12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。
目次  
1    12世紀の歴史
1.1    ヨーロッパ
1.2    西アジア
1.3    東アジア
1.3.1    中国
1.3.2    日本
2    できごと
2.1    1100年代
2.2    1110年代
2.3    1120年代
2.4    1130年代
2.5    1140年代
2.6    1150年代
2.7    1160年代
2.8    1170年代
2.9    1180年代
2.10    1190年代
2.11    1200年代
3    伝説・フィクションのできごと
4    人物
4.1    キリスト教世界
4.1.1    フランス
4.1.2    イングランド
4.1.3    スコットランド
4.1.4    イタリア
4.1.5    イベリア半島
4.1.6    神聖ローマ帝国
4.1.7    北欧
4.1.8    東ローマ帝国
4.1.9    東欧
4.1.10    十字軍国家
4.2    イスラム世界
4.3    南アジア・チベット・東南アジア
4.4    東アジア
4.4.1    北宋・南宋
4.4.2    金
4.4.3    遼・西遼
4.4.4    高麗
4.4.5    日本
5    脚注
6    関連項目


12世紀の歴史
ヨーロッパ
西ヨーロッパでは、前世紀に続き二度、第2回と第3回の十字軍の遠征が行なわれた(詳しくは以下の「西アジア」の節を参照)。また古典の文化がイスラム・ビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、哲学、美術、文学などの分野でも新しい動きを見せた(12世紀ルネサンス)。
西アジア
十字軍に対するイスラムの反撃が始まり、1144年にエデッサが陥落する。これを受け、第2回十字軍がシリアのダマスカスを攻撃したが、敗退した。1187年、アイユーブ朝のスルタン、サラーフッディーンによりエルサレム王国軍が壊滅し(ヒッティーンの戦い)、約90年ぶりにエルサレムがイスラム側によって奪還された。この事件は第3回十字軍遠征(1189年-1192年)に発展したが、イングランドとフランス、そして神聖ローマ帝国の十字軍は薄く延びる沿岸地域の奪還にとどまった(ただし、休戦協定によりキリスト教徒のエルサレム巡礼の自由は保証された)。
東アジア[編集]
中国[編集]
中国では、遼に服属していた女真が指導者完顔阿骨打により独立し金が建国された。金はその10年後には遼および北宋を滅ぼし北半を征服、新たに再興した南半を制する南宋と対峙することになる。
日本[編集]
平安時代後期から鎌倉時代最初期にあたる。
天皇家・摂関家を巻き込む政争「保元の乱」「平治の乱」により武士の政治的地位が上昇した。両乱で活躍した平清盛の打ち立てた平氏政権が栄えたが、治承・寿永の乱(源平合戦)における最終決戦「壇ノ浦の戦い」で源氏を筆頭とする勢力が勝利し平家が滅亡したことにより、源氏の頭領源頼朝による新たな武家政権である鎌倉幕府の成立に至る。

壇ノ浦の戦い。
できごと[編集]

「清明上河図」。爛熟する北宋末期の徽宗皇帝「宣和時代」の開封の都を張択端が描いたもので現在は北京故宮博物院に所蔵されている。

金と南宋。紹興の和議により宋は中国北部を失うが、経済的には大いに繁栄した。

宋学の大成。南宋では理気二元論が整備されるとともに大義名分論が盛んに唱えられた。画像は朱熹の肖像で、彼のもとで宋学が深められたことから「朱子学」とも呼ばれるようになった。

高麗青磁。この世紀の後半には独自の象嵌青磁が誕生する。画像はソウルの澗松美術館の「青瓷象嵌雲鶴文梅瓶」。

厳島神社。保元の乱と平治の乱に勝利した平氏が栄華を極めていた。

ホイサラ朝の勃興。南インドのマイソール地方のホイサラ朝はこの時代に後期チャールキヤ朝の支配を脱し勢力を拡大した。画像は首都ドーラサムドラに建てたホイサレシューヴァラ寺院で細密な彫刻を全面に施すホイサラ様式が特徴である。

サラーフッディーン。エジプトのファーティマ朝を倒してアイユーブ朝のスルタンとなりスンナ派の信仰を復活させた。また十字軍と戦ってエルサレムを奪回しイスラム世界を守った英雄として名高い。

