東ローマ皇帝ミカエル7世ドゥーカスが即位。またこれ以後小アジアにトルコ人が定住し始める。
東ローマ帝国のイタリア最後の拠点バーリがノルマン人に征服される。
ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーンが新都マラケシュを建設する。
1073年 - 後三条天皇が崩御し、白河天皇が即位。
1074年
藤原頼通が死去、上東門院彰子が死去。
セルジューク朝のマリク・シャーが都をエスファハーンに定める。
1075年
ミラノの大火で聖堂が焼失し、その混乱に乗じてパタリア運動の指導者エルレンバルドゥスが暗殺される。
ヴェネツィア元首ドメニコ・セルヴォと東ローマ帝国皇女テオドラの結婚。
北宋と李朝大越との戦い( - 1076年)。
1076年
白河天皇が法勝寺(六勝寺の最初)を建立する。
セルジューク朝がファーティマ朝からエルサレムを奪う。
ムラービト朝がガーナ王国を滅ぼす。
1077年
カノッサの屈辱で、教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の破門を解除。
ルーム・セルジューク朝が成立。
アルフォンソ6世によるサンチアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂建設が始まる( - 1211年)。
ノルマンディーのバイユー大聖堂が奉献される。「バイユーのタペストリー」が完成する。
1078年
東ローマ皇帝ミカエル7世が政変で退位し、ニケフォロス3世が即位。
イングランド王ウィリアム1世がロンドンに要塞を建設する(ロンドン塔の始まり)。
ローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し「公職追放令」を布告する。
1079年 - 蘇軾が「湖州謝表」(『東坡烏台詩案』所収)の筆禍事件で黄州に追放される。
1080年代[編集]
詳細は「1080年代」を参照
1080年
北宋の神宗による元豊の改革。
ブリクセン教会会議で、皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世を廃位し、対立教皇クレメンス3世を擁立。
ルーベンによりキリキア・アルメニア王国が建国される。
1081年
北宋に拂菻国王滅力伊霊改撒の使者が到着する。
滅力伊霊改撒は東ローマ皇帝ミカエル7世かニケフォロス3世を指すと考えられる。
東ローマ皇帝ニケフォロス3世が反乱により退位させられ、アレクシオス1世コムネノスが即位。
コムネノス朝が始まり、軍事貴族の土地所有権・徴税権を大幅に認めるプロノイア制が拡がる。
1082年
東ローマ皇帝アレクシオス1世が金印勅書でヴェネツィアへの免税特権を認める。
戒覚が北宋に渡り皇帝神宗から紫衣を賜与される。
1083年 - 後三年の役( - 1087年)。
1084年
教皇グレゴリウス7世がロベルト・イル・グイスカルドに救出され南イタリアのサレルノに亡命。翌1085年にその地で客死。
ケルンのブルーノがグランド・シャルトリューズを設立(カルトジオ会の創設)。
司馬光が『資治通鑑』を完成させる(1065年 - )。
1085年
カスティリア王アルフォンソ6世によるトレド征服。
プシェミスル家のヴラチスラフ2世が初代のボヘミア王に選ばれる。
イングランド王ウィリアム1世により「ドゥームズデイ・ブック」が作成される。
北宋で神宗の死去により哲宗即位。宣仁太后が摂政となり旧法党が復権(元祐更化 - 1093年)。
1086年
北宋で王安石・司馬光が相次いで死去。
白河天皇が第73代堀河天皇に譲位し、上皇として院政を開始し鳥羽離宮を造営。
サグラハスの戦いでムラービト軍がカスティリア王アルフォンソ6世を破る。
セルジューク朝の君主マリク・シャーと宰相ニザーム・アルムルクによりエスファハーンのジャーメ・モスク南ドームが着工される。
1087年 - ジェノヴァとピサの艦隊がズィール朝の都マフディーヤを占領する。
1088年頃 - ボローニャ大学が創建される。
1090年代[編集]
詳細は「1090年代」を参照
1090年
ニザール派指導者のハサン・サッバーフがアラムート要塞を占領する。
カスティーリャ王アルフォンソ6世の娘婿ラモン・デ・ボルゴーニャによりアビラの城壁が建設される。
1090年頃 - ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂が完成する(1063年 - )。
1091年 - マリツァ川の戦いで、ポロヴェツ族にペチェネグ族が敗北し、部族集団が壊滅。
1092年 - セルジューク朝宰相ニザーム・アルムルクが暗殺される。セルジューク朝君主のマリク・シャーが病没。
1093年 - 北宋で宣仁太后の死去により哲宗の親政が始まり、新法党が復権(紹聖の紹述 - 1100年)。
1094年
ファーティマ朝カリフのムスタンスィルの死去により、ムスタアリーがカリフとなり兄弟のニザールは廃嫡される。
エル・シッドがバレンシアをイスラム教徒から奪回する。
1095年 - ローマ教皇ウルバヌス2世によるクレルモン教会会議。
セルジューク朝の攻撃を受けていた東ローマ皇帝アレクシオス1世の救援要請を受け、対イスラム教徒戦への参加を呼びかける。
1096年
第1回十字軍出発。民衆十字軍壊滅。
ドイツ・ラインラント各地でユダヤ人虐殺が発生。
逃亡したユダヤ人の多くはポーランド公ヴワディスワフ1世ヘルマンのもとで庇護される。
掖庭の獄。
永長の大田楽。
1097年 - 北宋で洛獄・同文館の獄が相次いで起こる。
1098年
ノルウェー王マグヌス3世(裸足王)がオークニー諸島・マン島・ヘブリディーズ諸島を占領しスコットランドを屈服させる。
モレームのロベールがシトー修道院を設立(シトー会の創設)。
十字軍のアンティオキア占領。これに乗じてファーティマ朝がセルジューク朝からエルサレム奪還。
1099年 - エルサレム攻囲戦で十字軍がファーティマ朝に勝利し占領。エルサレム王国成立。
この時期までにアンティオキア公国・トリポリ伯国・エデッサ伯国など十字軍国家が成立する。
1100年代
詳細は「1100年代」を参照
1100年 - 北宋で哲宗の死去により徽宗即位。欽聖太后が摂政となり新法・旧法両党から登用し融和を促す( - 1101年)。