イブン・ルシュド。西方イスラム哲学を代表する学者でアリストテレスの注釈から二重真理説や知性単一論を発展させ、「アヴェロエス」の名でスコラ学にも大きな影響を与えた。画像は故郷コルドバに建てられた彫像。

12世紀ルネサンスとトレド。1085年にイスラム教徒から奪回されたトレドはかつての西ゴート王国の首都で、この時期はレコンキスタの最前線であった。イスラムを経由した学術的な著作がこの世紀には多数ラテン語訳された。画像は現在のトレド市街の眺望で左右にアルカサルとトレド大聖堂が見渡せる。

アベラールとエロイーズ。12世紀ルネサンスのスコラ学を代表するアベラールは唯名論者として名声を得ていた。エロイーズとの悲恋も有名である。

シトー会の世紀。シトー会は華美に流れたクリュニー会を批判し、厳格な修道規則と労働の重視により西欧の大開墾運動にも影響を与えた。画像はシトー会最盛期の指導者クレルヴォーのベルナール(ベルナルドゥス)を描いた13世紀の『黄金伝説』の細密画。

アンジュー帝国の一族。プランタジネット家のアンジュー伯アンリはイングランド王ヘンリ2世として選出されるとともに、王妃アリエノールとの婚姻を通じてフランス最大の領主ともなった。画像の上段左からヘンリ2世王と若ヘンリーとリチャード1世獅子心王、下段左からジョン欠地王とヘンリ3世。

ルイス島のチェス駒。1831年にスコットランド北西部アウター・ヘブリディーズのルイス島で発見されたもので12世紀ノルウェー支配下で造られたと推定される。全78個のうち67個が大英博物館に、11個がスコットランド国立博物館にある。

イフェの青銅彫刻。イフェはナイジェリアにあったヨルバ人の王国。ノク文化の影響を受けて発展させた高度な鋳造技術による青銅彫刻が有名。画像は大英博物館所蔵の人物像。
1100年代[編集]
詳細は「1100年代」を参照
1101年
源義親の乱(康和の乱)( - 1108年)。
大地震により興福寺金堂・大門倒壊する。興福寺と金峰山の僧徒争う。
メルシヴァンの戦いで、ルーム・セルジューク朝軍が「1101年の十字軍」を壊滅させる。
1102年
北宋の蔡京が「元祐党籍碑」を建て、旧法党関係者を追放する。
村上源氏が公卿の過半数を占める。
1103年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世による最古のラント平和令。
1107年
堀河天皇が没し、宗仁親王が即位(第74代鳥羽天皇)。
ウェストミンスター合意。
イングランドでの叙任権闘争が終結し、国王ヘンリー1世とカンタベリー大司教アンセルムスが和解。
ノルウェー王シグール1世の十字軍遠征始まる(ノルウェー十字軍。 - 1110年)。
1110年代[編集]
詳細は「1110年代」を参照
1112年 - 白河法皇の還暦祝いで「三十六人歌集(西本願寺本)」が宮廷で制作される。
1113年
永久の変。
聖ヨハネ騎士団が認可される(創設は1023年頃か)。
キエフ洞窟修道院の修道士で年代記者ネストルにより『原初年代記』がまとめられる。
1115年
女真族の完顔阿骨打が金を建国。
異端とされたアントウェルペンのタンケルムが殺害される。
1117年 - ホイサラ朝のヴィシュヌヴァルダナがチェナケシェヴァ寺院を建立する。
1118年
アラゴン王アルフォンソ1世のサラゴサ占領。サラゴサはアラゴンの首都となる。
東ローマ皇帝ヨハネス2世コムネノスが即位。姉のアンナ・コムネナの陰謀事件。
1119年 - 金の太祖阿骨打の命により完顔希于や葉魯らが女真大字を作成(小字は1138年に熙宗により制定)。
1120年代[編集]
詳細は「1120年代」を参照
1120年
北宋と金との海上の盟が結ばれる。北宋で方臘の乱が起こる。
ホワイトシップの遭難。
1120年頃 - ホイサラ朝のヴィシュヌヴァルダナがホイサレシューヴァラ寺院を建立する。
1121年 - ソワソン教会会議でアベラールが異端宣告される。
1122年 - ヴォルムス協約。
叙任権闘争全般が終結し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世とローマ教皇カリストゥス2世が和解。
1123年
鳥羽天皇が譲位し、第75代崇徳天皇が即位する。
第1ラテラン公会議。
1124年 - 藤原清衡が平泉の中尊寺金色堂を建立。
1125年 - 金が遼を滅ぼす。
1126年 - 靖康の変により金が北宋を滅ぼす。徽宗・欽宗が金に連行される(二帝北行)。
1127年
欽宗の弟康王趙構が南京で南宋を立てる。
新立の荘園を停止する(大治の荘園停止令)。
1128年 - トロワ教会会議でテンプル騎士団が認可される(創設は1119年)。
1129年
白河法皇が没し、鳥羽上皇が院政を開始する。
明受の変。
1130年代[編集]
詳細は「1130年代」を参照
1130年
アナクレトゥスのシスマ。
ノルマン人ルッジェーロ2世が南イタリア・シチリアにシチリア王国を建国。
トランカヴェル家によりカルカソンヌの城塞都市の建設が始まる。
1130年頃 - ノルウェーにあるウルネスの木造教会が建設される。
1131年
コンスタンティノポリス総主教からキエフ大公ユーリー・ドルゴルーキーに「ウラジーミルの聖母」が贈られる。
アマルフィ公国がシチリア王国に併合される。
1132年
遼の皇族耶律大石が西遼を建国。
南宋が臨安(杭州)に都を定める。
1136年 - ノヴゴロド公フセヴォロドが追放される(12世紀のノヴゴロドの革命)。
1137年 - アラゴン王国とバルセロナ伯国の連合によるアラゴン連合王国の成立。
1139年
ポルトガル王国が建国される。
第2ラテラン公会議。
1140年代[編集]
詳細は「1140年代」を参照
1140年
スコットランド王デイヴィッド1世がイングランドよりカーライルの貨幣鋳造所を支配下に納め、スコットランドで初めてコインを製造。
サンス教会会議でのクレルヴォーのベルナールの告発で、アベラールが再び異端宣告される。
ヴァインスベルクの戦いで、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世がヴェルフ家に勝利する。
この戦いでヴェルフ派は「ヴェルフ」とホーエンシュタウフェン派は「ウィーベリン」と呼ばれ、イタリアでは「教皇派(ゲルフ)」と「皇帝派(ギベリン)」と呼ばれるようになる。
1141年
カトワーンの戦いで西遼の耶律大石がセルジューク朝のアフマド・サンジャルに勝利する。
南宋で主戦派の岳飛が和平派の秦檜の陰謀により反逆罪で処刑される。
1142年
南宋と金の紹興の和議。
崇徳天皇が譲位し、第76代近衛天皇が即位。
聖ヨハネ騎士団がクラック・デ・シュヴァリエを獲得。以後大幅な拡張工事を行う( - 1170年)。
1144年 - 最初のゴシック建築とされるフランスのサン=ドニ大聖堂が完成する(1136年 - )。
1145年 - モールス太守ザンギーが十字軍国家エデッサ伯領を征服する。
1147年
第2回十字軍(-1149年)。ヴェンド十字軍。
ポルトガル王アフォンソ1世がリスボン攻防戦でリスボンをイスラム勢力から奪回。
ムワッヒド朝がムラービト朝を滅ぼす。
祇園闘乱事件。
1148年
シチリア王国が北アフリカのマフディーヤを制圧しズィール朝が滅亡。
1150年代[編集]
詳細は「1150年代」を参照
1150年 - ゴール朝のアラーウッディーンがカンダハール近郊の戦いでガズナ朝に勝利。
ゴール朝はガズナを占領し、ガズナ朝はパンジャーブ地方のラホールに遷都。
1152年
アリエノール・ダキテーヌがフランス王ルイ7世と離婚し、同年アンジュー伯アンリと再婚する。
シャンパーニュ伯アンリ1世が伯位を継ぐ。シャンパーニュの大市などの振興政策を行う。
1154年 - アンジュー伯アンリがイングランド王ヘンリ2世となりプランタジネット朝を開く(アンジュー帝国)。
1155年
スウェーデン王エリク9世のフィンランド遠征。北方十字軍始まる。
オーストリア辺境伯ハインリヒ2世がオーストリア公に昇爵。
この時期までにハインリヒ2世はクロスターノイブルクからウィーンへ遷都する。
ローマから急進的改革者アルノルド・ダ・ブレシアが追放され火刑に処せられる。
近衛天皇が没し、第77代後白河天皇が即位。
1156年 - 鳥羽法皇が没する。保元の乱。
1157年
スルタンのアフマド・サンジャルの病没により、統一セルジューク朝が滅亡。
ブランデンブルク辺境伯が設置される。
1158年 - 後白河天皇が譲位し、第78代二条天皇が即位。
1159年
平治の乱。
ザクセンのハインリヒ獅子公がリューベック市を建設。
1160年代[編集]
詳細は「1160年代」を参照
1160年
ウラジーミルの生神女就寝大聖堂が完成する。
南宋で会子が紙幣として発行される。
1161年 - 金が南宋との采石機の戦いで敗北。海陵王が廃位殺害され世宗が即位。
1162年頃 - セーナ朝のバッラーラ・セーナ王がパーラ朝を滅ぼしベンガルを統一。
1163年 - パリのノートルダム大聖堂が着工される(最終的な完成は1345年)。
1164年
平重盛が正三位に叙される。平家一門が厳島神社に装飾経を寄進(平家納経)。
南宋と金の隆興の和議(乾道の和議)。
スウェーデンのガムラ・ウプサラに大司教座が置かれる。
1165年 - 二条天皇が譲位し、第79代六条天皇が即位。
1165年頃 - 東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスのもとに司祭王ヨハネス(プレスター・ジョン)を差出人とする書簡が届けられる。
1167年
平清盛が太政大臣となる。
南フランスのカラマンにてカタリ派の教会会議が開催される。
この会議を主催したのは東方から来たボゴミル派(ドラゴヴィツァ派)のニケタスとされている。
1168年
朱熹と陸九淵の鵞湖の会がもたれる。
六条天皇が譲位し、第80代高倉天皇が即位。
ロスキレ司教アブサロンの指揮でデンマーク軍がスラブ系異教徒ラーン人の根拠地リューゲン島を征服。
1169年 - エジプトでサラーフッディーンがファーティマ朝の宰相となる。
1170年代[編集]
詳細は「1170年代」を参照
1170年 - カンタベリー大司教トマス・ベケット暗殺事件。
1171年
エジプトのファーティマ朝が断絶。代わってサラーフッディーンがアイユーブ朝を興す。
イングランド王として初めてヘンリ2世がアイルランドに上陸し東海岸地帯を支配。
1173年 - ピサの斜塔が着工される(最終的な完成は1372年)。
1174年 - 平清盛が大輪田泊(神戸)に経が島(経ヶ島)を築く。
1176年
レニャーノの戦いで、ロンバルディア同盟が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に勝利。
ミュリオケファロンの戦いで、ルーム・セルジューク朝軍が東ローマ皇帝マヌエル1世に勝利。
1177年
後白河法皇の側近達が鹿ケ谷の陰謀を企てるが失敗。安元の大火(太郎焼亡)。
カスティーリャ王アルフォンソ8世が要塞都市クエンカを占領。
モンジザールの戦いで、エルサレム国王ボードゥアン4世がサラーフッディーンに勝利する。
1178年 - 治承の大火(次郎焼亡)
1179年
第3ラテラン公会議。
治承三年の政変。
1180年代[編集]
詳細は「1180年代」を参照
1180年
ゲルンハウゼン帝国議会。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が、ザクセン・バイエルン公ハインリヒ3世を帝国追放刑に処し所領を没収。
バイエルンはヴィッテルスバッハ家が、ザクセンはアスカーニエン家が領有する。
レバノンのマロン派教会が教会合同でローマ教会に復帰する。
高倉天皇が譲位し、第81代安徳天皇が即位。
以仁王が令旨を下し挙兵(以仁王の挙兵)。源頼朝ら各地の源氏が平氏に対して挙兵。福原行幸。
1181年
南都焼討、平清盛死去、養和の大飢饉。
クメール朝カンボジア国王にジャヤーヴァルマン7世が即位。
最初の仏教信者の王としてアンコール・トム(バイヨン・象のテラス・ライ王のテラス他)の都城を建設。
ハンガリー国王ベーラ3世がザダル(ザラ)を含むアドリア海沿岸のダルマティア地方を占領する。
1182年 - アンドロニコス・コムネノスが東ローマ帝国皇太后マリアを殺害。
皇太后暗殺と同時にコンスタンティノポリス在留のヴェネツィアやジェノヴァなどラテン人も虐殺する。
1183年 - 源義仲が京に進軍し平氏が都落ち。平氏とともに西走した安徳天皇と並立して第82代後鳥羽天皇が即位。
1184年
宇治川の戦い。一ノ谷の戦い。
教皇ルキウス3世によりワルドー派が異端とされる。
1185年
屋島の戦い。壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡。安徳天皇は祖母平時子に抱かれて入水し8歳で崩御。
後白河法皇による東大寺大仏再建の開眼供養が行われる。
ノルマン系シチリア国王グリエルモ2世が東ローマ帝国のテッサロニキを陥落させる
これで狂乱状態となった首都市民により皇帝アンドロニコス1世が殺害され、コムネノス朝が断絶する。
アセンとペタルの蜂起。第二次ブルガリア帝国が建国され皇帝ペタル4世が即位。
ロシアのイーゴリ公がポロヴェツ族(キプチャク族)に大敗。
1187年 - ヒッティーンの戦いで、アイユーブ朝のサラーフッディーンがエルサレム王国の十字軍を壊滅させる。
エルサレム国王ギー・ド・リュジニャンは捕縛され、エルサレム市街はアイユーブ朝に降伏する。
1189年
スコットランド王ウィリアム1世がイングランドからの主権を回復(カンタベリー協定)。
第3回十字軍(-1192年)。
奥州合戦により奥州藤原氏滅亡。
ホイサラ朝のバッラーラ2世が後期チャールキヤ朝を滅ぼす。
1190年代[編集]
詳細は「1190年代」を参照
1190年 - フランス王フィリップ2世がセーヌ川右岸のシテ島近辺に城砦を構える(ルーヴル宮殿の始まり)。
1191年
アルスフの戦いで、リチャード1世の十字軍がサラーフッディーンを撃退。
イングランドのグラストンベリー修道院の墓地でアーサー王の古墓が発見されたとの報告がなされる。
1192年
源頼朝が征夷大将軍となる(一般的にはこれを以って、鎌倉時代の始まりとされる)。
サラーフッディーンとリチャード1世の休戦協定。
十字軍はシリアの海岸の領土とエルサレム巡礼の許可を得るだけにとどまる。
帰国途中のリチャード1世をオーストリア公レオポルト5世が拘束する。
タラーインの戦いで、ゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドがチャーハマーナ朝のプリトヴィーラージャ3世に勝利する。
翌年にはデリーを占領しゴール朝の北インド支配が確定、ラージプート勢力は支配に服する。
金の都燕京(北京)の盧溝橋が完成する。
1193年
曾我祐成・曾我時致兄弟が父の仇工藤祐経を討つ(曾我兄弟の仇討ち)。
ゴール朝の将軍ムハンマド・バフティヤール・ハルジーがインドのナーランダ寺院を破却。
1194年
南宋の孝宗(太上皇帝)が死去。皇帝光宗が趙汝愚・韓侂冑らに廃位され寧宗が即位(紹煕の内禅)。
ホラズム・シャー朝がセルジューク朝を滅ぼし、イラン・イラクを制圧。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世のシチリア遠征。パレルモは降伏しオートヴィル朝は断絶。
1195年
アラコルスの戦いでムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールがカスティーリャ軍に勝利。
東ローマ皇帝イサキオス2世が廃位され、弟のアレクシオス3世が即位。
1196年
慶元の党禁により朱熹の学派が弾圧される。
建久七年の政変。
1197年 - ムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールが哲学を禁止し哲学者イブン・ルシュドを追放。
1198年
後鳥羽天皇が譲位し、第83代土御門天皇が即位。
プシェミスル朝のボヘミア公オタカル1世が陞爵してボヘミア王となる。
教皇インノケンティウス3世がフランス国王フィリップ2世を離婚問題から聖務停止に処す。
1199年
ハーリチ・ヴォルィーニ大公国(ガリツィア・ロドメリア大公国)が成立。
イングランド王リチャード1世が死去、弟ジョンが国王となる。
教皇インノケンティウス3世がドイツ騎士団を騎士修道会として認可する。
1200年代[編集]
1200年
朱熹が死去。